連載エッセイ83:カトリーナが死者の日11月2日の主役 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ83:カトリーナが死者の日11月2日の主役


連載エッセイ80

カトリーナが死者の日11月2日の主役

執筆者:富田信三(米国テキサス州在住ブロガー)


写真:(www.cdmxtravel.com)

10月末になると、メキシコ国内の至る所にカトリーナと呼ばれる、骸骨女性の仮装をした女性があふれてくる。ハロウィーンの仮装でもあるが、実はカトリーナは11月2日のメキシコの「死者の日」の象徴でもあるのだ。上のディエゴ・リヴェーラ作の壁画に描かれた、真ん中の女性がカトリーナである。メキシコの世界的に有名な画家、壁画家である、リヴェーラ(1886-1957)によって、1946~47年にかけて制作された、15.6X4.7㍍の大壁画である。「アラメダ中央公園の日曜日の午後の夢・Dream of a Sunday Afternoon in the Alameda Central 」と題する壁画は、メキシコ市の目抜き通りにあった、今で言うところの5星ホテルであった、ホテル・デル・プラド内のヴェルサイユ・レストランにあったが、デル・プラド・ホテルが1985年の大地震で崩壊したため、現在はアラメダ中央公園内のリヴェーラ美術館に収まっている。

壁画に描かれているのは、近代メキシコ史上の著名人及び記憶に残る事件の当事者たちが、アラメダ公園を散策している構図になっている。真ん中の骸骨女性の両脇にはリヴェーラと彼の妻フリーダ・カーロと子供時代のリヴェーラが描かれている。長い黒髪の女性がマリンチェである。フリーダの隣のヒゲの男性が1913年にこの「骸骨女性」を亜鉛凸版画として創作した、ホセ・グアダルペ・ポサーダ(1852-1913)である。
その他、メキシコの征服者エルナン・コルテスと彼の通訳兼愛人だった、インディヘナ女性マリンチェから、有名なアラモの砦をテキサス人から奪ったが、その後反対にテキサス軍の捕虜になってテキサスの独立を許したサンターナ大統領までの有名、無名のメキシコ人が描かれている。


「ヨーロッパかぶれの骸骨女性」原画写真:(https://www.nationalgeographic.com)< さて、1910年から1913年の間にポサーダによって描かれた、この帽子だけかぶった「ヨーロッパかぶれの骸骨女性・La Calavera Garbancera」の亜鉛凸版画は、メキシコ革命前のメキシコ原住民の血を引く浅黒い肌の女性たちが、ヨーロッパの上流社会の伝統を真似する様を風刺したもので、この帽子のスタイルは20世紀初頭にヨーロッパで流行ったものだった。ポサーダは風刺画発表の際作った案内文にこう書いている。 「原住民を祖先に持つことを嫌悪する女性が顔にお白いを塗りたくって、白く見せようと努め、フランス風のドレスと帽子をかぶって、ヨーロッパ女性に近づこうとしている様子を風刺して描いた」。また案内文には、自身の先祖が持つ文化遺産を否定し、ヨーロッパ文化の模倣に走る、原住民女性たちにガルバンセーラ(お手伝いさん)というあだ名をつけて風刺している。従って、ポサーダの描いた骸骨女性は意訳すると、「ヨーロッパかぶれの骸骨女性」であり、まだカトリーナの名はついてなかった。カトリーナと命名したのは、1947年にポサーダの「骸骨女性」を下敷きにして,品の良いヨーロッパ上流淑女が着るような服を着せ、首にはメキシコ原住民の想像上の「羽毛を持つ蛇」の襟巻をかけさせた、ディエゴ・リヴェーラだった。カトリーナが首にかけている、襟巻の右下に蛇の頭が描かれていることに注目して頂きたい。 リヴェーラは「壁画」によって二つの文化、スペインと原住民の融合と、メキシコの為政者の自己満足、貧者の悲惨を表現したかったのだろう。そして見事にその目標を達している。こうしてこのリヴェーラの壁画によって、カトリーナは一躍有名になった。 興味深いことに、「ヨーロッパかぶれの骸骨女性」の制作者である、ポサーダにしろ、リヴェーラにしてもカトリーナが「死者の日」のシンボルになるとは、想像もしていなかっただろう。では、何故カトリーナが「死者の日」の主役、シンボルになり上がったのだろうか? 現在のメキシコに於いて、11月2日の死者の日は国民祝日になっている。 死者の日にはメキシコ中のパン屋は特製の死者のパンを焼き、ケーキ屋は頭蓋骨の砂糖菓子を売り出すのである。砂糖の頭蓋骨にはJuanとかMaria等の名入りのものもあるのが面白い。そして、女性たちはカトリーナの仮装をし、老若男女はペインティングを顔にほどこすのが決まりである。
写真:(www.blog.sands.com)

原住民が多く住むメキシコ各地では、各家庭は死者への供物を捧げる祭壇を作る習慣もある。圧巻は11月1日の夜から、ロウソクを灯し、飾り付けをした墓所に愛する故人の好物を持って家族、友人たちが集まって死の眠りから覚めて家族のもとに来る故人と一夜を共に過ごす習慣があることである。このようなメキシコ特有の習慣は、メキシコ国立青年協会が無形文化遺産への推薦書を提出した結果、2003年ユネスコの無形文化遺産に登録が決定した。

写真:(www.aristegui.notocia.com)

さて、筆者はこの項を書く前までは、死者の日はスペイン人による、メキシコ征服以前の、アステカ等の原住民が守り続けてきた祝祭日だと信じていた。ところが、メキシコ国立考古学、歴史研究所に40年間奉職した、メキシコ史の専門家のエルザ・マルビード博士(Elsa Malvido-1941-2011)がこれに異を唱えていたことを知ったのである。

