執筆者:富田 眞三(米国テキサス州在住ブロガー)
ペルーで教員組合出身の極左派のカスティーヨ氏が大統領に決まりそうである。4月11日の選挙で決着がつかず、決戦投票がケイコ・フジモリとの間で6月6日に行われたが、中道右派のフジモリは0.24%の差で2位。6日現在、選挙管理委員会の結果布告は未だ出ていない。(その後、カスティーヨ氏に決定)
さて、ケイコ・フジモリは対立候補のカスティーヨを共産主義者と呼んでいる。実際彼が共産主義者かどうかは知らないが、極左派であることは確かである。ラテンアメリカ諸国では、反米、反資本家を標ぼうし、労働者、農民、インディヘナ(原住民)の味方であることを旗印として、政権を獲得する極左政治家が多い。ところが、そう言う人物に限って大統領になると、国民を食い物にして、選挙公約など忘れてしまうのである。
メキシコを初めとする、ラテンアメリカ諸国における法慣習の特徴の一つは、憲法によって、大統領の法的責任からの免責が認められていることだ。「免責」は旧宗主国スペイン、ポルトガルの置き土産であり、原語でInmunidadまたはfueroと呼ばれる制度である。この語には「免疫」の意もあるが、これが汚職のなくならない原因かもしれない。ただし、メキシコにおいては1917年以降、免責は8回しか実行されていない。
今回ペルーで左翼系大統領が誕生する可能性があるので、日本の皆さんには馴染みのない、この種の政治家、官僚の実像をお伝えすることにしたい。
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話を進める前に、一つのエピソードをご紹介したい。それは、30年前のことだった。メキシコの世界的海浜リゾートのアカプルコが千葉県御宿町と姉妹都市となる記念式典に参列する、旧知の同市の副市長から日本と御宿に関する情報を教えて欲しい、と依頼された。
その際、副市長が「人口60万のアカプルコ市の予算の90%は人件費である」と明かしてくれた。何度も聞き返したから間違いない。「なぜそんなことが可能か」との私の問いに、市長は彼の所属するPRI党の幹部からの要請で、多数の幽霊職員(スペイン語では落下傘部隊、パラカイディスタと言う)を抱えているからだ、という。その多くは党幹部の二号、三号というから話にならない。それでは、国際的観光地である、アカプルコのビーチの整備費用はどう工面しているか、と訊いたところ、「ビーチとその周辺は連邦地区なので、メキシコ政府が整備、清掃等すべてを担当しているので、問題はない」とのことだった。PRI党は革命政権だが、かつて彼らは彼ら自身を革命家族と称し、国を彼らのファミリー・ビジネスと見なしているのだ。左翼とはこういう存在なのである。
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さて、今回取り上げる人物は、大統領でも政治家でもないが、1976年~1982年まで1500万の大都市である、メキシコ・シティーの警視総監を務めた、アルツーロ・ネグロ・デュラソである。ネグロは黒を意味し、肌の色だけではなく、黒いうわさが絶えない、という意味のあだ名だった。何しろ、彼は「国民を食い物にする」ことに関しては、特別な存在で、彼の死後、「黒いデュラソの闇ー犯罪史」という実録が書かれ、後に映画化されたほどだった。
デュラソを知ったのは、私の英会話の先生がたまたまメキシコ市警視庁幹部にも英会話を教えていたのが縁だった。「日本食を食べたい」という警視総監を私が勤務していた会社のレストランに招待したのが付き合いの始まりだった。1970年代のメキシコ市には日本レストランは日墨会館以外にはなかったのである。
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当時、メキシコ市はメキシコ市連邦区と呼ばれ、そのトップは大統領の任命する閣僚であり、警視総監も大統領が任命する特別職であった。当時のメキシコ大統領のホセ・ロペス・ポルティーヨは左翼政党PRI(制度的革命党)生え抜きの政治家だった。同氏は昭和53年11月、国賓として来日した際、千葉県御宿町のメキシコ公園を訪れて、神輿に乗って住民から大歓迎を受けた。デュラソもこのとき、大統領について訪日している。それ以来デュラソは大の和食好きになった。メキシコ大統領とアカプルコ副市長がそろって御宿町とつながりがあるのは、1609年、同地に漂着したスペイン船が取り持つ縁だった。
本来、メキシコ市の警視総監は陸軍将官が任命されるのが慣例だったが、ロペス・ポルティーヨ大統領は、軍歴もない彼の小学校の同級生だった、デュラソを任命した。小学校時代、優等生だったが、体が弱く悪ガキたちからいじめられ放題だった、ロペス・ポルティーヨ少年の用心棒を買ってでたのが、体格のいいデュラソだった。そして、50年後、大統領は「用心棒」を警視総監に任命して恩返しをしたのだった。
ただし、公安、警察部門では一応の出世はしていたが、将官ではなかったデュラソは、大統領から特例として陸軍大将に任命され、警視総監になれたのだった。なお、後年、メキシコ陸軍はデュラソの大将の称号をはく奪している。
以下の情報は私がデュラソ及び彼直属の部下から直接聞いた話を基に書いたものである。
