執筆者:設楽 知靖 元千代田化工建設(株)、元ユニコインターナショナル(株)
私が、パナマに駐在しているころ、中米のエルサルバドルとニカラグアでは、東西冷戦(米・ソ対立)の代理闘争が行われていた。アメリカ合衆国(米国)はパナマに運河管理と米南方方面軍の基地を持ち、一方のソビエト連邦(ソ連)は、1959年に革命を成功させたキューバのカストロ政権を支援して中米諸国の反政府勢力の支援に力を入れていた。
この地域の小国の国内闘争に対して周辺国は、『コンタドーラ・グループ』を形成する。メキシコ、ベネズエラ、コロンビア、パナマが中心となって外務大臣が、パナマの太平洋岸のコンタドーラ島に集まって和平実現の協議を重ねていた。しかしながら、この間にも、エルサルバドルとニカラグアの内戦はエスカレートして、武装闘争はますます激しくなっていった。
ここで、これらの反政府闘争において、主導的立場であったが、その初期の段階で政府側に殺害された二人の革命家について述べることとしたい。
1893年5月5日、ラ・リベルタ県テオテペッケという小村で誕生、父親は中規模の地主で、彼は、国立大学で法学と社会科学を学んだ。学生時代はマルクス・レーニン主義に傾倒し、教授と意見対立してグアテマラへ。その後、メキシコ、アメリカ、中米各国を放浪し、組合運動に従事してニカラグアでは反米闘争のゲリラを指導していた。
この時、ニカラグアの革命家、アウグスト・セサール・サンディーノと行動を共にしたとされている。
サンディーノはマルクス・レーニン主義を受け入れず、二人は離れてしまうが、後に『サンディーノは偉大な革命家である』とマルティは述べている。マルティは選挙運動のため、1930年にエルサルバドルへ帰国すると、親友と共に『サルバドル共産党』を創設したが、1931年の選挙直前に軍部のクーデターにより軍事政権が発足するとマルティは逮捕され、1932年2月1日処刑されてしまう。39歳の若さであった。この時期、共産党が支持されたのは、アメリカの株式暴落に端を発した、『世界大恐慌』の影響で、エルサルバドルの主要輸出品であるコーヒーの国際価格が暴落し、この影響を受けたのが土地を持たない『農民』であった。総選挙は1931年12月に予定されていたが、選挙戦が過熱しているさなかに軍のクーデターが発生して延期されてしまったが、共産党は候補を立てて、農民は団結してこれらの候補を支持していた。
これに対して、コーヒー大農園所有者や政権担当側にとって、これは危機であった。マルティなど共産党幹部は、農民、学生、労働者による反政府抗議を計画し、これを警戒して軍が先手を打ったようであるが、軍の農民弾圧は各地で続けられた。マルティの死後、その遺志は、『FMLN』(ファラブンド・マルティ民族解放戦線)として、1980年10月10日、左翼ゲリラを合体した組織として受け継がれ、ソ連、キューバ、ニカラグアの軍事支援を得て活動し、1991年のソ連崩壊で1992年に内戦は終結に向かった。その後は、和平協定により、FMLN は政治政党として正式に認められ、政権を取るなど活動を続けている。
1895年5月18日、寒村の二キノオモで、白人の中規模地主の家で誕生。ニカラグアの工業学校で学んだ後、隣国コスタリカで技能工として働き、帰国後,酒場で喧嘩をして国外へ逃れた。そして、ホンジュラス、グアテマラ、メキシコで生活し、メキシコではカリブ海側のタンピコでスタンダード・オイルのリファイナリーで働いた。この時、メキシコも革命運動期で労働争議、無政府主義、共産主義の影響を受け、人格形成に変化が起こったとされている。さらに、この時期に父親のグレゴリオからの手紙で、ニカラグア自由党の、フアン・マリア・モンカダ将軍が保守党のディアス政権に対して蜂起し,護憲戦争が始まったことを知って,急ぎ、ニカラグアへ帰国した。
彼は、キューバのホセ・マルティ(独立の英雄)やウルグアイのホセ・エンリケ.ロドーが認めて以来の、『アングロ・アメリカ』とは異なる『ラテン・アメリカ』の精神的価値を体現する存在として、1927年から1933年にかけて,駐ニカラグア・アメリカ海兵隊への抵抗運動の指導者になった。そして、対米抵抗のシンボルとして、海兵隊を撤退に追い込んだ。ここで、アメリカとニカラグア政権は、休戦協定を結んだが、
サンディーノはゲリラ活動を止めず、冒頭の言葉を残した。
アメリカは、この休戦協定の条件として、ニカラグアに国家警備軍を置くことを提案して、1934年に警備軍が創設されたが、この司令官に、親米派のアナスタシオ・ソモサ・ガルシア将軍が就任した。サンディーノはその手先に、1934年2月21日に殺害されてしまう。39歳であった。
サンディーノの遺志は、エルサルバドルのマルティと同様に、その後、『FSLN』(サンディニスタ民族解放戦線)に受け継がれ、ついにソモサ独裁政権を倒してニカラグア革命を成功させた。その後、民主的な選挙により、マヌエル・オルテガ・サーベドラ将軍が大統領となり、サンディニスタ政権がソ連、キューバの支援により、ホンジュラス経由のアメリカの干渉{レーガン政権が支援した〟“コントラ“}を凌いで、長期政権を維持している。
ここで、オルテガ大統領とFSLN の関係を述べておくと、1963年に創設したのは、カルロス・フォンセカ、トマス・ボルへ,シルビオ・マジョルカの三名である。
このうち、フォンセカとマジョルカは政府軍との戦闘で落命した。『革命政権』に参加したのはボルへだけであった。FSLN内部は三グループに分かれていたが、オルテガ兄弟の調停と、革命政権成立直前、1979年3月、キューバのフィデル・カストロの働きで、三グループの統一戦線が結成できた。この時も、オルテガは『対コントラ闘争』に手腕を発揮した。
