連載エッセイ116:田所清克 「私とリオ」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ116:田所清克 「私とリオ」


連載エッセイ113

私とRio(Eu e o Rio de Janeiro)

執筆者:田所 清克(京都外国語大学名誉教授)

「自分史に深く刻まれたありし日の青春」

 馬齢を重ね年老いると、幼年時代を含めて、この私とても若葉さながらに瑞々しい若さとエネルギーで漲っていた、あの青春時代を思い出さない日はないくらいだ。このこと自体きっと、終活を前にした老人の証なのかもしれない。

 少年時代の自分史はすでにどこかに断片的ながら書いている。が、警視庁を退職した後の、大学生以降に辿ってきた道のりについてほとんど書いたことがない。ことに、自身のその後の人生に大きな影響を与えたと思われる、2カ年に亘るリオの国立フルミネンセ大学への留学体験についての記述となると皆無に近い。

 従って、次回以降、リオでの生活、研究活動、異文化体験、訪ねたリオの名所旧跡などを、記憶を辿りながら綴って披露したいと思う。

「留学生活の始まり」

 
今から45年前のことである。アンデス山脈上空を横切る時に小舟のように激しく揺れたが、当時ブラジルを代表するVarig航空で、待望の「一月の川」を意味するリオへ舞い降りた。その足で、全長12キロのRio- Niterói大橋〔1974年開通〕経由で、イカライー ( Icaraí) 海岸に面した大学本部近くのホテルに投宿先を決めた。昼過ぎだっただろうか。早速、ブラジル熱帯特有の「水差しが降る = chover a cântaros 」かのごとき土砂降りのスコールの洗礼を受けた。

 授業が始まるまでのことはあまり記憶にない。それほどまでに、下宿探し、連邦警察に出向いての外国人登録、フルミネンセ大学の総長、教授陣への挨拶などで、てんやわんやの多忙な日々が続いていたからもあろう。 旧農園風のコロニアル様式を彷彿とさせる、Ingá地区の2階建ての古びた屋敷が下宿先となり、しばらくの間は、そこから文学部、地理科学部に通うことになる。

修士論文の題目を、将来の地理学や民族学に通有する「文学と国土認識: 地方主義文学の諸相」( A Literatura e o Conhecimento da Terra: aspectos da literatura regionalista) に決めたこともあって、多くの時間は文学部で過ごした。

周知のように、ブラジルの大学は夜間も開講されていることから、分散していた他の学部にも通いながら、時間割には受講希望の科目を目一杯埋めて、文字通り朝から晩まで勉強していた気がする。であるから、週末ともなれば流石に疲れ、息抜きに対岸のリオ市街地までよく出向いていたようだ。プラッサ・キーンゼにほど近いところにある、「都」で日本食を摂るのもその目的であった。ともあれ、かくして私は、Niteróiにて留学生活を始めることとなった。グワナバラ湾の東側に位置する、旧リオ州の首都であったニテローイの市街地は湾に沿って拡がっている。

 対岸までの交通手段 となる渡し船(barca)の起点であるニテローイの埠頭には、先住民アラリボイアの像が確かあったように思う。彼こそがセズマリア〔sesmaria= ポルトガル王が開拓者に分割封与した土地〕として与えられたところに村落を設けたのが、ニテローイの発端となっている。ちなみに、それが創設されたのは、リオ創設6年後の1573年である。

 コパカバーナもしくはイパネマ海岸さながらの、円弧を描くビーチは絶好の散策ルートである。加えて、ニテローイから眺望する、 Pão de Açúcar, Corcovado、紺碧の海原の上に林立するリオの摩天楼などは、えも言われぬ絶景そのもの。

 こんな絵画的な天然美に恵まれたリオで、これから2年もの間、生活できる幸せを感じていた自分がそこにはあった。

「UFF( フルミネンセ大学)で培われたブラジル学の土台」

 
極言すると、私の研究対象の中心は、北東部、アマゾンおよびパンタナルであったが、その土台となったのはフルミネンセ大学にあったように思う。

週3回の、当時、文学部長をされていたEvelyn教授からの修論指導を受ける以外は、これといって義務的に受講する必要もなかったが、前述の通り、可能なかぎりいくつかの学部に出向いて、興味ある講義を受けた。地理学はむろん、人類学、社会学、ブラジル教育史などはその一例である。なかでも、著名な言語学者でブラジル学の権威でもあったGladstone Chaves de Melo教授からは、開講されたばかりの「ブラジル諸問題研究」( Estudo de Problemas Brasileiros) 、そして現在、ブラジル文学翰林院の会員でもある Proença Filho教授からはブラジル文学史を独創的な切り口で説いたものを教わるという、幸運に浴した。

 前者の教授の手になるA Língua do Brasilを事前に読んでいただけに、当の先生からはたいそう喜ばれ可愛がられた。この科目は全ての学生にとって必須科目にもかかわらず、時間割の都合からか受講者が少なく、マンツーマンに近い極めて贅沢な授業であったように思う。 私がこの国の社会病理を研究対象にするようになったのは、この「ブラジル諸問題研究」を受講したからに他ならない。

