連載エッセイ109:細川多美子 「知らぬ仲にもコロニア人情物語」 「日系社会実態調査」結果報告書には書ききれなかった真実 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ109:細川多美子 「知らぬ仲にもコロニア人情物語」 「日系社会実態調査」結果報告書には書ききれなかった真実


連載エッセイ106

知らぬ仲にもコロニア人情物語
「日系社会実態調査」結果報告書には書ききれなかった真実

執筆者:細川 多美子(サンパウロン人文科学研究所第一常任理事)

今までブラジルに住みながら将来の目標を尋ねられたときには、「立派な移民母さんになること」と返事をしてきた。ブラジルにおける日系女性たちの活躍は、一般にお母さんとしての功労にまとめられてしまいがちで個人に絞られるのが難しいため、記録に残りにくいが、家族のために身を粉にして働き、ない材料から和食を生み出し、人のためにも骨身を惜しまず奉仕してきたことは日系社会の誰もが知っている。ブラジル中どこへ行っても、豆腐も味噌もお饅頭も事欠かない。その知恵と努力に敬意を表し、同時に怠惰な自分への戒めとして、見習いたいと思ってきた。

日系人が多いと言われる町は、もともと移住地として開拓された土地と、そこから移り住んでいった大都市・中都市がほとんどだが、そこには主に「文化協会」という名で日系団体が存在している。今回、それら団体がどんな形態で存続しているのか、またその団体が存在する町においてどんな役割を担い、地域に影響を与えているのか、日系社会と言われるものの実体と実態を知る目的で「日系社会実態調査」として、ブラジル全国に散らばるその団体をひとつひとつすべて訪問した。そもそもそれらがどこにいくつあるのかという実態がわかっていなかったので、訪ね尽くすまでその総数は謎だった。最終的に調査の報告書を仕上げた2020年12月の時点で、422団体(スポーツクラブや連合、県人会、宗教、趣味等の団体は含めない)が何らかの活動を続けていることがわかった(当調査の結果報告書は、人文研サイトhttps://www.cenb.org.br/に掲載)。

この調査は、それぞれ団体の本拠地である会館を実際に訪れ、そこで会長はじめ役員の方々に直接会って140問余りの質問をするという手のかかるもので、どんなにがんばっても同一の調査員が行えるのは1日2件が精一杯、総勢19人が調査員として全国を巡ることとなった。2人一組のチームで、おばさん2人というパターンが多かった。

あらゆる手を尽くして会館の連絡先を見つけ出し、電話やメールでこちらの身の上や目的を説明し、インタビューのアポイントをとる。この時点で怪しまれて拒絶されても不思議はないが、約束が成立しなかったことはなかった。今思えばこれだけで十分ありがたい話だ。

もともとわからないことを知るために行うのが調査であり、出たとこで丁と出るのか半と出るのかは、賭けと言わざるを得ないところが含まれているものだと思うが、この件については間違いなく協力してくれるという目算があった。これまでのコロニア(「日系社会」はこのようなときには「コロニア」と呼びたい)のお付き合いの中で、移民母さんはお腹の空いている人をそのまま帰すような、頼っていく人を冷たくあしらうようなことを決してしなかったからだ。

見知らぬ人間が訪ねてくるというのは、鬱陶しいことに違いない。「サンパウロ人文科学研究所」と名乗ったところで知名度は低く、私たちがどこの誰なのかがはっきりしない。迎え入れたはいいが、懐疑的な視線が向けられることもなかったわけではない。最初の挨拶から調査が始まれば、しつこい質問が2時間も続くのだから、相手はうんざりだろう。しかしながら、結果から言えば、斜に構えているように見えた会長さんや役員さんも、2時間後には心打ち解けて話をしてくれるようになり、そのあとにはビールでますます盛り上がり、結局昼から夜まで飲み続けるなどということすらあった。

ひとつの調査を終わらせるたびに、「こんなにお世話になってしまった」感に恐縮し、何度も何度もお礼を言いながら別れた。調査員たちが実際に肌で感じてきたことは、感動的なまでの受け入れ態勢であり、そのまま分厚い人情だった。実は優しく親切なのは移民母さんだけではなく、父さんも息子たちもそろって懐深かった。

この調査が求めていたものは、もちろん質問票を基にした統計的な結果ではあったが、調査の現場にはその現実自身に、むしろたくさんの日系社会の証拠を見た思いがしている。調査員たちが体験してきたエピソードは、日系人の気質をより雄弁に語るものかもしれないので、以下、私の体験と調査員を調査して聞き出したことを記しておきたい。