1970年後半から、1992年の10年間の内戦で、75,000人が命を落としたと言われている。この戦いは『米ソ冷戦』の代理戦争であった。和平合意により、FMLNは政治政党として生まれ変わり、ゲリラ活動家は政治家に転身したものも多かった。
私は、2003年、JICAの『エルサルバドル東部経済開発調査』に参加して、農村部のプロダクト開発(農産物、藍染め、など)を担当したが,そのときは、この東部は、まだ内戦の傷跡が見られ、農村の人々は、話は聞いてくれるが、開拓の意欲は、今一つで、あった。その理由は、この東部地域は戦闘の場であったため、住民の多くはアメリカの保護で、アメリカ各地へ移住して、残った年配の家族はアメリカからの仕送りで生活しているものが多く、日々の生活には困らないと口にするものが多かった。したがって、アメリカの移住先の経済規模により仕送りの額が違い、それが町のインフラや商店街の整備に現れていた。
私は、この地域のほとんどを訪ねたが、反政府ゲリラFMLNの拠点であった、東部ホンジュラス国境に近い,モラサン県ペルキンの町、海抜1,220メートルにある革命博物館『Museo De La Revolucion Salvadorena』を訪ねた時、入り口に小さな小屋の受付があり、売店を兼ねていて、チェ・ゲバラのTシャツがたくさん売られていたのには驚いた。そして、外側の展示品は、まず、撃墜された政府軍のヘリコプターの残骸、中庭には大きな口を開けた爆弾のクレーターであり、建物内部の通信室には機材がすべて残されていて、その機器の大半が日本製であった。そして、写真展示室には農民や農民兵の武装した写真が沢山展示してあり,農民兵の集合写真には、横断幕に『我々は戦わねばばらない、何故ならば、われわれは貧しいから』と大きく書かれてあった。
このペルキンの町は、ホンジュラスとの国境を接したところにあり、FMLNの拠点としては、エルサルバドルの中心部からは離れているが、南へ下がると太平洋側が、隣国ニカラグアに近く、ニカラグアの反政府勢力FSLNから船で武器が供給されて、陸路山岳に沿って輸送されたようであった。この博物館は、1992年12月13日の和平合意から11か月後に自力で開館されたとのこと、来館者は2007年には5万200人で、来場者の15~20%が外国人だったとのこと。この博物館の目的は、『エルサルバドルの貧しい農民の声を代弁するために参加したFMLN、そして、死んだ仲間を誇りに思うことに変わりはないが、内戦を戦った貧しい農民の存在を多くの人に知ってもらいたい』と運営者は望んでいる。
このエスキプラス合意の前に、1984年6月から、1986年6月まで、中米の周辺国、メキシコ、パナマ、コロンビア、ベネズエラの4カ国による『コンタドーラ・グループ』を結成して、パナマのコンタドーラ島にて、各国外務大臣による和平仲介交渉が行われた。このコンタドーラ・グループの目的は、中米紛争解決のための社会・経済問題について和平案を出して、1985年にはメンバーの拡大を図り、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ウルグアイが加わって、パナマを除いた支援グループ『リオ・グループ』が結成されたが、調停は失敗し、『中米諸国自身の努力』に主導権を譲り、リオ・グループは1993年3月に解散した。
その後は、コスタリカのアリアス大統領の中米域内での解決努力により、グアテマラ南東部のホンジュラス、エルサルバドル,三か国の国境が集まる、人口三万人の小さな町、エスキプラス(Esquipulas)にて二回の会談が持たれた。その結果、1987年8月の第二回、中米首脳会談で中米五カ国による『和平協定』が成立した。したがって、1990年、ニカラグアで総選挙が、1992年、エルサルバドル政府とFMLN との和平協定を、グアテマラでも政府と反政府ゲルラとの話し合いが開始された。
中米諸国への復興援助は、アメリカは紛争当事国であったので、単独で実施することは問題であったため、ヨーロッパ、ラテン・アメリカ、日本の協力が重視されたが、欧州連合(EU)は消極的であった。日本国内では、外務省が主催しで,官学民の『中米復興支援』の会議がもたれ、私も出席した。上智大学、早稲田大学などが積極的であった。
日本は、丁度、バブル経済で、財政的に余裕があったので復興に前向きで、アメリカと共に超党派のミッションを派遣して、1993年には、宮沢・クリントン共同声明で、保健と人間開発、環境保全、科学技術開発などが述べられ、これが中米復興支援の指針となって、エルサルバドル民主化と市民社会セミナーなどが開催され、ODAによる援助が実施された。
2020.11.15. 以 上
(資料)
1)『エルサルバドルを知るための55章』明石書店
細野昭雄、田中高著(設楽執筆)、2014.10.5.
2)『ニカラグアを知るための55章』明石書房
田中 高 著、2016.6.15.
3)講義『中南米地域研究』設楽知靖 著、DTP出版
(イラスト:P41;中米の社会情勢の変化”社会構造と内戦“
4)JICA『エルサルバドル東部経済開発計画調査』報告
2003年、調査団員として、設楽参加。
5)イラスト:FMLN:Agustin Farabundo Marti / FSLN:Augusto Cesar Sandino