連載エッセイ89:山下日彬 「看取り屋の独り言」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ89:山下日彬 「看取り屋の独り言」


連載エッセイ86

看取り屋の独り言

執筆者:山下 日彬(ヤコンインターナショナル代表取締役)

私も81歳になった。思い返してみると、1959年、神戸高校ブラジル高校移民第2期生として移住、城島商会に入社、営業部長となり、テープレコーダー、カセットテープ、カメラなどの輸入卸を担当した。1973年同商会閉鎖後、1976年にヤコン社を設立し、一時は中南米に33の拠点を構えるまで展開したが、石油ショックで撤退した。本稿では、思いつくまま、老いた看取り屋のたわごとを述べてみたい。

「看取り」
62年前にブラジルに移住したが、今は103歳の母を看るのに日本にいる。私は一人息子だが、母は5人兄弟の一番上で親戚も多く、何の心配もしていなかった。が。近親者が一人もいなくなり、長男が存命なら出頭せよとなった。親孝行と褒めてくれる人もいるが要は「看取り」だ。

「コンサルタント業も看取り屋」
1973まで勤務していた会社が閉鎖し、マッケンジー大で経済と経理学部を終えて、失敗を売り物のコンサルタントになった。1985以後は石油ショックや移民停止でコロニア社会が衰退へ状況が変化、自社40社と、進出企業のお客様も撤退し、企業の看取り屋になった。

「儲ける法から損せぬ法に」
1975年、鈴木与蔵さんの「実業のブラジル」誌で「ブラジルで儲ける法」という連載を始めた。失敗ばかりの経験からブラジル・リスク対策のサポートという売り込みであった。1985以後は「ブラジルで損せぬ法」にタイトルを変えた。その後、雑誌も廃刊となり看取った。

「Batepapoのこと」
ブラジル日本商工会議所の西川悦治コンサルタント部会長のとき、赤嶺尚由さんと私が副部会長だった。部会長は現地側より選出が慣例だったが、進出側に明け渡す時代となり、現地側の情報交換網として2003にスタート、100名ほど参加で積極的に意見交換する場となった。 

「Barepapoも看取ることに」
メンバー数は、参加者の高齢化で徐々に減少していった。メカに強く一番若かった私が管理人を務めたが、メールサーバーの役割も終焉の時代となり、また情報量も急減したので、今年の6月サーバーのサービス停止をもってBatepapoも終了することにした。

「殺人しそうでゴルフもやめた」
 1975代マイアミに住み、近くにゴルフ場が数か所あった。池が多くいつも池ポチャだった。パナマのホロコで「ここは池がないから」と打ったら、真横に飛んで、誰も知らない小さな池があった。他コースのティー・グラウンドへの直撃弾となって、皆が大声で警告した。

「高校時代から苦手の運動」
 神戸高校全校生参加のマラソン。さぼっていた体育の授業の単位をくれるというので、いやいや参加。平野付近まで行って戻るのだが、帰りの坂はきびしく息も絶え絶えになって市バスに乗った。早く着きすぎると不自然なので、隠れて時間を過ごしたのを思い出す。

「子孫に辞書を残そう運動」
 「箱物よりはソフトを」と移民90年祭に、子孫に自動翻訳用データバンクを残そうとサンパウロ新聞の全ページ記事で森田左京氏、中隅哲朗氏らと啓蒙運動をした。今から思えば、あの時完成していても、維持更新ができなかったであろう。大それた計画には長期維持策が必要だ。

「スポーツ交流は長続き」
 スポーツは理想的な文化交流だ。商売の人間関係は取扱品の寿命と共に終了するが、スポーツの人的つながりは生涯続く。その意味で海外遠征、海外合宿、選手交換などの交流プログラムはすばらしい。日本のスポーツ精神もよい。

「文化の普及は国の役割、現地はその運用サポーターに」
 テクノロジーや文化の普及は日本国にまかせ、現地はその実施先になるのが理想的だ。日本の精神、技術、芸能、スポーツを現地の人々にも伝達。基本教材、認定、検定、表彰などは家元のような日本の中央組織に集中するのがよい。

「衰退時の次世代に残すもの」
 将来コロニア社会が縮小を続けると、箱物、有形物は維持したくてもできなくなるだろう。むしろ日系移民の初期に評価された日本人の精神「勤勉、正直、努力」を継承しておくことが非常に重要だと思う。無形のものは必ず残ると思われる。

