連載エッセイ105:渡邉裕司 「フジモリ軍民体制の光と影」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ105:渡邉裕司 「フジモリ軍民体制の光と影」


連載エッセイ102

 「フジモリ軍民体制の光と影」

執筆者:渡邉裕司(元ジェトロ・サンパウロ所長)

フジモリが軍と謀ってクーデターを決行したのは政局の緊迫する第一期政権(1990-95年)も半ば近い1992年4月。厳しい経済安定化策、保護経済から開放経済への構造転換やテロ対策は多数派野党と腐敗する司法の抵抗勢力に阻まれて苦戦し、折りから日本の支援物資古着の大統領親族による横流し疑惑があろうことか身内の大統領夫人によって告発された。野党が議会調査委員会への関係者喚問を要求するその議会開会前夜、主要都市に軍が展開した。大統領選決選投票で2位フジモリの支持に廻ったAPRA党は今や反政府の急先鋒、その前大統領アラン・ガルシアは直ちに地下に潜行し、国外に脱出、高名なジャーナリストが逮捕され政治家、高官多数がパージされた。フジモリの賭けは見事的中し、非常措置は国民の圧倒的支持を得る。制憲議会選挙を経て翌1993年、大統領権限を強化した新憲法が国民投票で承認され、新たな統治モデルとして事実上の軍民体制Régimen Cívico-Militarが敷かれ、当時世界的潮流となった新自由主義経済路線が推進された。その後第二期政権(1995-2000年)は極左テロ制圧に成功し、フジモリの積極近隣外交は軍事衝突も繰返した積年のエクアドルとの領土紛争を決着させ(1998年ブラジリア協定)、チリとの領海線確定を残すのみとなった。伝統基幹部門鉱業や大型民営化案件などへの外国投資が流入し、治安回復で観光部門も成長したが、製造業など雇用効果の大きい労働集約分野に目に見える裾野の拡大は見られなかった。構造的失業と社会格差は改善しないまま大衆貧困層の不満は燻り続けた。マクロ経済は安定し、幹線道路網などインフラ整備が進み治安も回復して投資環境は見違える様に改善したが、次に打つべき決め手を欠いたのだ。かくて第二期政権後半から第三期政権にかけて軍民体制は目標を見失ったかの様な無力感も漂い始め、やがて長期安定政権を揺るがす内政不安が表面化した。軍部による隣国コロンビアのゲリラ組織FARCへの武器密輸事件の発覚に続き権力中枢の根深い闇が暴かれフジモリの時代が終わる。

Auto-Golpe

1992年4月5日深夜、フジモリはTVで国民に「憲法停止、議会解散、司法権への介入など一連の非常措置を採った」と声明し、三軍・国家警察の支持を得て自分が全権を掌握し非常国家再建政府を樹立したと発表した。立法府が政府の国家再建を妨害し、腐敗した司法が治安対策と汚職摘発の障害になっていると措置の理由を説明した。戦車も動員し、政府自らが全権を奪取した所謂「自己クーデター」Auto-Golpe・・世界はこれをフジモリのself-coupと一斉に報じた。しかし政府自らが緊急避難的にとは言え立法と司法権を力で停止したという意味で、形はともあれ中身は立派な軍事クーデターだった。ただ違うのは大統領が替わらないのと軍が表に顔を出さないだけだ。この措置は内外の激しい非難を浴びるが、直後の国民支持は世論調査で80%を超えフジモリ改革を妨害する議会、司法検察への根強い不信が露わになった。市民のテロ犠牲は2万を超え、街は土嚢が積まれ市街戦の様相を呈したという80年代首都の光景を想像すれば当時の社会情勢がよく分る。伝統的ポプリスタAPRA党前政権(1985-90年)の失政による負の遺産は破壊された平和だけでない。経済は落込み失業が増大、モノ不足、年率数千%のインフレ、底を尽く外貨、対外債務不履行・・この惨憺たる窮状はラ・モリーナ国立農科大数学教授あがりの政治素人にして日系マイノリティー階層出身の泡沫大統領候補フジモリが型通りの民主的ルールに則っとって再生できる様な生易しいものではない。頭脳では人一倍の自負を持つフジモリ・・だが政治経験も資金力も政治の後ろ盾もない日系学者にとって破壊から創造への挑戦には国民の支持に加え軍の力も借りねばならない厳しい現実が立ちはだかった。それは大統領選の大物右派対抗馬M.バルガス・ジョサとて同じだったのではないか。何故なら彼はフジモリとは違い当初から伝統的閉鎖経済を捨て不人気な自由開放経済に転換する公約を前面に掲げたからである。

