連載エッセイ103:服部則男 「母をたずねて三千里」を探訪して - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ103:服部則男 「母をたずねて三千里」を探訪して


連載エッセイ100

「母をたずねて三千里」を探訪して

執筆者:服部則男(元 海外鉄道技術協力協会派遣 鉄道専門家)

私にとって「母をたずねて三千里」は、中学生の頃に読んだカバヤ文庫の「母をたずねて」であり、子ども達と見たテレビアニメでした。コロナ禍の昨年、偶然、リメイクされた劇場版アニメをテレビで鑑賞し、30数年前のアルゼンチン訪問を思い出し、イタリアからの移民の人々にも関心が膨らみ、「母をたずねて三千里」を探訪することといたしました。

1.アルゼンチンを訪れた時のヒアリング

私は、昭和60年(1985年)11月下旬から約1か月、アルゼンチン国鉄の「北ベルグラード線の電化計画事業化調査(FS)」のため、アルゼンチン共和国を訪問し、ブエノスアイレスを中心に滞在しました。この訪問中に、子ども向けの“物語”ではありましたが、「母をたずねて三千里」のことについて(日系の方の通訳の助けもいただいて)種々お聞きしたところでした。最初は、アルゼンチン国鉄の技術者の方々に、また、フロリダ通りのお店の人々にも聞きました。アルゼンチン第二の都市コルドバの鉄道施設見学の際は、ホテルの人々にも質問を投げかけました。しかし、どなたもこの話を「知りません」でした。

「イタリアのジェノバ港から、マルコという少年がたった一人でお母さんをたずねてアルゼンチンに来た物語です。」「(三千里をキロメートルに換算して)12,000kmの旅をしたという、物語です。」と問いかけましたが、何の反応もいただけませんでした。インタビューの対象は20~30人で、少なかったかもしれません。図書館や児童文化協会など範囲を広げてお聞きすればよかったのかもしれません。もっとも、当時、原作が「クオーレ」であり、物語の題名は「アペニン山脈からアンデス山脈まで」であることは知りませんでした。

2.アニメ「母をたずねて三千里」

(1)日本での上映実績

日本では、アニメとして、1976年1月4日から12月26日まで、フジテレビ系列で毎週日曜日、19:30~20:00に全52話として放送されました。アニメは、監督:高畑勲、場面設定:宮崎駿、脚本:深沢一夫、キャラクターデザインと作画監督:小田部羊一の各氏による作品です。アニメは1年間の放映後、1980年7月、映像を編集したものが「劇場版」として公開されていますが、興行としては不振、公開は1週間で終了しています。更に、1999年4月、リメイク&劇場映画版として、「MARCO母をたずねて三千里」が松竹系で公開されています。その後、2000年に前編・後編に再編成され、BSフジで放映されています。

(2)国際アニメーション映画祭での制作秘話イベント

出典:シネマトゥデイ、高畑勲監督「母をたずねて三千里」が西洋人にも受け入れられた理由(2019年6月25日)より引用。

2019年6月15日、フランス・アヌシー市にて開催中だった「第43回アヌシー国際アニメーション映画祭」で、テレビシリーズ「母をたずねて三千里」(1976年)の制作秘話を語るイベントがあり、キャラクターデザインと作画監督を務めた小田部羊一氏が出演されました。尚、監督の高畑勲氏は前年の2018年4月5日に亡くなられていて出席できませんでした。

トークの前には第1話の「行かないでお母さん」と第2話の「ジェノバの少年マルコ」の上映があり、特に親子の別れが切ない第1話では、会場のあちこちからすすり泣く声が響いたそうです。「母をたずねて三千里」は、すでにイタリアをはじめ海外でも放送されており、この日も約200席の会場が学生などで満席とのことでした。トークイベントは、小田部氏、東京芸術大学特任准教授のイラン・グエン氏、モデレーターのグザヴィエ・カワ=トボール氏で行われました。小田部氏のお話しを抜粋すると、