会館を訪ねる団体調査は、まず行ったことのない場所を探し出してたどり着かなければならない。携帯のアプリが道案内をしてくれるときはよいのだが、アプリに表示されないことや、もともと住所があいまいだったり(ブラジルにはまだそんなところがたくさんあるのだった)、住所の写し間違いで迷子になることがあった。会長さんにSOSの電話をかける→すぐに車で迎えにきてくれるということで、解決は早かった。

基本的には自力でたどり着くことを趣旨として、こちらから迎えに来てほしいという依頼はしなかったが、バスターミナルや空港には数えきれないくらい迎えにきていただいた。赤いバラを持ってとか、花柄アロハの服装でなど、相手が一目で識別できるような仕掛けをすることもなく、なんとなくわかって声をかけるという具合で人まちがいはなかった。

宿泊予定の宿が町唯一という場合や、バスの本数が極端に少ない場合には、私たちの到着が相手にはすぐわかる。交通機関の遅延などで予定通りでないと、会長さんが、(おばさんとはいえ)女性2人じゃ危ないからと心配して、ホテルに何度も問い合わせしてくれたり、到着時間を知らせていないのに、夜中にもかかわらず、真っ暗で何もない街道沿いで待っていてくれたこともあった。こちらの確認不足や連絡ミスで時間がずれ、そんなときに限って携帯が圏外になってしまう地域であることもあったが、地元の方々がそのように先回りしてくれたおかげで、目的地にたどり着けなかったことがなかっただけでなく、事故や恐ろしい目にあったこともなかった。日系社会に守護されていたといえるだろうか。

会館に着くと、調査が午前中ならコーヒーに軽食(山盛りなのでもはや軽食ではなかった)、昼時なら食事、午後にはコーヒーやジュース、おやつ一式などを用意していてくれていた。もちろんそんなことを催促するようなことはしていない。覚えている限りで、水の1杯もいただけなかったところが1ヵ所あったが、まったく恨む筋合いではない。もてなせなかったことを詫びられると、かえって困った。

婦人会総出で豪華な食事を用意してくれたことは何度もあった。そういう中には、もっと偉い人が来るものと勘違いしていたのではないかと思われるフシのあることがあった。立派な組織の地位のある人が来るものと構えて待っているところにフツーのおばさん2人連れが現れたのだから、さぞやがっかりさせたものかとも思うが、おもてなしにはなんら変わりはなかった。インタビューの終わったころを見計らって温かい料理を並べてくれた。移民母さんは、食べる人のことを考える。栄養のバランスもよく、ブラジル料理が日本的な丁寧さで作られた家庭の味で、いつもおいしかった。会館の自慢料理や地元の産物で旅情を味わうことができた。

用意してくれたシュラスコは、おにぎりと漬物がそえられているのが全国共通のスタンダードだ。南部では、高齢者の方々が肉の塊を次々胃袋におさめていく様子に惚れ惚れした。また、北東部ではトロピカルな夜にスキヤキをご馳走になった。内陸では巨大な川魚の丸焼きや丸揚げでブラジルの醍醐味まで教えてもらった。

それでも、誰でも彼でもを歓迎するわけではないのだなぁと察せられる場面があった。調査の時期が移民110周年前だったこともあり、アポイントの際に「寄付が目的ですか」と聞かれることがいく度となくあったので、正しい目的を説明してはいたが、そのときは寄付を求める団体である疑いが晴れていなかったらしい。バスターミナルへ迎えに来てくれた会長の車に乗せていただき、改めて調査について話をするうちに態度が軟化し、怪しいものでも歓迎できない団体でもなかったと判断されたのか、会館へ電話をすると、「シュラスコの準備を進めてもいいよ」と伝えていた。寄付は頼まないが、初対面の相手だって十分警戒すべきなところ、大変うれしかった。

長いインタビューは、2時間なら短い方だった。特に高齢者が多いと、話が人生談にもつれたり移住地の思い出話に花が咲いたりする。おもしろいので聞いていると4時間もたっていることがあった。すべてを記録しておきたい貴重な話で、会館はそんなたくさんの悲喜こもごもを吸い込んで少しずつくたびれて今目の前に佇んでいるというように見えた。「会館は一人一人の人生のパーツみたいになっているのかもしれない」と、調査員のひとりは言ったが、自分たちでレンガを1個1個積み上げて作り上げた会館はまさしく人生のパーツで、4時間で語りきれるものではなかったはずだ。「こんな風にしてここまで足を運んでくれた人は今までいなかった」と涙を浮かべて感謝されることは一度や二度ではなかった。感謝されるようなことをしたわけではなかったけれども、このような調査は電話やメール、調査票の配布&回収で行えばいいという非難に屈さなくてよかったと心の底から思う瞬間だった。そんな調査は意味がないという反対意見に苛まれたことも忘れられた。同時に「日系社会は消えていく」と軽く予想する言葉の残酷さを思った。調査員の頭はこのあたりから別次元のスイッチも入って、どんな小さな歴史でもすくい取りたい、思いを共有したいと、仕事には慣れても調査時間が一向に短くならなかった。