写真:(www.inha.gob.mx)

国立考古学、歴史研究所の2007年11月1日付けのHPに「死者の日」のメキシコ起源説を否定するマルビード博士の次の論文が掲載されている。
https://www.inah.gob.mx/boletines/1485-origenes-profundamente-catolicos-y-no-prehispanicos-la-fiesta-de-dia-de-muertos-2

「死者の日の祝祭日の起源は確固としてカトリック教会であり、スペイン人による征服以前ではない。」 死者への祭壇、砂糖製の頭蓋骨、骨の形をしたパン等は中世のヨーロッパキリスト教会に起因する伝統である。11月1日、2日の死者の日の祭礼の起源はインディヘナ世界ではなく、スペイン人によるメキシコ征服以前にその慣習はなかった。インディヘナ世界では大量の頭蓋骨を陳列する棚まであった。雨ごい、厄払い等のために人を生贄にする習慣、花戦争と呼ばれた、生贄を獲得するためだけの戦争に見られるような、死に対するひとかけらの敬意、信仰心もなかったことから、インディヘナ世界が死者の日を祝うことなどあり得なかった。

現在、メキシコで行われている、死者の日の儀式、11月1日の夜明けに祭壇に捧げる供物等々はメキシコ文化の発明ではなく、中世ヨーロッパというよりローマ時代からの伝統といえる。メキシコには、これらの死者の日の伝統、習慣をインディヘナ世界が作り出したと、我々に信じさせようとする一派があるが、断じてそうではない」。以上の解説は当研究所のエルサ・マルビード博士によるものである。

なお、マルビード博士の意見では、死者の日の祝いがスペイン人による征服以前から存在した、という「事実性に疑いがあるうわさ」を発明したのは、1930年代の知識人である。だが、メキシコにおいては19世紀のイグナシオ・アルタミラーノ、アントニオ・ガルシア等の思想家たちも我々と同じ考えを持っていた。

墓場における「徹夜の墓参り」も最近の習慣

写真:(www.ngenespanol.com)

11月1日の夜、徹夜の墓参りをするのも先スペイン植民地時代の習慣ではない、とマルビード博士は主張する。メキシコ革命後に始まった、この習慣は不思議なことに、インディヘナではなく金持ち階級が始めたものである。レースの服に肩掛けをかけた若い女性が金、銀の枝付き燭台を持って墓参りをしたのである。夜中、召使いたちが墓所に待機して、飾りつけが盗まれないように見張りかつロウソクの火を絶やさないようにしていた。
上流社会の人々は着飾った娘を伴って、墓所巡りをして未来の金持ちの夫を物色したのである。これを真似て、多くの人々が出来る範囲で墓所を飾って、ロウソクを灯して徹夜の墓参りをする習慣が定着していったのである。

「ヨーロッパかぶれの骸骨女性」の作者ポサーダにしろ、「カトリーナ」の創造者である、リヴェーラにしろ、カトリーナが「死者の日」のシンボルになるとは考えてもいなかった、と先に書いた。では何故、「死に対するひとかけらの敬意、信仰心もなかったインディヘナたち」が最近になって死者の日を祝うようになったのか?

1521年8月、アステカの首府だったトラテロルコ(現メキシコ・シティー)において、アステカ皇帝クアウテモックの軍勢とスペイン征服者・エルナン・コルテスの軍勢が最後の決戦に臨んだ。今、その地にトラテロルコの戦いの記念碑が立っている。石碑にはこう書かれている。「戦いに勝者も敗者もなかった。その結果、今のメキシコである、悲しい混血民族が誕生した」。

死に対するひとかけらの敬意も持たなかったのは、インディヘナ世界の権力者たちであり、この悲しい混血民族は彼らの犠牲者だったのだ。そういう混血民族が人間らしい、信仰心と祖先を敬う気持ちを持つに至ったのに何の不思議もない。そんな悲しい民族が「死者の日」を祝うに当たって、彼らと同民族であり同じ肌の色を持つカトリーナを、死者の日のシンボルに選んだのは当然と言えば当然の帰着だった。

また、1917年にメキシコで成立した反カトリック教会、反スペインを旗印とした、革命政権がカトリック教会を徹底的に否定したことから、1926年、メキシコ各地、特に中部と北部で自然発生的に革命政権に武力で反旗を翻した、カトリック教徒とメキシコ軍の間で、クリステーラ戦争が勃発した。カトリック教徒とメキシコ軍双方の犠牲者が25万にも上った、この戦争は1929年、カトリック教徒側の敗戦で終了したが、カトリック教徒は革命政権下でも様々な方法で彼らの信仰を護ったのだった。その一つがヨーロッパカトリック国原産の「死者の日」採用ではなかったのか。なお、メキシコ革命政権を担った、PRI政党(制度的革命党)党員は今でも、カトリック信仰を拒否して、フリーメーソンに所属している。

さて、メキシコで「死者の日」開催に最も熱心な地域とクリステーラ戦争参戦者が多かった地域はぴったり符合していることは、「死者の日」の祝いが熱烈なカトリック教徒の間から自然発生的に起こり、全国に波及して行ったことを示している。いかに混血民族の間にカトリック教が深く浸透しているかが分かった、今日この頃である。(終わり)

参考にした資料:Wikipedia, Day of the Dead
Wikipedia, Sueno de una Tarde Dominical en la Alameda Central
Wikipedia, Guerra Cristera