執筆者:渡邉裕司(元ジェトロ・サンパウロ所長)
長く中南米の代名詞にもなったあの悪名高きインフレに悪戦苦闘を繰返した国は数多い。しかし、一部の国が選択したドル化ではなく、これに真正面から挑んで沈静化したのが民政移管後 1994 年のブラジルだった。当時の F.H.カルドーゾ蔵相は周到に練上げたインフレ根絶策レアル・プランを実行に移し、ハイパーインフレの抑え込みに成功したのだ。その手法は言われてみればああ何だ、そうかと思うのだがそのコロンブスの卵は実は過去、中南米のどんなエコノミスタも思いつかず実行しなかったものだ。正に「カルドーゾの卵」である。それはコロンブスの逸話どころか見方によってはノーベル経済学賞にも値したかもしれない歴史的偉業。何をやってもダメなのでいっそうのこと、自国通貨を棄て米ドルに換えてしまう国も出る程、インフレ抑制は難しい。米ドルは合衆国通貨、これに代えればインフレは理論的には自動的にアメリカの消費者物価と同じ一桁になるからだ。
普段、インフレに馴染みのない日本から来た人に、ここはインフレ月率 10%です、と言うと 10%だと年 120%ですか、凄いですねという人もいる。そうではない。上がった物価が更にまた上がるのだから複利計算になる。倍数 1.1 の 12 乗で物価は 1 年で 3.14 倍に、上昇率では 214%になる。1989 年のブラジルは年率 1,700%に、レアル・プラン実施前最後の月 1994 年 6 月は月率 48.2%と 50%に迫った。最大瞬間風速ならこの倍はあったかもしれない。これだと物価は毎日 1.3%騰がるから毎日か、あるいは 2-3 日で値札を変えねば売り手は損をする。365 乗すると年 111.5 倍に、11,054% up となる・・こうなったら経営者は自分の会社が儲かっているのか損しているのか分からなくなるらしい。常に経営指標を自分流にドル換算で監視すると笑う人もいた。
給料日とその翌日のブラジルのスーパーは超満員、レジは小切手帳片手に、日用食料品山積みのカートを曳く客の長蛇の列。必需品はその日のうちに買い置きしないと値上がりで損をするからだ。インフレは常に持たざる者が犠牲になる。だがドル資産や固定資産を持つ中流以上はむしろ心地よい。資産がインフレと同じかあるいはそれ以上に値上がりすれば何も困らないからだ。むしろ財産は増えもする。が逆に低所得層は益々貧困化する。一例を挙げる。10 日締め 20 日払い現地通貨建てクレジットカードで締め、翌日 11 日に家族で豪華な食事をする。決済は 40 日後、日歩 1%インフレ相当の為替切り下げがあれば決済日のドルベース支払額は 0.67 倍になる。つまり 500 ドル食べても決済日の請求額は(現地通貨では変わらないが)33%値下がりし、 335 ドルになる。家賃も同様だ。現地通貨建て半年毎のインフレスライド条項付なら切り下げ幅次第では、ドルで見た家賃は、半年後に当初の何分の一にもなる。
この社会的不公正を何とか根絶しようと密かに策を練る政治家がいた。カルドーゾ蔵相・・サンパウロ大学社会学部教授から 1964 年の軍政登場でチリ亡命、のち中道系民主社会党 PSDB 結成、上院議員からのち 1995-2002 年の二期大統領に。蔵相は三名のリオ学派エコノミスタ Percio Aride、Edmar Lisboa Bacha、André Lara-Resende にプランの具体化を命じた。
通貨価値修正制度を廃止メカニズムのポイントは上記②、これに③で国民のインフレ・マインドを除去することに成功し、30 年来の慣性インフレを絶った。プラン後は一桁台の低インフレが続くが、それは財政赤字等による超過需要によるものか、あるいは成長に必要な適度な体温ともいうべきレベル。その後、世界的デフレ傾向もあり、現在のインフレは先進諸国と同じ水準に安定し良いことではないが、前月比マイナスにもなる。かつて社会の構造要因を除去しない限り、インフレ抑制は難しいと主張する構造学派 Estructuralista が現れた時代もあった。だが結果だけ見ればインフレは価値修正制度で長く人間の心理を支配したマインドによるもの、正に慣性の法則が働いた結果だったのかもしれない。
