連載エッセイ77:「記憶を記録に」 『なつかしの中南米エアーライン・ネットワーク』 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ77:「記憶を記録に」 『なつかしの中南米エアーライン・ネットワーク』


連載エッセイ74

「記憶を記録に」
『なつかしの中南米エアーライン・ネットワーク』

執筆者:設楽 知靖 元千代田化工建設(株)、元ユニコインターナショナル(株)

1.最初のフライトと、中南米への赴任:

中南米地域には、33カ国の独立国が存在する。この地域に業務で出張、駐在を繰り返した。そのほとんどの国を訪ねるにあたって、そこをネットする航空会社の便を利用したが、1970年から2015年の間にかけて、多くの航空会社が合弁,吸収、あるいは閉鎖されて今日では少なくなり、寂しいかぎりである。それらを懐かしんで、記憶を思い起こして、記録してみたいと思う。

先ず、私が初めて乗った航空会社(エアーライン)は、学生時代に中米を訪問した時の『フライング・タイガー・ライン』であった。当時、この航空機は、ベトナム戦争に兵員を米国からベトナムへ輸送する任務を、主に行っていた。1965年、中米エルサルバドル国の招待で、初めて乗った航空機がフライング・タイガーであった。この機体はターボプロップのプロペラ機で、おそらく、私はプロペラ機で太平洋を横断した最後の人間の一人になったのではと思っている。

この時は,羽田から米国のシアトル・タコマ国際空港を経由して、そこからロッキー山脈を南下して中米のエルサルバドルの首都、サンサルバドルのイロパンゴ国際空港に到着して、コロニア風の空港ターミナルと、そこに咲くブーゲンビリアとハイビスカスの真っ赤な花の姿は、今も脳裏から離れない。

それから5年後の、1970年4月、メキシコへ赴任するために乗ったのは羽田から、当時、太平洋線に初めてジャンボ機を飛ばしたパン・アメリカン航空で、そのジャンボ機で米国のロサンゼルス経由、そこから『ウエスタン航空』に乗り換えてメキシコに赴任した。メキシコ駐在の最初の一年では、国内線の『アエロメヒコ航空』と米国のヒューストンからメキシコのモンテㇾ―までの『テキサス・インターナショナル航空』ぐらいであったが、同じメキシコの『メヒカーナ航空』(Mexicana De Aviacion )、2018年に運行停止となったが、メキシコ・パナマ、メキシコ・カラカス間で利用した。

その後、メキシコから、次の赴任地、ブラジルのサンパウロへ向かうときは、ペルーの首都リマを経由して,今は無き航空会社『APSA』でブラジルへ、ブラジルに到着したのは、サンパウロから100キロメートル奥へ入った,カンピ―ナスのヴィラコポス国際空港だった。

2.最初の駐在地からの出張で、偶然にサッカーの王様と乗り合わせて:

三年間の駐在中、ブラジルには4社の航空会社があり、最大の会社は、バリグ航空会社(VARIG)で、ブラジル南部のリオグランデ・ド・スール州のドイツ移民が設立した会社で、日本にも乗り入れていた。出張には、その後よく利用した。このバリグ航空には思い出がある。それは、あの世界的に有名な『サッカーの王様、ペレー』で、メキシコに駐在していた、一年前の1970年は、メキシコでのサッカー・ワールドカップ(Copa Mundial)でブラジルが優勝した年であった。このペレーが所属するサントス・チームが南アフリカで親善試合を行うことになっていた。当時は,アパルトヘイトの問題でブラジルと南アフリカには国交がなく、サントス・チームは、ニューヨーク、ロンドン経由でヨハネスブルグへ行かなくてはならず,このリオからニューヨークへ行くVARIG便に乗ったもので、偶然にも、私は、同じフライトに乗り合わせたのだ。

