連載レポート56:設楽知靖 「ブラジルの独立にかかわる二人の人物 ―ティラデンテスとドン・ペドロ」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載レポート56:設楽知靖 「ブラジルの独立にかかわる二人の人物 ―ティラデンテスとドン・ペドロ」


連載レポート 57

「ブラジルの独立にかかわる二人の人物 ―ティラデンテスとドン・ペドロ」

執筆者:設楽 知靖 元千代田化工建設(株)、元ユニコインターナショナル(株)

今まで、スペイン系のラテンアメリカ諸国の独立の英雄に焦点を当ててきたが、ここではポルトガルの植民地であった『ブラジル連邦共和国』の独立にかかわる二人の人物について検証することとしたい。

私は、ブラジルのサンパウロに駐在していた時に、丁度、1972年9月7日『ブラジル独立150周年』(Sesquincenario)の記念の年に遭遇した。

1822年9月7日に独立した時、ブラジルは帝政で、ドン・ペドロ一世が最初の皇帝となったが、その後、共和制の運動の中で、ポルトガル本国へ帰国して生涯を終えた。従って、サンパウロのイピランガの丘の独立記念塔に葬られていたのは、皇后レオポルジナ一人であった。そして、150周年を記念して、当時のメジチ政権はドン・ペドロ皇帝の遺体を本国からブラジルへ移送して埋葬することを決め、独立150年の一年前に本国から艦船でリオデジャネイロへ移送し、それから一年間、空軍機でブラジル国内の主な都市を巡回して、当日、すなわち、1972年9月7日にサンパウロのイピランガの丘の皇后が眠る独立記念塔に埋葬された。

ブラジルは、1500年に、ポルトガル人探検家カブラルの船団がインドへ向かうとき、カナリア諸島からバスコ・ダ・ガマの航路より西へ進んだため、偶然に発見され、今日のバイ―ア州サルバドル近くに錨を降ろし、その地を”ポルト‣セグーロ“{安全な港)と命名したのが最初とされ、その後、東北ブラジルはサトウキビの生産地として植民地が形成され、アフリカから黒人奴隷が移入されて砂糖産業が展開された。そして、砂糖産業の衰退とともに、南西部ミナスジェライスに金鉱脈が発見されて発展の中心が移り、さらに、金鉱脈の枯渇と共に、次に西のサンパウロ、パラナのコーヒー生産へと移行した。

サンパウロ市内で、一番高い丘の上を通る『パウリスタ通り』はコーヒー貴族の豪邸が並ぶようになった。私が駐在した1970年代の初めも、今の様なビルは殆どなく、まだ豪邸が並んでいたが、次第にさらに郊外へ移りつつあり、土曜、日曜には、その豪邸で家具や食器類のガレージセールが盛んにおこなわれていた。『独立150周年記念パレード』はこのパウリスタ通りで盛大に行われた。そのパレードの中では、軍隊のパレードも印象に残っているが、騎馬隊による開拓時代の旗を掲げて行進する「バンデイランテス」(Bandeirantes)の雄姿が素晴らしかった。バンデイランテスについては後述することとする。

1.ティラデンテス(Tiradentes:歯を抜くの意);1746/8/18~1792/4/21

正式の名前は、Joaquim Jose Da Silva Xavier。ミナスジェライス州、サンジョアン・デル・レイの小さな貧しい農家の生まれで、小さい時に両親を亡くし、名付け親にひきとられてヴィラ‣リッカ(オゥロプレット)に移り住んだ。そして、外科医だった家庭教師に育てられ、勉強しては歯医者になるも貧しく、牛追い、炭鉱夫の仕事もして、ミナスジェライス地方の騎兵隊に入隊するが、地方貴族ではないため少尉どまりで出世はしなかった。

