連載エッセイ73:私の中南米秘話ヒストリア その1 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ73:私の中南米秘話ヒストリア その1


連載エッセイ72

私の中南米秘話ヒストリア その1

執筆者:渡邉裕司(元ジェトロ・サンパウロ所長)

「消えゆくロマン~ 戦艦シュペー号」

南半球ブエノスアイレスの冬は寒い・・temperatura 14 grados y la sensación térmica ¡ zero grado !・・朝の天気予報が小気味よくラジオから流れる。イタリア移民の影響を受けたラプラタ訛りの弾ける様なスペイン語が妙に心地良い。気温は 14℃もあるというのに小雨煙るこのヨーロッパ風の街は高い湿度のせいで冷たく体感温度は零度にもなる。着任して間もない最初の冬、歩くと靴は濡れ外套を着こむ人々の表情も心なしか暗い。あの底抜けに明るいブラジル人のそれとは違う。正直、首都の真冬はあまり快適ではない。

初めて駐在した 1980 年のそんなある日、現地の人から面白い話を聞いた。目抜き通り Florida と Lavalle の交差点にあのドイツ戦艦シュペー号の元乗組員が経営するドイツ・レストランがあるというのだ。名は Restaurante ABC・・ABC は南米大陸 Cono Sur 三カ国アルゼンチン、ブラジル、チリの頭文字。生来の野次馬根性も手伝って早速昼食に。ボーイにあの、シュペー号の・・と言いかけるや即座に奥から初老のシェフ二人を私のテーブルまで連れてきたのには恐縮した。

昼食時の多忙だというのに満面笑みを浮かべて迎えるその顔は明らかにドイツ人の風貌、強い訛りのスペイン語をとつとつと話す。悪いので長話はしなかったがシュペー号の人ですね、と言うとああ、そうだよ、と愛想がいい。シュペー号事件は 1939 年、その時 20 才代とすれば年齢は 60 過ぎだろうか。今、あれから更に 40 年の歳月が流れた。ネットで検索すると ABC は今も健在。がドイツ料理店として確かにヒットはするがシュペー号ゆかりの言及が全くない。調べると日本の旅行ガイド本も同じ。大戦初期、世界に名を馳せたドイツ戦艦の歴史のロマンがこうして人の記憶から消えゆくのは私の様な年代にとっては忍びない。

戦艦シュペー号の話を聞いた事があるだろうか。第二次大戦勃発直後の 1939 年末、日本は昭和 14 年、日中戦争が泥沼化し、対米開戦へと進む頃、大西洋ではドイツ海軍軽巡洋艦 Admiral Graf Spee (グラフ・シュペー提督号)が大暴れしチャーチルを悩ませた。

英商船を次々撃沈しアルゼンチン産食糧原料のシーレーン寸断作戦に出たのだ。が間もなく艦を必死に追う英艦隊に包囲され、ラプラタ河沖で被弾損傷、シュペー号は修理と補給を求め中立国ウルグァイのモンテビデオ港に逃げ込んだ。英国の圧力に屈したウルグァイ政府は 72 時間の猶予を与えたあと艦を出港させた。ヒトラーがドイツ海軍の面目にかけ徹底抗戦を命じたのは言うまでもない。が艦長は従わない。総員艦を離れ 12 月 17 日、自爆沈没した。この一部始終はラジオで生中継され世界は数日間、艦の運命に釘付けとなる。

艦長は乗組員をペロンら軍部親独枢軸派が台頭しつつあった隣国ブエノスアイレスに上陸させた後、一人ホテル自室で自決した。ナチ式敬礼ではなくドイツ海軍伝統の敬礼で戦死乗組員の埋葬に臨むなどナチ党に背く反骨の海軍士官だったという。当時モンテビデオ日本商社駐在員で戦後帰化した友人の O 氏も事件の始終に固唾をのんだ一人・・氏によればシュペー号の自沈位置は河口近く水深は浅い。潜水夫が引揚げ調査に潜ったところ強い流れに巻かれて溺死、二度目の挑戦も再び犠牲が出た。ラプラタの化身シュペー号の逆鱗に触れたのか。