・アニメの制作で海外ロケが珍しかった時代、「アルプスの少女ハイジ」に続いて、本作でも高畑、宮崎、深沢、美術監督の椋尾篁の4名がイタリアとアルゼンチンへ向かった。

・小田部氏はぎっくり腰で長旅に耐えられないとのことで同行を断念した由。参加できない代わりにと、高畑監督から手渡されたのが「ヨーロッパ俳優年鑑」。そこに掲載の多数の写真から、キャラクターを作るヒントを得たと言う。例えば、マルコのお父さんはイタリア映画「鉄道員」のピエトロ・ジェルミ、お母さんは、フランス映画「居酒屋」のマリア・シェル、ペッピーノ一座の座長ペッピーノおじさんは、イタリア映画「ナポリの饗宴」のパオロ・ストッパといった具合だったそうです。

・また、当時、日本には欧州人は珍しいわけで、出会った欧米人を一生懸命、観察したそうです。イタリア人が食事をして「ボーノ(おいしい!)」と表現したり、肩をすくめたりする仕草など、ありとあらゆる参考になるものを作品に取り入れようと頑張りました、とのことでした。(当日、イベントを取材された、中山治美氏は「アニメが西洋人にも難なく受け入れられている理由が、ここにあるようです。」と記しています。)

・さらに、小田部氏は、「高畑監督も、戦後に入ってきたイタリアのネオリアリズムを描いた映画をたくさん見ていましたので、アニメとはいえ現実の厳しさをきちんと表現しなければならないという意思を持っていました。とはいえ厳しすぎず、さりげなく感じさせる。そういう計算が演出でされていると思います。」と分析しています。

(3)物語の舞台であるアルゼンチンでの反響

出典:[海外の反応]パンドラの憂鬱 海外「日本製だったのか・・」『母をたずねて三千里』が舞台の地アルゼンチンで大反響」2020.8.23付け、より引用。

「パンドラの憂鬱」は、Coolでおかしな日本に寄せられた海外の反応を伝えるサイト。アニメ作品「母をたずねて三千里」をアルゼンチンのサイトが取り上げ、更に在アルゼンチン日本大使館がシェア(共有)したことなどで大きな話題となり、様々な声が寄せられました。サイトには、その中から35件が紹介されています。

・本当に綺麗で、泣ける作品である、懐かしい。(数多く寄せられています)

・泣けるんだけど、同時に元気をもらえる作品だったなぁ。

・繊細なアニメーションで私を冒険に連れて行ってくれてありがとう。

・イタリアの母親が出稼ぎのためにアルゼンチンに来ていたという事実が衝撃的。

・ずっとイタリアのアニメだと思っていたけれど、日本製だったのか。

・ミヤザキ作品だなんて知らなかった。しかも彼がアルゼンチンを旅してたなんて!

・イタリアだと尋常じゃないくらいの人気だったぞ。

・こういう作品は、本来、こっち(アルゼンチン)で生まれなきゃいけないのに。

アルゼンチンの他、ウルグアイ、チリ、イタリア、スペインからも感想が寄せられていました。

3.“原作”を訪ねる。―参照:「クオーレ」和田忠彦訳(岩波書店。2019.7.17発行)ー

(1)「母をたずねて三千里」について

原作は、イタリアの作家エドモンド・デ・アミーチスの「クオーレ」(心)(1886年)という作品の中で紹介されている物語の一つ、“5月のお話し”「アペニン山脈からアンデス山脈まで」です。

アミーチスは、イタリア北部、リグリア地方オネーリア生まれ。道徳心、愛国心の強い子どもで、イタリア独立運動に参加しようとするも、年齢のため断られたことがあるほどでした。成長して軍人となるがコレラにかかって戦線を離れ、イタリア統一を機に以前から行っていた作家活動を本格化させています。1886年に出版された「クオーレ」は博愛と愛国を描き、大ベストセラーとなりました。

「クオーレ」は、エンリコという小学校3年生の少年の1年間(10月から翌年7月まで)の学校生活を描いた日記(自身の体験記)と、その間のお父さんとお母さんからエンリコに宛てた手紙(家族の忠告)、そして毎月、学校で先生が生徒に清書を命じて書き取らせた「今月のお話」と題する物語の3層構造から成り立っています。デ・アミーチスは、小さな読者たちだけでなく、大人の読者にも受け容れられる仕掛けをほどこしたと言われています。「クオーレ」は発表からふたつ世紀を跨いでもなお読み継がれ、数えきれない読者を抱えているとのことです。