ただ日系人とは言ってもフジモリが現地日系社会に票田を有していた訳ではない。むしろ全く逆で日系人口がそもそも微々たるうえ、日本では知られていないが、フジモリ自身が日系社会とは付き合いがなかったからだ。国営TV7チャンネルの政治討論番組Concertandoのキャスターを務めたフジモリを番組で見て知ってはいるが、実際に日系社交界にその姿を見た人は普通はいない。更にフジモリ出馬を知った日系幹部は公然と反対を表明したからフジモリにとって日系社会は票田どころかむしろ逆風となった。「政治に関与せず目立たず勤勉を貫く」が戦前から長く日系人の信条となった。政治に関わることで戦前の日本移民排斥や日米開戦後の日系幹部のアメリカへの強制連行の悪夢が蘇るというのだ。

選挙が近づくにつれ未知の中央政界進出に不安が募るフジモリの胸の内を象徴する面白いエピソードがある。1990年大統領選決戦投票を前に対抗馬バルガス・ジョサとのTV公開ディベート番組が組まれた。とても勝ち目はないと見たフジモリは人を介して支援政党APRAの現職大統領A.ガルシアに諜報機関を使ってでも何とか放映時刻に首都大停電を工作するよう密かにもちかけたのだ。討論相手は世界に名だたるノーベル文学賞候補(2010年受賞)の舌鋒鋭いオピニオンリーダー、スペイン系旧保守支配層の代表格だ。何とか討論会を中止に追い込み自らの失点を覆い隠そうと目論んだのだ。これを聴いたA.ガルシアは使いに一喝したという。「チノに伝えろ。大統領にもなろう男がcojones下げてんのか!」と。まさか「ありません」という訳にもゆかずフジモリは仕方なく全身の力を振り絞って何とかTV討論を終えた。その時の映像はフジモリの表情が心なしか不安に蒼ざめ自信なげに見える。かつてアメリカ大統領選でケネディーとTV討論し敗北したニクソンのそれに似ている。しかし選挙戦で少数民族出身の辛酸を舐めたそのフジモリは今や軍民体制率いる押しも押されぬ共和国大統領、統帥権も掌握する憲法上の最高司令官・・それは正に世界史が特筆すべき奇跡であった。1968年クーデターで登場し自らを「軍事革命政権」と称し大規模な農地解放と主要産業・石油メジャー国有化を断行、対ソ・キューバ接近を図った軍部左派J.ベラスコにも劣らない・・その大物軍人大統領(1968-75年)にフジモリ自らを重ね合わせてみても圧倒的軍民支持を得た自分に決して不足するものはないと自信を深めるのだった。大統領肩章を身に纏い軍首脳を従えて独立記念式典に臨む威風堂々たる今日のフジモリの姿を、政治に無力のかつての日系学者時代に一体誰が想像し得ただろう。