ニューヨークJFK到着後、トランクをターンテーブルで待つ間にペレーと話す機会があり簡単な会話ができた。彼はチームのメンバーと同様に、トランクを自分で受け取り,通関して,次のロンドン行きに乗り継いでいったが、実に気さくな,紳士だった。このことをブラジルに帰国後、スタッフに話したところ、大変怒られてしまった。それは、『我々ブラジル人で生まれて、このかた、あこがれのペレーに会ったことも、話したこともないのに、設楽はブラジルに来て二年弱でペレーに会って話をしたのは許せない』と言うことだった。それだけあこがれの人だったのだ。

この駐在時、ブラジルにはVARIG航空の他に、三社の航空会社が存在し、国内線をカバーしていた。それは、サンパウロ州の州営航空のVASP,そして、ブラジルは昼間でも南十字星が見られると言われるCruzeiro do Sul(南十字星航空)、そして、元々は,ソーセージ会社で、自社製品輸送をしていたSADIA航空で、後にTransbrasil航空と改名した会社が運航していた。VARIGを含めた4社は、サンパウロとリオデジャネイロの間(コンゴニヤス空港とサントス・ドゥモン空港)でシャトル便を運航していて、度々利用した。機種によって日本製のYS-11もあり、その他の機種で、ある日,コンゴーニャス空港を飛び立って,主翼の部分についている主軸の車輪が引っ込まなくなって、空港へ引き返すトラブルがあり、代替えの機体が同じ機種で嫌な気分になったこともあった。

サンパウロからアルゼンチンへの出張では、VARIG便をよく使ったが、アルゼンチンの国内線では、ブエノスアイレスからアルゼンチン航空(Aerolineas Argentinas)やAustral航空に乗って、南の方へ向かった。そして、リオガジェゴスからティエラ・デル・フエゴの最南端のウシュワイアへは、アルゼンチン空軍のフレンドシップ機で内装のほとんどない、硬い座席のシートに座って行ったこともある。

3.フライトで、コカコーラが瓶ごと、デザートのリンゴが丸ごと出されて:

南米太平洋岸のエクアドルの製油所建設現場に勤務した時は、原油産出で、国が初めて航空機を持ち,エクアトリア―ナ社(Ecuatoriana)がマイアミからキトーまでを運航し、その最初の便にマイアミから搭乗した。この便はパン‣アメリカン航空から購入したボーイング707型機で、シートベルトのバックルはパン・アメリカンのロゴマークが付いていた。また、スチュワーデスはすべて、エクアドル人の女性で,新入社員ばかりの様子で、食事の前の飲み物は、コでコーラが瓶ごと出てくるは、食後のデザートのリンゴは丸ごと出てきたのには驚いた。エクアドルの国内線は二社ほどが運航していたが、一社は、空軍がオペレーションしているTAME(Transporte Aereo Militar Ecuatoriana) で、エスメラルダスの現場へはキトーの空港からDC-3の機体で通った。さらに、港町,グアヤキールへはSAETA航空を利用した。

南米の航空会社では、歴史の古いのがコロンビアのAVIANCA航空である。山国でアンデス山脈が北部で三つに分かれて深い谷を形成している国土なので、東西の交通はもっぱら飛行機に頼らざるを得ず、国内の移動は、首都のボゴタを中心に北のメデジン、バランカベルメッハ、カルタヘナ、バランキジャ、カハマルカ、南のカリへ運航していて、ほとんどがAVIANCAAで、スチュアーデスはコロンビア美人だった。その他の航空会社では、メデジン・ベースのSAM Colombia社、Aero Condor社が運航していた。 

チリ―は、LAN-CHILE(Linea Aerea Nacional de Chile)が中心で、最近は周辺国の航空会社を買収、あるいはグループ内に入れて拡大を図っている。その他にLADECO社(Linea Aerea de Cobre)が運航している。最南端の町,プンタ・アレーナスは、ほとんど毎日のように,風速25以上の強風が吹き、マゼラン海峡に面した港町であるが、帰りに空港で航空機に乗るときには、座席に着いたとたんに、機体が大きく揺れて、まるで船に乗っているようになり、ジャバラを離れて滑走路へ入ってエンジンをふかして滑走し始めると、直ぐに機体が浮き上がり、難なく離陸することができる空港である。着陸の時は、ふわふわと左右に揺れながら滑走路へ侵入するので、少し怖い気もするが。