(2) 日本での翻訳・発刊

「クオーレ」を「教育小説・学童日誌」と題された翻案として最初に紹介しているのは、杉谷代水[すぎたに だいすい](1874~1915)です。明治35年(1902年)12月のことで、その中の一篇「アペニン山脈からアンデス山脈まで」を「母をたずねて三千里」と題して訳しました。杉谷代水は、坪内逍遥の薫陶を受けた新体詩人であり、のちの国定教科書大きな影響を与えた「国語読本」の編集者として知られています。

(3)題名「母をたずねて三千里」についての検証

「アペニン山脈からアンデス山脈まで」を「母をたずねて三千里」と名付けたことを検証してみました。アペニン山脈はイタリア半島を縦貫する山脈、アンデス山脈は南アメリカ大陸の西側に沿って南北にわたる世界最長の山脈です。そして、マルコは二つの山脈を超えて旅した訳ではなく、ジェノバ港から大西洋を渡ってアルゼンチンへ渡っています。

実際にイタリアのジェノバ港→地中海→大西洋を南下、ブエノスアイレス→コルドバ→トゥクマンまでの距離を計算された方がおります。アニメに出てくるペッピーノ一座は原作にはありませんので、これを考慮して、推定するとその距離は3,100里位になります。また、「三千里」の表現です。仏教でこの世のすべての事を三千大千世界と言い、ここから「三千」とは「とても多いことの例え」として使われています。中国の詩人、李白の詩中に「白髪三千丈」、芭蕉の奥の細道に「前途三千里の思い」の記述があります。辻政信の著書は「潜行三千里」です。杉谷氏は、アミーチスの「クオーレ」の中の物語の題名「アペニン山脈からアンデス山脈まで」を作品の内容から考えて「母をたずねて三千里」に決めたのではと思います。

(4)アニメ「母をたずねて三千里」の基本的なストーリー

ストーリーは、原作に沿ってはいるものの、1年の長きにわたって放映するには量が不足していました。そのために日常生活の細かな描写や、ペッピーノ一座などの原作にはない多くのキャラクターの登場、さらには「クオーレ」の他の短編のエピソードなどが加えられていると言われています。

「クオーレ」の発刊、アニメの製作、アニメの反響などを時系列に並べてみました。

  エドモンド・デ・アミーチス アニメーション
1840  1846.10.21 アミーチス生まれる  
1860 1861年 イタリア、統一国家となる  
1870 イタリア人の大量移住始まる  
1880 1886年 「クオーレ」出版  
1900 1908.3.11 アミーチス没(62歳) 1902年 杉谷「母をたずねて三千里」
1970   1976年 アニメの放映(全52話.1年間)
1980 1985.11 筆者、アルゼンチン訪問 1980.7 編集して劇場版として公開
1990   1999.4 リメイク&劇場映画版で公開
2010   2019.6 仏アニメ映画祭トークイベント
2020   2020年 アルゼンチンでの反響

私が、アルゼンチンを訪問した1985年11月には、もしかするとアミーチスの「クオーレ」、「アペニン山脈からアンデス山脈まで」は、広く読まれていなかったかも知れません。

4.イタリアからアルゼンチンへの渡航

(1)マルコのアルゼンチンへの旅

―参照:「クオーレ」和田忠彦訳(岩波書店。2019.7.17発行)ー

「アペニン山脈からアンデス山脈まで」(アニメにおける「母をたずねて三千里」)の中で、主人公のマルコは、旅の途中で何度も危機に陥いり、そこで出会った多くの人に助けられ、その優しさに触れながら成長していくストーリーになっています。“人々の思い遣りと思い遣りに対する感謝の気持ち”も物語のテーマのひとつとして描かれています。