テロ戦争の勝利

大司教:「大統領、私はガソリンが切れもう疲れ果てました。交渉の仲介は限界です。どうかナンシーを私に下さい」
フジモリ:「ダメです。油が切れたのは私も同じです。ここでゲリラの要求に屈すれば我がペルーの正義はどうなるのですか?」
人質救出軍事作戦が迫る1997年4月、リマ大司教シプリアーニは官邸に大統領を訪ね最後の談判を試みた。その前年末、日本大使公邸を占拠し、多数の人質をとって仲間の釈放、身代金、国外脱出を要求するのはペルーの二大極左ゲリラ組織のひとつMRTA(トゥパクアマル革命運動)。服役するナンシーとはその釈放要求リストの筆頭、占拠部隊指揮官セルパの妻だった。せめてナンシーだけでも差し出し、長期に膠着する事件を何とか打開したい大司教の懇願にフジモリは頑として首を縦に振らなかった。その僅か数日後の4月22日、ペルーの最も長い日が明けた。軍特殊部隊は密かに掘り進んだ地下と地上から公邸に突入して救出作戦を開始、最小限の犠牲を払いながら、ゲリラ部隊を殲滅し人質を解放した。犠牲が大き過ぎ実行は困難と見られたこの種軍事行動が世界で成功した例は稀で、1976年イスラエル部隊のエンテベ空港奇襲作戦を除いて他にないと言われた。「並みの大統領」なら疲労困憊し、人命優先を名分にゲリラの要求を入れとっくに終わっていたはずの事件・・だが長引く神経戦に耐え国家危機に敢然と立ち向かうこの日系大統領の強固な意志は国民が少なくとも勝利への希望を持ち続けた唯一の根拠でもあった。公邸制圧と人命救出の二兎を追う困難なこの作戦はフジモリとその体制を陰で支える諜報機関SIN(国家情報局)顧問ウラディミロ・モンテシーノスによって練られ、実物大の模擬公邸を使って、机上演習と突入シミュレイションが何度も繰返された。MRTAのこの敗北を以ってペルー極左勢力最後の武装闘争は終わり、テロ組織はもう一方のSL(センデロ・ルミノーソ、PCP-SLペルー共産党輝ける道)とともについに壊滅した。治安が悪ければ制度は整えても外国投資など来ない。外国投資促進は雇用を決める民間投資の切札であり、そのための最優先課題テロ戦争の勝利はフジモリ第二期政権(1995-2000年)を象徴する歴史的快挙となった。

フジモリ退陣表明

それは第三期政権に入って僅か2ヵ月足らずのことだった。1990年~2000年11月まで3期連続10年目の長期政権を樹立し、経済安定化と治安回復を遂げたフジモリが権力の座を追われる時が来た。政権周辺に異様な雰囲気が漂い始めた2000年9月16日(土)夜、TVは短いが衝撃の大統領声明を速報した。フジモリは「政権の信頼失墜」を理由に、①翌2001年4月に総選挙を実施する、②同年7月政権を移譲する、③諜報機関SINを解体する、と発表し、フジモリ軍民体制の終焉を国民に予告した。自ら身を引かざるを得ない背景は明らかにその2日前の野党による極秘ビデオの暴露公開だと直感させた。声明は詳細を語らなかったが、時間の経過とともに権力中枢の犯罪が明らかになる。