「海外の日本語教育」
 経済的持続性と次世代高速通信普及を考えると、学校よりもタブレットやスマホ仕様の対話主導AI化した通信教育が良い。教育は国の役割なので、教育の基本方針と資格検定表彰を国に担当してもらう。習いやすい通信教育を日本の民間センターで開発し、現地はその運用先になると良い。

「移民資料館で国際シンポジウムを開催したと聞いた」
 テーマは資料館の維持と日本文化の保存だろう。関係者の努力には頭が下がるが、移民人口減状況での持続性には不安だ。貴重な物件の現物は国立博物館などに寄贈して、すべてデジタル化してその時代の最適な記録媒体で永久保存し、一般公開が良い。

「衰退傾向のコロニア社会の全伯組織」
 邦字紙に、衰退のコロニアの全伯組織統一案が出ていた。戦後移民は1959をピークに1973の移民船終了で事実上止まっている。したがって一代目移民80才代が主の組織でリーダー選出も困難だが、今更そのような組織ができても看取りになってしまうだろう。

「衰退時は最悪も想定するべき」
 邦字紙なしの最悪事態も絶対ないとはいえない。だがコロニア社会の案内板は必要だ。邦字紙の重要な役割に、「結婚や死亡広告」と「短歌俳句など文芸欄」がある。領事館HPのような誰もが知る公的広報サイトを窓口に、そこへ連絡するだけのシステムを考えてもらえぬか。

「国家のために役立つ人になれ」
 昔の親の教えは絶対に間違っていない。今一度認識しよう。大学の教授、高級公務員や日系連邦議員、日系の大臣を輩出させよう。政治家がいると日本国も忘れないでいてくれる。ただし当選には100万人ぐらいの組織票が必要だ。

「日系人に日本文化を伝承する秘策」
 老移民がうるさく言うよりも、日本国が世界一の強国になれば、日系人は日系である誇りを持つようになる。190万日系人の中から現在コロニア社会に出てこない人が表にでるだろう。他力本願をよしとしよう。

「コロニア社会は移民子孫から日本の出稼ぎ関係者に」
 コロニア社会の中心は、これまでの25万人移民子孫から、現在日本と接している20万人の出稼ぎ日系人子孫や関係者の「新世代のジャポン・ノーボ」に移ると思う。2-3か国の言葉は普通に使えるだろうし、日本精神も取得しているだろう。

「1972のブラジル進出ブーム」
視察に来られる社長さんや重役さんに、とにかくブラジルを好きになって地球の裏側まで何度でも来ていただけるよう懸命に努力した。当時は物価安だったが、現実は厳しくオイル・ショック後はブラジル・コストに負け、そのころの進出企業の多くは撤退となってしまった。

「ブラジルは工業化の夢破れて農業立国へ」
ブラジルが南米の工業センターと期待されたこともあったが、グローバル化した世界工業で、ブラジルが分担するべき輸出商品がみつからぬ。ここしばらくは農産品と資源輸出しかなさそうだ。日本としては、一昔前に鉄鋼へかけた熱意を農業に向けるべきと思う。

「進出企業人材は大きく変わる」
5G高速大容量通信時代は、リモート会議やリモコン、自動翻訳、通訳が実用化する。少人数で語学力が堪能でなくとも務まる。むしろシンパチコで、ブラジルを俯瞰し、日本の未来技術や資本を提供するコンサルタント的素質、政治力さらに判断スピードが要求されると思う。

「これからのブラジルの農業経営は変わる」
衛星やドローンで視察しAI分析、自動トラクターの大農園運営になる。流通には国際的組織の「農協」が必要となろう。青野菜など小規模農業は先進国で工場内自動生産になると思われる。

「進出工業の目的」
ブラジルの国内消費市場に集中するしかなさそうだ。これを言うとブラキチになってしまうが、リスク分散投資先としては世界の紛争地域から最も離れた親日の法治国家であること。また12時間の昼夜逆の時差や夏冬反対の気候差も活用できると思う。

「ブラジルは非常に寛容な国」
 ブラジルで1985まで続いた軍政時代、連日のように反政府運動主謀者や過激派が政治警察に逮捕されていた。新聞一面には、現職大統領の似顔を描いたひとコマ風刺マンガが掲載され、それでもマンガ家が逮捕されることはなかった。ユーモア寛容精神があるとてもいい国だ。