自沈後、暫くは艦橋を水面上に晒したがその後姿を消し以来、人を近づけなかった。事件は戦後、日本語訳小説がハヤカワ文庫から刊行され私が小学 4 年頃に映画化もされ日本でも封切られた。日本語タイトルは「戦艦シュペー号の最期」、原作名 The Battle of the River Plate (ラプラタ沖海戦:英 1956 年、M.パウエル・E.プレスバーガー両監督)。が映画は見れずじまい。小中生の洋画鑑賞は学校が禁じていたため下校時、映画館のポスターを眺めるだけ、絵にかいたモチだ。外国映画は抱擁シーンがある・・大した事じゃない?のにと子供心の何故、は今もわだかまる。

「漁夫の利~ 初の近代電子戦」

まさか西側陣営身内に最新鋭兵器の実験場となる軍事衝突が起きようとは誰も夢想だにしなかった冷戦下の 1982 年。アルゼンチンが突如、領有を主張する英領フォークランド諸島(ア名:マルビナス諸島)を軍事占領したのだ。内政行き詰まりの打開に時の軍事政権が打った最後の賭けだった。驚いたのは英国だけではない。西の対ソ戦略にも影響しかねないと懸念したレーガン政権は必死の仲介に乗り出すも失敗、外交交渉は決裂し、サッチャー政権は自力で大西洋南北 13,000km の補給に耐え甚大な損害を出しながら反攻に出て島を奪還、辛うじて大英帝国の威信を保った。

中南米軍政の全盛期 1960-70 年代、破滅から国家再建を託された軍部の仕事ぶりも国によって明暗を分けた。目的を達せぬまま民政移管で政権を投げ出したのがペロニスタ政権を倒して登場したアルゼンチン軍事政権(1976-83 年)。極左テロ鎮圧で内戦状態の治安を回復したものの自由開放経済による改革は期待を裏切った。当時、世界を席巻したシカゴ学派のレッセフェールで産業を国際競争に晒せば投資と技術革新で競争力をつけ長期的に成長に転ずるはずであった。が劇薬は効き過ぎた。結果は輸入急増、高インフレ下の外資流入で通貨ペソの過大評価が進み輸出と投資は停滞して国内産業は疲弊、対外債務は累積して社会格差が拡大した。食糧、エネルギーのあり余るこの豊かな国で大衆層の信じ難い貧困化が進行した。

南半球にも穏やかだが四季の変化はある。僅かに秋の気配を感ずる 1982 年 3 月、ブエノスアイレスに不穏な空気が流れ始めた。政局は不安定化し首都中心部は軍部の宿敵ペロニスタ系 CGT 労働総同盟が指令する反政府デモが荒れ、左翼も加わって日々、騒然となった。空は軍警察のヘリが舞い、地上はナンバープレートを半分隠した覆面公安車 Ford Falcon が猛スピードで走り抜ける、一時の内戦状態は終わっていたが軍の都市ゲリラ狩りはまだ続く。捕まれば生きて帰れる保証はない。レストランの厨房まで逃げ込む者、拳銃を抜いてこれを追う私服、その緊迫の光景を見物する客・・目の前の騒乱状態にイヤな予感がした。これは何かある・・

4 月 2 日の朝刊一面に DESEMBARCARON TROPAS ARGENTINAS ・・ア軍マルビナス上陸、主権を奪還の見出し。戦争だ。鬱積する国民の不満を外敵を作って、内から外に向けナショナリズムを利用して結束する。これをテコに軍政の出直しを図る。軍の読みは的中し、この日、大統領府前広場は一転して、右も左も全勢力が終結、軍政を支持し、領土奪還に歓喜する大群衆で埋まった。まるで昔のペロン時代の再来である。この日以降、日本のラジオ局文化放送から電話インタビューがきてそれがそのまま生放送で流れた。私の声をラジオで聴いたというリスナーが帰国後、周囲に何人もいたのには驚いた。