極秘ビデオ暴露

フジモリ退陣表明の2日前9月14日、反フジモリの執念に燃える野党「倫理浄化戦線党」FIM党首F.デ・オリベイラはフジモリの前妻スサーナ・ヒグチら側近議員を従え、権力にトドメを刺す恐るべき極秘ビデオをTVで暴露公開し騒然となった。デ・オリベイラは会見で民主主義回復のためビデオを10万ドルで買った、提供者の身元は明らかにできないとした。ビデオにはフジモリを支え軍人事をも支配する影の実力者モンテシーノスSIN顧問が野党議員でカヤオ市長実弟のアルベルト・コウリを与党への鞍替えに分厚い札束で買収する現場が生々しく記録されていた。この年2000年4月総選挙で苦戦したフジモリ与党「Perú2000」は7月の新議会会期を前に議会(一院制定数120)多数派工作を進め、政界ではモンテシーノスの買収工作が公然と指摘されていた。FIMの暴露ビデオはSIN秘密工作の実態を証明する動かぬ証拠だった。政界に衝撃が走り、体制崩壊を察知したモンテシーノスは9月23日(土)夜、カルロス・ボローニャ経済相がロメロ財閥に手配させた双発機で少数の側近と愛人を従え亡命を求め、リマを発ちパナマに向かった。以後、与党内のフジモリ離れが始まる。安定多数を確保し、2005年まで第三期政権を支えるはずだった与党から先ずセシリア・マルティネス議員が離党した。その後も反フジモリを表明する与党議員の離党が相次ぎ、事態はPerú2000の議会過半数喪失、11月13日の与党議長解任とフジモリの出国亡命、20日の東京から議会宛ての大統領職辞表提出、21日のこれに対する議会のフジモリ罷免へと発展した。問題のビデオはモンテシーノス自らがSIN本部応接室内の模様を盗撮し隠し持っていたひとつ(筆者注:録画の目的は被写体人物を必要に応じ恐喝し謀略工作に利用すること。事態を憂慮したフジモリは政府に関係する録画がないかモンテシーノス周辺を捜索令状なしで「違法家宅捜索」を行っている)。最近まで誰がどのようにビデオを盗み出し公開したのかは謎だった。野党勢力など政界の陰謀、CIAや軍の謀略、SIN内部犯行説が流れたが、その後、政府、司法、議会、軍部等あらゆる権力、メディアを支配するモンテシーノス巨大犯罪網の公判が進むにつれ、動機は不明だが、単独犯としてモンテシーノス周辺の一人の女が浮上した。それはSIN本部でモンテシーノスに親密に仕えた女Matilde Pinchi-Pinchi・・2003年4月24日付ペルー有力誌Caretasは特集「体制を葬った女」で事件の内幕を生々しく伝えている。記事邦訳以下全文(文責:筆者)。

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体制を葬った女

渦中の「コウリ・モンテシーノス・ビデオ」を盗み出した女は起訴案件70を超える一連のモンテシーノス裁判の司法協力者マティルデ・ピンチ・ピンチ。彼女は今から3年前までSINモンテシーノスに仕える有能な家政婦かつ親密な女友達、マッサージ師、会計係、協力者だった。動機は良く分からないが、彼女自身の司法供述によれば彼女は正しいと信じて決意し、氏名は明かさないが3名の下士官を仲介に使い爆弾ビデオを暴いた。それは司法協力者第010-01号ピンチ・ピンチの陰謀と裏切り、熱情のストーリーである。2003年4月21日(月)正午、小柄なピンチ・ピンチはレカノス最高裁判事室から髪に手をあてがいエレガントな服装に眼を落としながら出て来た。フジモリ政権のホイワイ元経済相の犯罪を暴いた直後である。彼女はバモス!と誘うと記者達は最高裁の狭い階段に彼女を追った。マスコミは大騒ぎであった。それは前日、ピンチ・ピンチがTV2チャンネルの日曜特集で、モンテシーノスとその恋人ジャクリーン・ベルトラン(通称ジャッキー)は激しい喧嘩をよくしていたと証言したからで、そんなに関係が悪くなっていたのかとの質問にピンチ・ピンチは「ええ、しょっちゅうよ、もう普通じゃなかったの」と応じた。記者達は帰り始めた。それはピンチ・ピンチがもっと静かな別な場所で話す気がないようだったからである。「何の話を聴きたいの?」と急ぎ足で彼女は尋ねる。彼女はルイス・フランシア弁護士と付き添いの司法警察官2名を同伴している。我々はモンテシーノス・ビデオのことだと返すと効果があった。「貴方達は私の司法協力の中身を見たの?」と驚いた様子で尋ね、車窓を黒いフィルムで遮断した赤のトヨタでパチエタ通りへ走り去った。ピンチ・ピンチ48才は司法協力制度(有罪を認め情報提供する代償に刑事責任の減免を得る制度)の注目のスターとなった。この制度で検察庁は有益な情報と交換に彼女に刑執行猶予の利益を与えた。彼女の証言と持ち寄る証拠で新たに20以上の犯罪の立件、訴訟が可能となった。SINの有能な家政婦、モンテシーノスの女友達、会計係、マッサージ師ピンチ・ピンチは自身の犯罪の供述にも拘らず刑法上の利益を受けることには多くの批判がある。つい最近、モンテシーノス汚職網担当判事達はピンチ・ピンチが輝きを放つ価値ある真珠だと気付いた。彼女が口を開くと関係者の多くは震え上がる。しかし意外なのは彼女の最初のビデオ暴露でフジモリ政権を僅か8週間で打倒した政治的大異変を起こしたことである。カレタスはここ数週間でコウリ議員を買収するモンテシーノスが写るビデオをFIM党に売り渡した下手人はピンチ・ピンチだったことを示す多くの証言を得た。2000年9月14日にビデオがTV公開され、FIM幹部が認めるようにそのビデオに10万ドルが支払われた。

