執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
大西洋に面するリオ屈指の格式があって伝統のある高級ホテルCopacaba Palaceから、指呼の距離のDivivier通りを曲がると、当のベッコ・ダス・ガラーファスはある。そこは私がブラジル旅行の際に常宿にしている、Portobay Rio Internacionalの脇に位置している。であるから、ずいぶん昔から、多くの音楽家やボヘミアンの溜まり場となり、南部地区のアパートで生まれたボサノバの発信地であることは知っていた。
20世紀の当初、新トンネル(Túnel Novo) の開通に伴い、リオの夜は一変したといっても過言ではない。1950年代末期に発現し、60年代に絶頂を迎える音楽上の革命は、大西洋に面したそのベッコ・ダス・ガラーファスで出来し、音楽家たちの出合いの場となった。そしてそこで、ヘルメット・パスコアル(アラゴーアス) 、ジョアン・ドナット(アクレー) 、アイルト・モレイラ(パラナー) 、パウロ・モウラ(サンパウロ) 、セルジオ・メンデス(ニテローイ) などに加えて、世界中、わけても米国で活躍する楽器演奏家たちの、広範なブラジル的リズムと技巧によって創られた音楽を聞く殿堂にも似た雰囲気を醸し出していたらしい。
そうした音楽家の彼らは、コパカバーナ・パラセで米国の有名歌手がgolden roomで歌う時などは、即興のセクションで参加したそうである。エリス・レジーナ、ウイルソン・シモナル、ジョルジェ・ベンジョルなどの、オーケストラを構成する各部門の歌手にとって何にもましてベッコ・ダス・ガラーファスは、揺りかご同然であったよう。ベッコ・ダス・ガラーファスには3つのライブハウスを兼ねたブアーチ、ナイトクラブ、すなわちBocará, Little Club, Bottle’ sがあり、名だたる音楽家で活況を呈していたとのこと。
ここら辺りで話題を転じて、本稿の主題である名称の由来について言及しよう。以前から筆者は、なぜベッコとかガラーファスと呼ばれていることに関して疑問を感じ、と同時に興味を引かれていた。が、友人の Manuel Martins サンから送っていただいた資料を読んでその疑問は氷解した。
資料によると、単なる挿話に過ぎずあまり信憑性はないが、その一つの説はこうである。飲み屋に蝟集した酔客のボヘミアンたちがあたり構わず連夜のごとく罵声を発し、それに業を煮やした住民たちが、カラ瓶を投げつけていたという。
信憑性の高い別の説では、酒場をたむろするボヘミアンたちの飲んだ空き瓶が通りのそこらに投げ捨てられ、散乱すていたことに由来するもの。Stanislaw Ponte Pretaのペンネームを持つクロニスタのSérgio Portoはその場所を” beco das garrafadas “と呼びながら言及しているようである。
それが後日、” Beco das Garrafas “になった次第。ともあれ、前述の3つの酒場のあるベッコは狭く密閉された空間であったよう。それ故か、辺りはタバコの煙が漂いfumaceiros(「大量の煙、の謂」) と呼ばれていたそうだ。
いずれにせよ、1950年代から1960年代にかけて、このベッコ・ダス・ガラーファスは、この国の大衆音楽を考える上で、きわめて重要な場所である。それかあらぬか、リオ市はこの地を無形自然文化遺産(Bem Cultural de Natureza Imaterial) に登録して保存している。Portobay Rio Internacional に投宿していた時はいつも、この界隈をBaden Powell, Sérgio Mendes, Dolores Duran, Elis Regina, Wilson Simonalたちがたむろしていたことを想像したものだ。
写真:Beco da Garrafas
(サンビスタ、ゼー・ケーティ(Zé Kéti) )
Sambista Zé Kéti
寡聞にして存ぜぬが、ゼー・ケーティ、本名José Flores de Jesusは、ブラジルではサンビスタとしてすこぶる有名らしい。 Folha de S. Paulo(2021年1月17日)に「懐かしのゼー・ケーティ(Sobre o saudoso Zé Ketti) なる題目でルイ・カストロが執筆している。それを親友Manuel Martinsが送ってくれた。サンバについては興味をお持ちの方も少なくないので、記事の主だったところを紹介しょう。
9月16日生まれのケーティは今年で生誕100年。従って、この著名なサンビスタを顕彰する催しは始まっている。以下の歌詞のように、ゼー・ケーティのモーロ(morro=岡の上のファヴェーラ) についての言及は多い。が、彼がそこに住んでいたかどうかについては定かではない。しかしながら著者は、ゼー・ケーティも櫛比する岡の貧民窟に、多くのボヘミアン、音楽家等と同様に住んでいたことを確言している。
Dorival Caymmiは、泳げなかったにもかかわらず、誰もが彼のようには海について語ってはいない。もし仮にゼー・ケーティが本当に岡の上に居を構えていたのであれば、モーロがしばしば歌詞に扱われるのも当然と言えば当然のことだろう。
A Voz do Morro(1954年)
Eu sou o samba
A voz do morro sou eu mesmo, sim, senhor
Quero mostrar ao mundo que tenho valor
Eu sou o rei do terreiro…
僕はサンバ
そう、岡の声は僕自身の声なのさ
僕に価値があるのを皆に示したい
僕は広場の王様なんだ。