「アペニン山脈からアンデス山脈まで」の中から、印象的な情景を拾い上げてみました。

・(マルコが父親へ、母親探しの渡航を請願)むこうに着いたら、おじさんの店を探せばいいだけのもの。イタリア人だってたくさんいるから、道くらい教えてもらえるさ。

・(マルコの旅立ち)父親の知り合いの友人にあたる汽船の船長が、この話を聞きつけて、アルゼンチン行の三等切符を一枚、ただであげようと約束してくれた。

・(船旅で故郷の人に出会う)ロサリオという町の近くで畑を耕している息子に会いに、ロンバルディーアからアルゼンチンまでにいくという、人の良いおじいさんとも知り合いになれた。[注:ロンバルディーア州は、ジェノヴァのあるリグーリア州の隣接州]

・(コルドバと聞き、途方に暮れたマルコへ)紳士は手紙を渡しながら言った。「いいかい、イタリアのぼうや、この手紙をもって、ボカにいくんだ。住んでいる人の半分はジェノヴァから来た人たちだから。そこへいって、この手紙のあて名の人を探しなさい。名の知れた人だから。その人なら、あしたきみがロサリオの町にむかう手はずをととのえてくれるはずだ。」こう言って、紳士はマルコの手に、リラのお金をすこし、にぎらせた。「さあ、行きなさい。くじけちゃだめだよ。この国には、どこにいっても、きみのお国の人がいるから。」

・(ボカからロサリオへ向かう船の中、水夫たちに励まされる)夜になると、水夫のだれかが歌う声がした。マルコはその声を聞いては、小さいころ、よく母親が歌ってくれた子守唄を思い出していた。(船旅の)最後の夜、その歌を聞いたとき、マルコはとうとう泣き出してしまった。「しっかりしろ、しっかりしろや。にいちゃん!なんだってんだ!ジェノヴァっ子のくせに、うちが遠いからって泣くやつがあるか!ジェノヴァっ子はな、勇ましく胸を張ってさ、世界をまたにかけるもんだと決まってるんだ。」

(ロサリオでたずねる人が遠出のため不在と聞かされ、一人歩道に佇む)ふいに頭の上で声がして、だれかがロンバルディーアなまりのイタリア語で話しかけてきた。「どうした、ぼうや?」その声に顔をあげたマルコは、ぱっと立ちあがると、驚きの叫びをあげた。「まさか、おじいさん!」

・(マルコの話しを聞いたおじいさん)「おやおや」「なんてことだい!。「まあ、ちょっと待て、これだけお国思いの連中がいるんだ。30リラくらい、見つける手だてがないとでもいうのかい?」

・ふたりは黙ったまま、並んで、かなり長いこと、通りを歩いていった。一軒の宿屋の前で、老人が立ちどまった。看板に星の印が一個ついていて、その下にスペイン語で《イタリアの星》と書いてあった。

・(老人が、今までのマルコの経過を話した。そして)「どうだい、みんな、この子がおふくろさんに会いにコルドバまで行く汽車賃くらい、なんとかしてやれんものかな?」

・マルコの話は、たちまち宿屋中に知れわたった。アルゼンチンの客まで三人、となりの部屋からかけつけてきた。そして、10分とたたないうちに、ロンバルデイーアの老人が差しだしている帽子の中には、42リラのお金が集まった。

・(病に伏せている母親の近くまで来たマルコの姿)大きな海をわたり、失望をかさね、かなしみに胸をいため、悲しみをのりこえ、苦労を耐え忍び、それでも鉄の意志を失うことなくやってきたのだ。そう思いかえすと、誇らしさから、自然と顔が上をむくのだった。からだに流れるジェノヴァ人のつよく気高い血が、一挙に誇りと勇気を燃えあがらせて、大きな波のように、再びマルコの心に流れ込んできた。

4. イタリアからアルゼンチン共和国の移住

1876年から1925年の50年間にイタリアからアルゼンチンへの移住は220万人(イタリア公式移民統計)と数えられています。そして、現在、イタリア系アルゼンチン人は人口4500万人の74%、3000万人と言われています。公用語は、スペイン語ですが。イタリア人居住地はスペイン人居住地とともに、今日ではアルゼンチン社会のバックボーンを形成しています。アルゼンチンの文化はイタリアの文化と重要な関わりを持っており、言語や習慣や伝統においても関わりがあると言われています。そこには、デ・アミーチス「クオーレ」の中で記述されている世界が示されているのでは、と思っています。