<司法取引き>

フジモリ体制が崩壊すると直ちにピンチ・ピンチが引っ張り出された。2001年11月、彼女は議会に喚問され、その年の2月には彼女への司法協力法適用が官報に公告された。2001年2月26日、彼女は第1特別刑事検察に証言した。カレタスは今週、終にその検察の「決定第010-2001-B」を入手したが、そこにピンチ・ピンチの宣誓がある:「私は司法協力を申し出ます。何故なら情報を提供したいからです。私を信じて下さい、真実を話します。ビデオを盗み出したのはこの私です。私を助けて下さい。私が襲撃されないよう身の安全確保をお願いします」。この恐るべき宣誓後、ピンチ・ピンチはSINに出入りし買収された他の司法判事達についても知っていることを全て供述した。彼女は自身が買収工作用の現金封筒を準備したこと、そしてモンテシーノスに近い容疑者メドラノ最高裁判事事件についても全てを話した。この証言は直ちに汚職担当ペニャ判事に送致され判事はその日うちにピンチ・ピンチ逮捕命令を執行した。しかしピンチ・ピンチの供述を見たペニャ判事はそれが例外的価値を持つと判断し、僅か2日後に女が司法協力者になることを許可した。その司法協力コードは010-01、その経緯は司法協力制度が有益で合法であることを示す。

<モンテシノースの誤算~SIN長官を疑う>

驚くべきことにモンテシーノスが身近なピンチ・ピンチを全く疑わなかったことである。事件後、モンテシーノスは誰が裏切り者か犯人捜しに奔走した。それは2000年9月後半のことで、ビデオ・スキャンダルをもはや揉み消す事も出来ず、不確実なパナマ亡命の可能性を期待し続けていた不安定な時期だった。下手人は誰か?誰が野党の手にテープを売ったのか?モンテシーノスはパナマ脱出に同行したSIN法律顧問ウエルタス弁護士とSIN下士官トゥジュメの側近2人と協議し、犯人は誰かで意見が一致した。モンテシーノスによればSINの名ばかりお飾り長官ウンベルト・ロサス海軍少将が状況証拠から疑わしく彼に的が絞られた。彼は2000年8月21日に、フジモリとモンテシーノスが行った記者会見(注:ペルー軍部によるコロンビアFARCへのAK47自動小銃1万丁の密輸事件摘発・処分の発表)を廻りモンテシーノスはロサスが自分を恨み怒っていたと思い込んでいた。この会見でモンテシーノスは対FARC武器密輸を摘発したと発表したが、実は自分が後ろで指揮していた。モンテシーノスは実権のないSIN長官ロサス提督には何ら事前の説明もないままも彼をベルガミーノ国防相とチャコン内相の両将軍とともに会見場に同席させた。当時のカレタス第1633号は「(ロサス長官を無視し)2人の将軍がマイクをフジモリからモンテシーノスに手渡す重要な役目を果たした」とその時の状況を報じている。このプレス発表はロサス提督にとっては最悪だった。会見テーブルの隅に座らされマイクを動かす事すら彼にはできなかった。ロサスこそこの巨大な裏切りをするに十分な根拠がある、とモンテシーノスは疑った。しかしロサスにはビデオ保管金庫へのアクセス手段はなかった。それができたのはウアマン・アスクラ陸軍大佐だった。チョロのウアマン(注:チョロは先住民系)で知られるこの男、実はモンテシーノス軍団では揺るぎない忠誠心を評価される盗聴と盗撮のスペシャリストだった。この人物は1991年の左派アプラ党アラン・ガルシア大統領への違法盗聴関与で頭角を表わした(カレタス第1182号)が、51才になるウアマンは軍・警察人事までも支配するモンテシーノスの計らいで、陸軍少将への昇進を夢見ていた。モンテシーノスは実行する気もない昇進をちらつかせウアマンの期待を膨らませた。ウアマンにはロサスに代えてSIN長官ポストを示唆するまでに至ったが、それはモンテシーノスのいつもの手口だった。元SIN要員の証言ではウアマンは諜報活動では素晴しい仕事をしたが、モンテシーノスは彼の能力の限界を知っていた、とも言う。
しかしウアマンの不満は自分の親分を裏切る程のものだったのか?ウアマンはモンテシーノスの最も苦しい時期に忠誠を通している。爆弾ビデオ事件後の大騒ぎの数週間、ウアマンは逃げ隠れする事も無く、SINで通常執務を続けていた。そして彼は事件後のSIN大掃除(注:政権崩壊察知後、SINは大量の秘密書類、設備等を焼却廃棄した)を無難にこなし、ピンチ・ピンチのような司法協力の裏切り意志は示さなかった。この退役大佐は今、カヤオのサリタ・コロニア刑務所に収監中で、ロサスはサン・ホルヘ刑務所収監後、自宅拘禁の身である。では誰がビデオを盗んだか?ウアマンを除いて秘密金庫にアクセスできる残る唯一の人物はピンチ・ピンチであった。