ドル化にも触れねばならない。世界で米ドルを法定通貨とする国にパナマ、東チモール、ミクロネシア、マーシャル、パラオがあるが、インフレ対策としてドル化に踏み切ったのが 2000 年のエクアドル、翌 2001 年のエルサルバドル。ドル化には、①為替調整の緩衝材がなく価格競争力維持手段は唯一労働コスト引下げのみとなる、②中銀の通貨発行益を失う、③最後の貸し手中銀がなくなり信用不安に対処できない、④米ドル通貨を FRBから大量に購入するコストがかかる、⑤金融政策は FRB に依存し独自の財政政策もとれない、などの制約がある。従ってドル化が妥当するのは、①経済が米国のそれと強く結びつき米国と同じショックを経験する、②経済規模が非常に小さく価格がドル建て、大部分の産品が国際取引される、③自由で弾力的労働市場が要る、④中銀の通貨管理能力の著しい欠如、などが条件となる。
アルゼンチンはこの原則に反して、事実上のドル化であるドル本位制でインフレ抑制を図ったが、理屈通り失敗した。自由で開放された市場のドル選好の結果、通貨供給 M の大半がドル化して経済が長期に安定する国も多い。ペルーなどは預金の大部分が米ドル、ドル現金は街の両替商でも何の規制も身分証もなく売買できる。小売店でもドル支払いが可能でレシートはソルとドルが併記されている。
コロール政権時代のスーパーミニスターのゼリア元経済企画大蔵大臣と
撃つなー!オレを殺すより生捕りにした方がずっと価値があるぞ!・・・これは TV ドラマの台詞ではない。東西冷戦下の 1967 年 10 月 8 日、世界に名を馳せた一人の革命家の短い人生が終わろうとしていた。南米ボリビアで共産主義革命を目指すゲリラ戦を指揮するチェ・ゲバラ(39 才)が政府軍に包囲され降伏した時に叫んだ言葉。生き延びるための懇願だったのか。その翌未明、イゲラ村に連行されたチェは 3 発の銃弾を浴び絶命した。遺体は70キロ離れたバジェ・グランデ市に移送され全世界に公開された。1959 年のキューバ革命、60 年コンゴ動乱から、その後ボリビアへと半生を革命のロマンに賭けた英雄の最期は聴くと哀れを誘う。「チェは痩せて顔面蒼白、悲しそうで殆どしゃべらなかった」と当時、16 才の娘だった村のカルメンが証言する。政府軍兵士に言われパン、卵、コーヒーの食事をチェの小屋に運んだ。どんなに意志強固な革命家も、人は死を目前にして不安と孤独に襲われて普通の人間に還る。
ペルー駐在中の 2003 年 4 月、私は人生で一度は見たいと思っていたチェゆかりの地を訪ねた。ボリビア東部低地の大都市サンタクルス市から車で 300km 南のバジェ・グランデに入る。更に泥でぬかる雨季の山道を 3 時間超、悪戦苦闘し、緑に覆われた寒村イゲラに着く。海抜 2,000mにあるこの小さな村は人気が少なく、誰が建てたのか広場に大きなチェの彫像と十字架。チェが処刑された小屋に入ると彼が縛られ座った椅子の傍に一輪の花が添えてある。チェを見たカルメンの生々しい話は私の強い好奇心をそそった。早くしないと日が暮れる、と案内人フアンにせかされチェ降伏の地点に向かった。チェが包囲された地点は村から更に徒歩で道なき道を 2 時間以上も行った、エル・チューロと呼ばれる深い谷底。水量は少ないが抜けるように透き通る水がきれいな谷だった。36 年前のあの日、戦闘で負傷して、谷底を敗走するチェの姿を想像しながら、谷を上流へと進むと忽然と眼前に空間が広がる。そこにある大きな岩に「英雄チェ・ゲバラ戦没 30 周年……」の白いペンキ文字。 政府軍がチェの遺体を公開したバジェ・グランデの聖母マルタ病院の洗濯場も当時の面影をそのまま残す。遺体が置かれた長方形のコンクリート製洗濯槽は私が学生時代に報道写真 LIFE で見たそのものだった。壁はチェの死後、世界中から訪れた人々のチェを称える無数の落書きが一杯に添えられチェの人気には今だ想像を超えるものがある。
左翼勢力によるチェの偶像化を恐れた当時のボリビア軍事政権は、チェとそのゲリラ兵士の遺体を市営墓地近くの空地に夜陰に紛れて密かに葬り、長く行方が知れなかった。冷戦崩壊後の 1997 年、時のバンセル政権が軍の情報をたよりに何とか遺骨を発掘し、チェは 30 年振りに家族と盟友フィデル・カストロが待つハバナに帰った。しかし 21 世紀の世界は東西冷戦が終わり、旧社会主義圏が競って市場経済に参入し、自滅するはずの資本主義体制は地球規模の繁栄を謳歌する時代へと変貌してしまった。英霊チェが目の当たりにした 30 年後の世界はその夢とは裏腹の現実であった。
ゲバラ降伏の地で、筆者と案内人