その後、リオへ金を運ぶ仕事をしているときに、ポルトガルがブラジルを搾取することに疑問を感じるようになった。そのときヨーロッパ人から、自由、独立の概念を学び、1788年、軍司令官の息子、ジョゼ・アルバレス・マーシャルと出会って、独立運動グループを立ち上げ、ルソーの思想とアメリカの独立の影響で自由を求めるミナスの陰謀に加わった。最初は、『独立と大学設立を求める』を行い、そのときの〟“旗”が現在のミナスジェライスの『州旗』となったとされている。この時の仲間は、医師、詩人,商人、軍人、僧侶であった。その構想を議論しているときに、密告で逮捕され、仲間をかばって、自分が首謀者だと主張して、1792年4月21日、リオで処刑された。46歳の生涯であった。

ティラデンテスは、スペイン系ラテンアメリカ地域の独立闘争と異なり、ブラジルの独立に直接関係なかったが、1889年11月15日、共和国樹立の折、『独立の殉教者』として崇められ、『国民の祝日、4月21日』は1960年のブラジリアへの遷都の日にも当てられ、共和制の正当化と国民の統合の象徴として、ティラデンテスの名はブラジル人で知らない人はいない。

2. ドン・ペドロ 一世:1798.10.12.リスボン・ケルㇲ宮殿で誕生、1834.9,24、同じ宮殿で病死。

正式の名前は、Dom Pedro de Alcantara Francisco Paschao Antonio Joao Carlos Xavier Paula Miguel Raphael Joaquim Jose Gonzaga Paschoal Cipriano Serafim de Bragansa e Bourbon である。

ブラジルでは、1788年のティラデンテスの陰謀が抑圧された後は、スペイン系ラテンアメリカ地域の様な独立闘争は継続的には行われることはなかった。他方、ポルトガルに侵攻したナポレオン軍によりポルトガル王室は,ドン・ジョアン6世がブラジルに逃避してブラジルを『ポルトガル本国』とする計画を進めた。1820年になると、ポルトガル本国は、イギリス駐留軍に対し護憲革命を起こし、革命政府は憲法制定会議を開くためにブラジルに移転していたドン・ジョアン6世に帰国を要請した。そして、皇太子ドン・ペドロを摂政としてブラジルに残してポルトガルへ帰国した。憲法制定会議では、ブラジル議員も出席したが、ブラジルの政治的影響を弱めるため、そのブラジル議員の提案はことごとく葬られ、『摂政政治を止めて、皇太子の帰国を要請する』ことだけを議決した。

一方、ブラジル側保守派は、皇太子が帰国すれば、『共和国革命がおこる』ことを憂慮して、1822年1月に、皇太子に帰国を拒否させた。この皇太子帰国拒否宣言は、ティラデンテス以来、共和国政治を理想とする思想が根付いていたミナスジェライス地方の人々にはよく思われなかった。このようにして『独立運動の立役者』に担ぎ上げられた皇太子、ドン・ペドロは、ブラジル議会招集のため世論をまとめる理由で地方訪問を実施し、サンパウロ滞在の折サントスを訪れ、その帰途。サンパウロ郊外のイピランガの丘{イピランガとは、先住民、トウッピー族の言葉で“赤い川”の意味}でリオからの早馬の使者から二通の親書を受けとった、其の一通には『皇太子の帰国を命じるもの』、もう一通は独立運動の主導者となった、ジョゼ・ボ二ファシオからの『断固として独立を宣言するよう』督促したものであった。
 
ドン・ペドロは、この手紙を読み終えると、自らの剣を高々と挙げて、『独立か死か:Independencia ou Morte』と独立宣言を発した。この時、1822年9月7日のイピランガの丘は春で、イッペーの大木にはまっ黄色の花が咲き誇っていた。この時のイッペー(Ipe)がブラジルの国花となった。ドン・ペドロはリオデジャネイロへ帰ると、盛大な戴冠式を行い、『ブラジル帝国皇帝・ドン。ペドロ・一世』を宣言した。
 