<ビデオ暴露の動機>

各種証言によればピンチ・ピンチはもともと自分と一緒にSINで働いていた3名の下士官を使いビデオを野党第一党アプラ党幹部に渡そうとしたが、アプラの手には渡らなかった。3名の仲介者がピンチ・ピンチの命令を履行しなかったのか、ピンチ・ピンチが当初の指示を変更し、テープを誰にでも売っていいと認めたのか、定かではない。確かなのはFIMが他の複数の政党が何らかの理由でテープを買わなかったその後にテープを入手したことである。ではピンチ・ピンチは何故テープを暴いたのか?恨みが原因か?彼女は否定し決して明らかにしないが、大方は彼女のモンテシーノスとの関係にある、と見ている。カレタス第1767号で報じたが、リマの南アリカ海岸の豪華な別荘でモンテシーノスと同棲していた愛人ジャッキーはその日記に、2000年9月のロシア旅行中(注:モンテシーノス公務出張に2名が同行した)にあったピンチ・ピンチのジャッキーへの激しい嫉妬攻撃を記している。しかしピンチ・ピンチはそんな見方を否定し、「彼女が私に嫉妬していたかなんて知らないわ。彼女は私には無い美貌の持ち主、私にない学歴もある」と語る。

<SINから死の脅迫>

しかしビデオはモンテシーノスらがロシアから帰国して僅か5日後に暴露された事実は注目すべきである。にも拘らず、FIMのルイス・イベリコ議員は、ビデオ買収交渉は帰国よりずっと以前の8月第3週には始まっていたと明かす。SINでは働いていなかったある女がイベリコに電話し、重要情報を提供したいので会いたいと持ち掛けてきた。その女と何度か会った後の8月30日、ピンチ・ピンチと一緒に働きテープを所持していた3名の下士官の1人とプエブロ・リブレのある家で会った。その下士官はスーツケースからVHSレコーダーとモンテシーノス・ビデオ1本を取り出した。内容を見たイベリコは驚愕し、直ぐオリベイラFIM党首に連絡した。仲介者は5本のビデオと犯罪を証明する一連のおまけ付き危険文書も一緒に売りたい、と申し出た。価格はビデオ1本10万ドル。企業家フランシスコ・パラシオスがFIMのビデオ購入に代金を負担し、9月2日に決済された。当初計画ではビデオを全て買収し、一挙に公開する予定だったが、そのプランは流産した。というのはモンテシーノスとその随員がロシアから帰国したその日、9月10日、SIN内部はビデオ流出が発覚し、大騒ぎになったためにカネの調達が間に合わず、全部買い取れないまま行動に移ったからである。最初に死の脅迫を受けたのは仲介者の下士官達だった。カレタスは彼らが国民人権擁護官事務所に、もっと正確には当時の副擁護官で現在の人権擁護官アルバンに人権の保証を求めたことを確認した。当然だが、本件に関する文書記録はSINに知れると危険なので事務所には残っていない。擁護官事務所によれば、3人はSINから盗み出した残りのビデオを手にじっと身を隠していた。9月11日、オリベイラが先ず死の脅迫を受け、14日にはイベリコにも同じことが起きた。このような状況下で記者会見が直ちに決定され、FIMが持っていた唯一のビデオをメディアに公開した。