調査が終わって一息つくと、帰りの足を気にしてくれる。公共交通機関もタクシーもままならない土地が数々あったから、ホテルなりバスターミナルまで送っていただけるという申し出は大変ありがたかった。次の調査地まで100キロもの道のりを、このあたりじゃ100キロなど距離じゃないと、車で送ってくれたこともある。

場所によってはバスの出発時間まで何時間も待たねばならないことがあったが、「それなら家に来たらいい」と、自宅に呼んでいただいたことも何度もあった。楽しく過ごさせていただき、結局待っていたバスに間に合わなくなって、「次のバスにしたらいい」と言われるままに長居するなど、お言葉に甘えまくった。

調査地での宿泊は、調査全体のルールとしてホテルということに決めていた。知り合いを頼ると客観性を欠いたり、他地域との不均衡が生じたりすることを避けるためなのだが、去り際には「次はうちに泊まりなさい」と誘ってくれる。次回はないとは思いながら、次回の楽しい想像をするのも心温まることだった。

手を取り合って感謝を伝えて名残を惜しみながら会館をあとにする、そういうときにはまだ人情が追いかけてくる。雑談の中で翌日は早朝のバスでサンパウロへ戻るという話をしたのだろう、翌日、夜明けとともに淹れたてのコーヒー、パンとバナナをバスターミナルまで届けてくれた老夫婦がいた。熱いコーヒーでペットボトルがひしゃげているのが妙にリアルで、ありがたみが増すのだった。

夜行バスで帰るといえば、お弁当を持たせてくれる人たちもいた。おにぎりとシュラスコとキュウリの漬物。太巻きがぎっしり入ったパック。食べられない量でも、全部食べた。おみやげに、ぶどう、アテモイヤ、マンゴー、アボカド、大根、たまご、ワインなど地域の特産品、手製のケーキやお饅頭などを持たせてくれたこともあった。こちらがお世話になって、いただくものばかり。そういうことは、日本でも起こるのだろうかと考えると、これはやはりコロニア特有の出来事ではないかと思え、吸い寄せられるようにお世話になってしまうのだった。

そういう経験をいくらか重ねながら、とくに遠くの会館を訪ねるときには皆さんに喜んでいただける手土産をと考え、空路だからあえて日持ちのしないものが貴重であろうと選んで行ったことがある。「皆さんで食べてください」と差し出したそのお饅頭詰め合わせセットの横に同じようなものが置いてあった。会館の人が私たちへのお茶菓子として用意してくれていたお饅頭だった。調査地がサンパウロから離れていることに気がいって、自分たちが訪ねている先が日系社会であることをすっかり忘れていた。母さんたちが何でも作っている世界だ。はるばるサンパウロからなんで饅頭など運んで来たのかと怪訝に思ったことだろう。その夜、市場にいくらでも並んでいるお饅頭を見て痛恨の失敗をかみしめた。

今回の調査全体を通して見えたことのひとつに、日系社会が各地で与えている影響はそれを担っている本人たちが思っているより大きいという点がある。元来が謙虚で親切な会館の人たちの中には、それが当たり前の自分たちであり、それ以上の意義があるということをはっきり認識していない場合がある。

長いインタビューの末に、自分たちの会館、自分たちが築いてきた日系社会はこんな形で存在しているのだという意識が呼び覚まされ、それを誇りに感じていただけたら幸いだと思っている。

多くの日系団体がコロナ禍で活動が継続できずに、今まで一度も欠かさなかったような伝統行事が中断している。資金難に陥っている団体も数多いことだと思う。普通に活動できる日が戻ってきたときに、もう一度自分たちの力を信じて再開してくれることを一心に願うばかりだ。


婦人会で用意してくれた心づくしの昼ご飯

話しているうちにビールが進むことも

山盛りのパステルに何度も手がのびた

アマゾンではトロピカルフルーツ

熱帯の中でもスキヤキはご馳走