日本大使館の防衛武官に訊くと、占領された島を陥とすには島の守備兵力の三倍の兵員が要るというのが常識、しかも島は間もなく厳冬期に入る。凍てつく島嶼への上陸補給は困難で英国に残された道は外交交渉しかないだろうと。仕事で付き合いのあった在ア英国人 S 氏は葬儀屋から黒い花環が届けられ、外では家族が嫌な思いをすると。「敵性人」への明らかな嫌がらせ、彼の最後の一言が妙に気になった。この戦争はすぐ終わる・・どちらが勝つとは言わなかったが英国人は見抜いていたのだろう。そして戦局は我々の知らぬ間に予想外の展開を見せた。

“衰退する英国”の軍事力、遙か南半球南端に伸びる兵站に英軍は耐えられない。勝利は手にしたも同然だった。がこの読みは軍事政権の大誤算となる。6 月 14 日午後、ロンドン筋から、私にア軍降伏の連絡、ア政府は沈黙を続け夜になって「両軍停戦合意」を発表した。Queen Elizabeth 号から原潜、軽空母他多数の艦船を動員した英機動艦隊の大部隊は 5 月、島の無防備地点に地上部隊を上陸させ、地上戦を開始した。空から猛反撃するア軍、最後は昼夜の白兵戦の死闘の末、6月14日首都Port Stanley(ア名:Puerto Argentino)が陥落し、終戦した。

戦況は毎日、ア軍統合参謀本部声明で国民に伝えられたが、味方の損害が過小過ぎる不自然な内容が多く、日本人仲間はこれを大本営発表と陰口した。軍事政権が友好国と見做す国のある外交官が戦後間もなく、軍に招かれ軍事機密映像を見せられた。それはア軍降伏直前の最期の夜間白兵戦、壮絶な記録だった。ブスッ、ブスッ・・兵士が斃れる。それは銃弾が人を貫通する時の鈍い音だった・・

アルゼンチンの降伏に、今度は敗北を認めない民衆が激高、口々にアルゼンチンは無敵だ Argentina jamás será vencido! と叫んで暴徒化し、大統領府前広場は催涙弾とゴム弾が飛ぶ修羅場と化した。現場を見た私は早々に退去したが、地下鉄車内の乗客は無言でうつむく。鼻をすする音だけが途切れ途切れ聞こえる。催涙ガスが滲みてだろう、泣いている様に見えた。軍事政権の終焉は間近だった。翌朝刊の見出しは CAYO GALTIERI・・軍事政権を構成する三軍司令官の筆頭ガルティエーリ大統領兼陸軍司令官が失脚、軍は後任臨時大統領の指名と民政移管を発表した。

アルゼンチン戦死 649、英 225・・艦艇、航空機等双方損害多数・・戦争は勝った方も得るものはなく失うだけだ。が国家に殉じた英霊には申し訳ないが、戦争では誰かがトクをする。世界有数の兵器輸出国に成長した新興工業国ブラジルがアルゼンチンにこの戦争で大量の兵器を売却した。緑色の厚いシートで覆われた弾薬輸送車が何台も頻繁に国境を越えるのを見たという人もいる。

英艦隊を最も苦しめたのは空からの攻撃。ミラージュで有名な仏ダッソーブレゲー社製シュペル・エタンダール機はエグゾセ対艦ミサイル(仏アエロスパシアル社製)で英駆逐艦、輸送船を何隻も沈めた。その後エグゾセは対艦ミサイルの代名詞にもなる。この新鋭兵器は今で言う IT を駆使したハイテク兵器、当時史上初の近代電子戦と言われた。海面低く飛びレーダーで捕捉できない新型ミサイルの威力が初めて実戦で証明された。フランス軍需産業が米ソ冷戦の狭間で漁夫の利を得、ソ連は西側陣営に楔を打つ好機とみて衛星で捉えた英艦隊の動向をアルゼンチンに提供した。

そして中南米諸国の多くが「反英植民地主義」からアルゼンチンの軍事行動に連帯を表明する中、隣国チリだけは違った。国境線紛争を抱えるアルゼンチンはチリの仮想敵国、本土南部から洋上攻撃に出撃するア空軍の動きは逐一チリによって英国に提供された。米ソ冷戦下のこの宣戦布告なき局地紛争は地政学的拡がりも見せながら IT が主役を演ずる新たな時代の到来をも予感させた。

被弾炎上する英フリゲート艦アンティロープ