個人的な選択ですが、著名なイタリア系アルゼンチン人を記述してみます。

・ファン・ペロン:大統領。妻はエヴァ・ペロン、イサベル・ペロン。1974年没(78歳)

・アストル・ピアソラ:バンドネオン奏者・作曲家、Tango Nuevoを産み出す。1992年没(71歳)

・レオポルド・ガルチェリ:軍人、大統領。マルビナス戦争時の指導者。2003年没(76歳)

・フランシスコ:第266代ローマ教皇(2013.3.13就任)。1936年生まれ(84歳)

・リオネル・メッシ:サッカー選手。FCバルセロナ所属。1987年生まれ(33歳)

※ ブラジルにおける、イタリア系ブラジル人の居住、文化、伝統など

ブラジルでは、アルゼンチン同様、19世紀後半に大量にイタリア人の移住が行われました。国民の15%を占めていると言われています。

著名なイタリア系ブラジル人としては、

・フェルナンダ・モンテネグロ:女優。「セントラル・ステーション」1929年生まれ(91歳)

・ルイス・フェリペ・スコラーリ:サッカー指導者。1948年生まれ(72歳)

・ジャイール・ボルソナーロ:第38代大統領。1955年生まれ(66歳)

イタリア系ブラジル人のエピソードなどを、見聞した範囲で記述してみます。
(1)ブラジル南部、リオグランデドスール州にイタリア移民の中心地の一つと数えられる、ベント・ゴンサルヴェスという町があります。人口は12万人、ワインの中心地として知られています。町にはイタリア移民の姿を展示するテーマパークがあります。

また、観光列車「Maria Fumaca」を運行しています。ベント・ゴンサルヴェスとカルロス・バルボーザの間、約15Kmを2往復しています。観光列車の様子をネットで見ますと、車内で、駅のホームで、ワインを飲み、アコーデイオンに合わせて、皆さん楽しげに「フニクリフニクラ」を歌い、踊っています。

(2)非公式ですが、サンパウロ市歌とも称される「Trem das Onze(11時の夜汽車)」

イタリア系移民のアドニラン・バルボーザの作詞・作曲の歌で1964年に発表されました。

空前のヒット曲となり、現在もサンパウロ市民に愛されています。アドニランは帽子と蝶ネクタイがトレードマークの紳士だったといわれています。派手な生活とは無縁で、イタリア系移民の多く住むビシーガという町を愛し、生涯その日暮らしのボヘミアンな生き方を送ったと言われています。1982年に72歳の生涯を閉じました。

(3)FIFAコンフェデレーションカップ2013(ブラジル、レシフェ。2013.6.19)

日本3対イタリア4を終えての本田圭佑氏の感想があります。「完全、アウエーなのに、ジャポン!ジャポン!の大声援、ホーム試合のようで大変感激しました。」日系ブラジル人よりイタリア系ブラジル人が圧倒的に多いのにも関わらず、日本チームへの声援に感激したとの談話です。ブラジル人の日本びいきでしょうか、日本の監督はアルベルト・ザッケローニ氏(イタリア人)ということもあったのでしょうか。

(4)ブラジルのピアーダ(小噺)に、日系人の勤勉さを示すと語られている話があります。

“第二次世界大戦の末期、先ず、イタリアが手を挙げた。ブラジルに住むイタリア移民たち

は「これでやっと。いやな戦争が終わった」と喜んで大騒ぎをした。次にドイツが降伏した。ドイツ移民は店を閉じ仕事を休んで祖国の敗北を悲しんだ。最後に日本の敗戦。日本人移民は、泣きながら働いていたという。“このピアータは、事実のように考えられていたが、サンパウロ大出身の日系人が、実際にコロニーを訪れ、当時の状況を聞かれたそうです。すると、“働いていたということはなく、敗戦を悲しんでいた”そうです。私は、イタリア移民も日系人と同様、祖国の敗北を悲しんでいたのでは、と思っています。