1823年5月,ブラジル帝国・新憲法制定会議が開催され,各州から選出された、ドトール(学士}48名,神父19名、軍人7名、少数の官僚と商人で構成さて、そのほとんどが大土地所有者の子弟であった。新憲法は、フランス革命の憲法をまねて起案されたが、1780年代の共和革命で挙げられた『人間の平等』、『奴隷制度の廃止』などは全く見られず、人民大衆は政治から締め出され、『奴隷はブラジル人であるが、市民ではない』が明記されていた。ブラジル国内は落ち着かず、問題は議会開会の皇帝の勅語で『自分及びブラジルに相応しい憲法の制定を期待する』と述べ、皇帝が『自分』という言葉を『ブラジル』より先にしたことが、立憲政治の精神に反すると問題となった。このことが、議会と皇帝・政府との決裂を大きくした。

これに対し、ドン・ペドロは軍隊を動かして、議会を解散させて『欽定憲法』を作らせた。こうして民意を無視した憲法は、各地で不平を生み、共和主義者や連邦主義者の多いペルナンブコでは、『赤道連邦』の樹立が企てられたが鎮圧され、1825年には、最南部のシスプラティナ県がアルゼンチンの支援で革命を起こし、『ウルグアイ共和国』として独立を宣言した。これに対して、ドン・ペドロは、自ら出陣してウルグアイ討伐軍を派遣するが、この戦争中に開かれた議会で、戦費は否決されて、1828年、イギリスの調停でウルグアイの独立を承認する羽目となった。 国内情勢はさらに悪化、1830年フランスの7月革命の影響で、国内のミナスジェライスの反政府行動は激しさを増し、リオデジャネイロでも近衛兵の反逆が起こり、1831年4月7日、ついにドン・ペドロは退位を宣言し、当時5歳の皇太子に位を譲り、イギリスの軍艦に便乗してポルトガルへ退却した。 
 
ドン・ペドロ退位後、20年間にわたり全国で、革命、暴動、動乱は収束しなかった。この動乱の中、摂政政治を止めて民心の統一目的で、1840年,未だ15歳のドン・ペドロ・二世の成年宣言が行われた。ブラジルは独立後近代国家としての基礎づくりが固まっていなかったこと、中央政府により組織された軍隊がなく、司法.行政の機構が弱かった。相次ぐ反乱の中で軍隊は改革、訓練され、ブラジル士官学校出身の将校が育成され、ブラジル陸軍の建設者としてカシアス将軍が生まれた。こうして徐々に落ち着きを取り戻したのだった。
 
最終的にブラジルの『共和制』が成立したのは、1889年11月15日のリオデジャネイロにおける議会で、『Proclamacao de Republica』として承認され、テオドロ・ダ・.フォンセカ将軍が暫定大統領となり、ドン・ペドロ・二世は亡命して、ブラジルの67年間にわたる帝政は終焉した。

=バンデイランテス:Bandeirante 

 
ブラジルの植民値時代、東北部の砂糖産業から、ミナスジェライスの金鉱山開拓へ移り、さらにコーヒー産業として、サンパウロ、パラナへ移行する中で、黒人より安い労働力として、インディヘナ(先住民)を求めて、捕獲隊が組織された。『バンデイラ』はサンパウロの植民者、”パウリスタ“が金鉱脈を探すため組織された探検隊であった。

それがのちに、大規模なインディヘナ狩りになり、150年にわたり奥地まで活躍して領土拡張と地方開拓に貢献した。これらの大部隊は、少数の植民者の指揮で活動しこの指揮者を『バンデイランテ』と呼んだ。隊は各々、独自の『旗』をもって、隊列を組んで奥地へと進んだ。これが毎年9月7日の独立記念日に騎馬隊を組んで行進する姿は感動を与えるものである。

2020.12.1以 上

 

(資料):1)講義『中南米地域研究』設楽知靖著、DTP出版、P93~94.
     2)『ブラジル史』,アンドウ・センパチ著、岩波書店、1983.9.22.
     3)『ラテンアメリカを知る事典』大貫良夫監修、平凡社、2013.3.25.
     4)イラスト:ティラデンテス、ドン・ペドロ、ブラジル国花”イッペー“。