ペルーでは,ファウセット(FAUCETT)という、APSAとともに運行していた航空会社があったが、このファウセットとは、イギリス人の探検家の名前で、アマゾンで行方不明となったと聞いた。また、APSAは1971年に、すでに運航を停止し、その後は、メキシコのアエロメヒコが投資して、フジモリ政権時代には、アエロペル―社が運航していたが、これも1999年に運行停止した。

南米中央部の山岳国、ボリビアには以前からLloyd Aereo Boliviana社が運航していて、健在である。さらに内陸国、パラグアイにはAir Paraguayが運航していたが、ブラジルのTAM(Transporte Aereo Mercosur)社がこの周辺をネットしている。ウルグアイにはPLUNA航空があるが、ブラジル線を中心に運航している。また、首都のモンテビデオとアルゼンチンのブエノスアイレスのパレルモ公園内の、アエロ・パルケ空港との間で、シャトル便を運航している。ラプラタ川をまたぐだけであるが、便利である。

南米の北部、ベネズエラは石油大国であるが、財政が豊かな時代にはインフラが発展した。航空会社の経営も順調であった。国際線の中心はVIASA航空(Venezuela International S.A.)が運航していて、北米、南米、ヨーロッパをネットしていた。よく利用したもので、乗客の態度はあまり良くなかった。

国内線は、海岸べりのマイケティア国際空港から、国内の東西の広い国土をネットしており、Aeropostal社とAVENSA社が運行していた。マイケティア国際空港には、ヨーロッパ各国の都市を結ぶ直行便が運航されていて、一時はエールーフランスのコンコルド機がパリーへ直行便を運航していた。この便は出発時刻と到着時刻が同じ日の同じ時刻で、時差時間で飛んでいる計算であった。

1976年からは、パナマに駐在したが、この時の中米諸国、カリブ海諸国へは数々の航空便を利用した。中米には、各国に自国の航空会社があり。国のシンボルとしての機能もあったように思う。グアテマラには、AVIATECA航空が国内をカバーし、有名なティカルの遺跡へも行けた。ホンジュラスには、SAHSA航空(Servicio Aereo Honduras S.A.)がマイアミや周辺国をカバーして、エルサルバドルにはTACA航空(Transportes Aereos Centro America)が、この航空会社は、一番経営が安定していて中米の航空会社を配下において、路線を拡大している。ニカラグアには革命後に、Aeronica社があったが、現在は、La Costena社が運航している様子である。

4.各駅停車のフライトのサンドイッチが美味しくて:

コスタリカには、LACSA社(Linea Aerea Costaricense S.A.)が首都のサンホセからパナマ経由、コロンビアのバランキジャ、ベネズエラのマラカイボ、カラカスのマイケティア空港への各駅停車を運航していて、パナマからカラカスへ出張するたびに利用したが、この便は、経由するところへ降りて、出発するたびに美味しい、ハム、ベーコン、ソーセージ、チーズ、サラミのサンドイッチがサービスされて、パナマから搭乗すると3~4回食べられた。また、パナマからの国際線では、地場のAir Panama社のメキシコ行きや中米の国へは、COPA(Compania Panamena de Aviacion)を利用したが、現在、Air Panamaはなく、COPAはコンティネンタル社が資本を入れて、似たようなデザインの機体で、北米やアルゼンチンへも運行している。