イタリア系アメリカ人一族の栄光と悲劇を描いて映画化もされた「ゴッドファーザー」の原作者のマリオ・プーゾ(イタリア系移民)は、インタビューでこう語っています。「イタリア系というと、陽気でカンツオーネでも歌っているイメージがあるようだが、そんな光景は決してなかった。」と。

5.日伊国交150周年記念シンポの講演から

「母を尋ねて三千里」に触れている部分を抜粋

演題「イタリア人は天才か落ちこぼれか?」・・京都産業大学非常勤講師、斎藤泰弘氏

―日伊国交150周年記念シンポジウム(2016.11.12)においての講演―

この記念シンポジウムの皮切りとして、イタリア人の歴史的な性格について話をしたいと思います。おそらく私の後で話されるパネラーの方々は、イタリアの美しさとか、イタリア人の才能とか、彼らの美点などについて、いろいろ取り上げられると思います。そこで私はそれを見越して、あえてイタリア人の欠点とか悪徳という形の部分について話をしたいと思います。

・その1:「イタリア人は天才か落ちこぼれか?」

少なくとも「秀才でも凡才でもない」こと、つまり平均的なエリートタイプでも、平均的な普通の人間でもない、という話をしたいと思います。

・その2:「イタリア人は自分の国を信用しない唯一の国民である」

・・・それでは、イタリア人には愛国心がかけているのかというと、実はそうでもないのです。イタリアという国ではなくもっと小さな母国、つまり自分の生まれ故郷や,自分の家族や親族などとの繋がりなど、自分の目で見て、自分の手で触れることのできる生まれ故郷に対する愛着、この愛郷心だけは、他のいかなる国の人々よりもはるかに強いのです。しかもこれがイタリア人の面白いところなのですが、彼らにはそのような濃い血縁関係と地縁関係の世界に根を下ろしていたいという衝動を持つと同時に、そのような狭くて濃密な関係から逃げ出したいという逆の衝動も常に持っているようなのです。

・その3:結論 イタリア人は平均的なタイプでなく、エキセントリックなタイプだ。

ですからイタリア人というのは、普通の平均的なタイプ、つまり秀才とか凡才ではなく、ちょっとエキセントリックで、いい意味でも悪い意味でも並外れたタイプ、つまり、はっきり言うと、落ちこぼれ的なところもある天才タイプだ、と言うことができます。

それを象徴するのは、テレビアニメの「母をたずねて三千里」のマルコ少年でしょう。彼はアルゼンチンで音信不通になってしまった母親を訪ねて、ジェノバから南アメリカの奥地にまで一人で旅をして、ついに愛する母親に会うことができました。離れ離れになった母親を見つけに行くために、この少年は実際に考えられなほどの苦難の旅と、さまざまな異国の人々との交流を経て、ついに母親と再会することができたのですが、同時にこの少年は、イタリアの外に広がる大きな新世界を発見して、その新たな市民となったのです。

イタリア人というのは、常に郷土愛(カンパニリズモ)から始まって、すぐに狭い国境を飛び越えて、世界市民(コスモポリタン)となって活躍するような人々です。そのことは14世紀の冒険商人マルコ・ポーロや、15世紀末のコロンブスの例を見れば頷けると思います。そして、このようなエキセントリックなタイプの人間を、イタリアは今後とも生み出していくはずなので、乞うご期待ということにして、このシンポジウムの前座の話を終わることにいたします。

6「母をたずねて三千里」の探訪を終えて

「母をたずねて三千里」の探訪を終えて、デ・アミーチスの「クオーレ」、及び「アペニン山脈からアンデス山脈まで」をより深く広く理解できたということになりました、イタリアの人々をとてもよく知ることができた旅でもありました。そして、移住された方々も含めてイタリアの人々をより身近に、親しく感じたという思いをしています。アルゼンチンはイタリアからの移住者がとても多いです。エドモンド・デ・アミーチスの「クオーレ」、そして「アペニン山脈からアンデス山脈まで」は、どのように読まれているのか、ぜひ知りたいと思っているところです。