これが最初のウラディ・ビデオである。2001年2月24日、ピンチ・ピンチのサン・ボルハ宅を捜索したところ、6ヶ月前に仲介者達によってFIMにオファーされたのと明らかに同じ複数の文書が発見された。そのひとつは衝撃的だった。サムエル・ウインターとメンデル・ウインター兄弟によって署名されたもので、それはTV2チャンネルFrecuencia Latina株をマスコミ支配を狙うモンテシーノスに売却する契約書だった。それは2000年8月30日にルイス・イベリコが最初にモンテシーノス・ビデオを見た時、やはり見せられた文書だった。イベリコはその時、契約書のコピーを要求したが署名と指紋押捺の信憑性を確認するために文書の半分の部分のみ手渡されていた。それは物凄い価値あるものだが善意で提供されたものである。2002年初め、ホセ・フランシスコ・クロウシラットとホセ・エンリケ・クロウシラットがTV4チャンネル América Televisiónをモンテシーノスに売却したことが知れると、イベリコはTV2チャンネルの番組ContraPuntoで6ヶ月前に流出した文書の存在を暴露した。それによりイベリコは同時に、ウインター兄弟がモンテシーノスとも取引きしていたことをも公表した。ピンチ・ピンチの自宅で見つかった物は彼女の司法証言が根拠のあるものであることをまたも証明することになった。

<本人は犯行を否定>

ピンチ・ピンチは自分が関与した公務員の汚職、公金横領、不正蓄財、犯罪の共謀、立法権の侵犯、犯罪揉み消し、公共の信頼に対する犯罪、脱税など一連の犯罪の責任を認めている。しかしピンチ・ピンチの司法協力者への変身は実に素早かった。司法関係者は彼女の利益(刑事免責)は彼女を司法が協力者として認めて直ちに決定されたと言う。彼女には出頭命令が下されるが、いかなる逮捕拘禁もないことが保障された。しかしそのことはビデオ暴露の翌年に禁固4年の刑の執行猶予と市民社会への100万ドル賠償金支払い命令を無効にするものとはならない。いくつかの証拠があるのにも拘らずピンチ・ピンチはモンテシーノス・ビデオ流出に手を下したことを強く否定する。先日の最高裁での会見中断の翌朝、ピンチ・ピンチはカレタスに電話してきた。イライラした様子で彼女は2001年2月に検察に対して宣誓した内容をキッパリと否定した。「私はビデオを持ち出してなんかいない。もししていれば私の裁判は取り消されていたはずです。国への賠償金も何ら払わなくて良かったはずです」。彼女は勘違いしている。司法協力というのは不逮捕特権とは違うのである。「そうですよ!」と彼女は付け加え、「貴方たちはビデオを持ち出した人に感謝すべきです。その人の行動が国を変えたのです」。どうやら彼女はカレタスが司法の「決定第010-2001-B」を確認し、これをカレタスが入手した各種証言と突き合わせて検証していることを知らないのだ。(終)
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