Air Panamaの思い出は、メキシコ線でアルコール飲料は無料だったが、『お代わり』と言われて、断ったら、スチュワーデスの機嫌が悪くなったことがあった。また別の日に、Air Panamaでメキシコへ出張するときに、チェックインしてイミグレーションを通り,空港税も払ってゲート近くで待っていると、アナウンスで隣国コロンビアのメデジン空港からまだ出発していないので、遅れるとのこと。そのアナウンスが数回繰り返されて、最後に、『今日は、このフライトは来なくなった。明朝8時に出発するからから、今日のホテル代と食事代を払うからカウンターへ来るように』とのこと。私は、パナマに住んでいるので、『家に帰って、明朝来る、ついては、パスポートには”出国”のスタンプが押されており、空港税は支払い済だが、どうすればよいか、と尋ねたところ、”明朝イミグレーションにいって事情を説明すればノー‣プロブレマだ“との返事で、そのまま帰宅して、翌日、問題なくイミグレーションを通って出国できた。しかし『私は、昨日出国したことになったままで』、パスポートの記録もそのままで、何とも後味の悪い二日間だった。さらに、中南米の国際線のネットワークは、ほとんどが北米ベースとなっており、メキシコのフライトスケジュールは、米国のそれに組み込まれているようである。

5、派手な機体とフライイング・キャバレーの美人スチュアーデス:

当時、よく利用した航空会社は、パナマからは、米国ダラス・ベースのブラニフ・インターナシヨナル(Braniff International)は、機体も派手であったが、スチュアーデスの服装がミニ,ミディー、パンタロンなどで、『フライイング・キャバレー』と呼んでいた。このフライトは南米の各国もカバーしていて、便利であった。

そして、アメリカ大陸の東側は、最初はパン・アメリカン航空がカバー、その後は、イースタン航空がカバー。パナマからトリニダード・トバゴへ出張するときは、KLMオランダ航空のキュラソー経由があり、カリブ海諸国へは、後にトリニダード‣トバゴが買収する、BWIA(British West Indies Airline)を利用した。さらにヨーロッパへは、英国航空(BA:British Airlines)もあり、ロンドンからカリブ海の旧英国領を経由するが、ある時、ロンドンからパナマへ帰国する時に、ヒースロー空港から搭乗し、食事をして寝ているうちに、まだカリブ海のバハマに着かないがと思っていたら、いきなりアナウンスで、“エンジン・トラブルで米国のJFKに向かっているとのこと。やがて、無事にJFKに着陸すると,乗機したまま3時間以上待たされた。窓から見ていると、どうやら乗客のトランクを降ろしている様子で,機体を軽くして離陸すると、次はマイアミに降りるというアナウンス。そこでさらに機体を軽くして,バハマには降りず、パナマへ直行するとのこと。途中のバハマで降りる人は、明日の便で、パナマから乗り換えるようにとのこと。私は、パナマに帰るので問題なかったが、夜中の12時を過ぎて到着し、トランクは着かず、明日のイースタン・エアーラインでマイアミからくるとのことで、翌日、空港へ行って無事に受け取った。

6.日本・中南米出張ルートは多種多様:

パナマから日本への出張ルートは、通常はイースタン・エアーラインでニューヨークへ出てJFKからJALやANAで成田へ向かうが、イースタン・エアーラインでマイアミからワシントンへ出て、タクシーでワシントン郊外のダレス空港へ行き、そこから、開設したANAの成田行き直行便で行くこともあった。また、マイアミからダラスへ出てアメリカン航空の直行便で成田へ向かうという方法もあった。さらに、Air Panamaでメキシコへ出て、JALのバンクーバー経由成田行きを選ぶこともあった。そして、パナマからVARIGブラジル航空で米国ロス・アンジェルスへ出て、JALやANAの成田行きを選択することもあった。このように多種多様なルートがあった。

現在は、航空会社の再編で、中米、南米共に航空会社の数が減ったり、グループ化されたりしている。昔は、JALがブラジルのサンパウロやメキシコへ乗り入れていて、そこで乗り換えて南米や中米の国へ行ったが、日本の航空会社も、ANAがメキシコ線へ直行便を乗り入れているだけとなった。また、パン・アメリカン航空が、フェアバンクス経由でニューヨーク便を運航していた時は、フェアバンクスでトランジット・ルームへ行くのに、飛行機のタラップを降りて,零下25度の雪の上を歩いたのは思い出の一つである。さらに、中南米域内の航空会社の名前を国別に覚えるのも、頭の体操になった。最近の中南米の航空会社の再編などの変化に興味があるが、『昔の名前で出て居る』ところもあって、懐かしく思う昨今である。2020.10.1