メキシコの警察は、日本の警察と違って、連邦、州を問わず、刑事部門は検察庁直属の司法警察が担当している。従って、警察は「生活安全、交通、警備等」がその主たる任務となっていた。特に交通警察は彼らの「宝の山」であった。という訳で、以下の情報は、ユニフォームの色から、とび色のマメ科の植物タマリンドの愛称で呼ばれた、交通巡査に関するものである。タマリンドと呼ばれた彼らは映画にもたびたび登場して、大衆の人気者だった良き時代もあったのである。
ある日、デュラソは我々との食事会で、彼の部下の一人に、「おい金貨のカバンは重過ぎるから小さいカバンに分けて入れるようにしてくれ」と命じていた。これを解説しよう。メキシコ市警察のトップクラスの局長級は毎月、末端の巡査、下士官、士官(メキシコの警察の階級は軍隊式に軍曹、中尉、少佐等と称している)から集まる「上納金」をメキシコのセンテナリオと呼ばれる50ペソ金貨(直径3.7センチ、重量37.5グラム、時価2500米ドル)に両替してカバンに詰め込んで総監に届けていた。
すなわち、末端の巡査から始まって、すべての「位」には当然のことながら、値段が付いている。そして、下から順繰りに各々直属上官に定められた「上納金」を納めるのだ。これがピラミッド方式によって、最上級の師団長(局長)まで上がって行くのである。数人からなる師団長クラスは、毎月現金を金貨(センテナリオ)に換金してカバンにつめてデュラソに上納する。これが重過ぎるから分けろ、と総監は苦情を言ったのだ。
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メキシコで交通巡査に車を止められると、「袖の下」(Mordida)で解決できるのが当たり前の習慣になっているのは、この悪習が原因なのだ。この袖の下が順繰りに総監にまで上がっていくのだ。
地位だけではなく、その他に交通整理をする巡査は、交通量の多寡によって、交差点に値段がついている。東京に例えれば、銀座の交差点は高く、場末の交差点は安い。
また、パトカーも白バイも当然値段がついている。これもピラミッド方式によって、金貨に替えられて総監に届くわけである。従って、末端の交通巡査は、頻繁に「ピー」と笛を吹いて違反車(?)を止めて袖の下を稼がざるを得ない。恥ずかしながら、「袖の下」はメキシコの文化とまで言われる所以である。
しかし、私が最も驚いたことは、デュラソは警官に支給する制服、靴、帽子等を彼らに買わせていたことである。流石にこれには開いた口が塞がらなかった。ただし、ピストル、銃器は貸与するので、金は取らない。当たり前だが…。
まだ、デュラソの錬金術は他にもある。車のナンバープレートはどこの国でも最初に支給されるときに支払うだけである。ところが、メキシコは毎年、新しいプレートを購入するシステムになっている。これも、彼のビジネスになっている。
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デュラソは豪壮な自宅の他に、太平洋岸、カリブ海岸に豪華な別荘を数軒建設した。その際、数百人のメキシコ市の警官たちを別荘建築の作業員として使用したのである。これは自慢げに彼が私に話したことである。
悪名高い総監だったが、彼は頻繫にナルコ、即ち麻薬ギャングの本拠を探り出して、大量のコカイン等を摘発する手柄も立てたので、「やり手」の印象を与えていた。だが、これには裏事情があった。すなわち、麻薬ギャングたちはやくざと同様に縄張りがある。これを利用して、彼は一部のギャングと意を通じて、彼らの敵対勢力の情報を引き出して麻薬摘発を行い、彼の友人であるギャングの犯罪は見逃していたのだった。当然十分な見返りがあった。
まだまだあるが、もうこの辺で止めておこう。事情を知るにつけ、不愉快になった私は英会話の先生と縁を切ったので、自然警視総監とは疎遠になった。1982年、任期満了で退官したデュラソは次期政権の調査の手が伸びていることを知って、自家用ジェットで国外へ逃亡した。だが、1986年、FBIによってコスタリカで逮捕された。彼は汚職、恐喝、脱税、密輸、麻薬販売、所持等の罪科で16年の実刑判決が言い渡された。だが、獄中で病状が悪化したため、10年の刑期を残して釈放された。ネグロ・デュラソは2000年、アカプルコで亡くなった。享年76だった。
一方、デュラソの竹馬の友だった、ロペス・ポルティーヨ大統領の在任中、石油ショックにも関わらず、石油を持つメキシコは史上最高の経済成長を遂げた。当時、世界中が巨大な石油収益を持つメキシコに先を争って、借款を供与したものだった。あの当時、ハトバスで東京見物した私は、バスガールさんが、「右手の高層ビルにはメキシコ大使館が数戸お買い上げになって話題になった、東京で一番高い億ションがございます」と案内したほど、メキシコ政府は石油景気に舞い上がっていた。
数年後の1981年、原油が暴落すると、メキシコ財政は破綻をきたし、ペソも暴落したため、国民はペソを売ってドルを買いこんだ。その挙句、大統領は、「犬のごとくペソを守る」と宣言して、全ての銀行を国有化したのである。文字通りメキシコは天国から地獄へ転落し、ロペス・ポルティーヨ大統領は大統領の人気ランキングでは常に最下位の評価を受けている。
(終わり)