 他方、プロエンサ教授の熱のこもった授業に私はすっかり虜になった。であるから、既習した科目なのに、何度も先生の授業を受けたりもした。かくして、門前の小僧よろしく私は、植民地初期から現在までに生起するイズムと文学を俯瞰できたばかりか、その全容を理解・体得する意味で益するものが少なかった。

 人は私の専門性を疑う。それももっともかもしれない。論考や著作が、多方面に及んでいるからだろう。アマゾンやパンタナル、北東部奥地に関する地誌的、地理学的なものがあると思えば、文芸風土学的なもの、言語学的なもの、ブラジルの社会病理、教育問題等々、、、

 そう言う批判に対する弁解ではないが、私には一つの信念がある。一国を真に理解・認識しようとなれば、たとえ一個人であっても、学問横断的、つまり学際的( interdisciplinário)な視座から考究すべきことを痛感しているからだ。

 一つの学問領域にこだわることで視野狭窄になり、結果として「木を見て森を見ず」( Ver a árvore e não ver o bosque= Ter vistas estreitas) を私は極度に恐れるのである。

 フルミネンセ大学で学んだ学問領域を超えた統合科学的なものが、自身「ブラジル学」構築に向けて土台となっているのは否めようがない。 観るもの聞くものが全て新鮮で、自身の研究につながるとは、この大地を踏むまでは想いもしなかった。

とまれ、大学で理論的に学び仮説を立てて、それを実際のフィールドで参与観察しながら検証・実証する作業。こうした過程を通して、ブラジル学は私にとって最大の知の喜びとなり、生き甲斐となった。「ブラジルが私を作った」と先に述べているが、これは否定しょうもない事実である。その点で、リオの大学で学んだことの意義はとてつもなく大きい気がする。

「Joaquim Manuel de Macedo( 1820ー1882)の作品『小麦色の娘』〔A Moreninha〕の舞台となった、パケター島への日がな一日の漫遊」
 
皆さんは、グワナバラ湾の内深く入り込んだ北東部に位置するパケター島をご存知だろうか。カリオカの住民には言わずと知れた、別天地で都会のオアシスである。のみならずそこは、ロマン主義小説家の傑作『小麦色の娘』の舞台として知られている。

 大小合わせて90の島が点在するその天然美を誇るその一つであるパケター島に、文学部の女性たちに誘われて訪れた。紅一点ならぬ、女性群の中にあって唯一の男性で、ハーレムにいるかのようであった。 リオの歴史的広場であるプラッサ・キーンゼからフェリーで出航して、確か1時間あまりで目的地には着いた。
 
途中、右舷には学び舎のあるニテローイ、左舷には国際空港のあるイーリャ・デ・ゴヴェルナドール、背後に「砂糖の山」を眺め見ながらの航行で、友と終始、喧しく大声で張上げての歓談が印象的であった。
 やがて島全体が満目の樹木に覆われた島が眼前に現れる。のみならず、好天であったこともあって、はるか前方には避暑地として名高いテレゾーポリスの奇峰も垣間見ることができて、私たちは異口同音に歓声の声を発したものだった。
 オートフリーのこの島での交通手段は、自転車か馬車であった。今もそうなのだろうか。この島は私の知っているかぎり、「南極フランス」の創設を夢見たフランス軍と結託して、同盟を結びながらポルトガルと闘った先住民タモイオ族( tamoio) の屯所でもあった。そんな16世紀の歴史を振り返る絶好の機会となった。
 
島には、「恋人の石」がある。この石に向かって仰向けになりながら石を投げると、愛が叶うという。ご多分に漏れず私も、悲願達成のために小石を投げはした。が、結果はと言えば、、、。
 島のあちこちに、ブーゲンビリアやフランボイアンの花などが咲き乱れている。グワナバラ湾にこんな別天境があることに驚きを禁じ得なかった私。生涯、記憶に残る漫遊であったことは確か。
 リオに出向かれたら、是非とも訪ねて頂きたい場所の一つです。

注記 : Paquetáのpaは、トゥピー語で「多い」、つまり多い島の謂。
●Joaquim Manuel de Macedoについては、拙
 著『ブラジル文学事典』(彩流社)から。

「私にとってのポルトガル語」

 
かれこれ53年に亘って私はポルトガル語を勉強し続けているが、いっこうに上達しない。そんな資格のない者が、フェースブックを通じてポルトガル語講座を開いていたこと自体、忸怩たる思いがする。と同時に、この場を借りて先ずは学習者の方々にお詫び申し上げたい。

 さて、ポルトガル語で難しいことを形容してé grego( ギリシャ語)と言うが、私の場合、英語同様にポルトガル語もものにできなかった。これもひとえにきっと、本人の言語能力がなかったからであろう。言語学を専門としたわけではないにしろ、長年勉強した割には全く身についていない。嘆かわしいことこのうえない。

 ここで自身の名誉のためにもあえて述べるが、それでも何とか読解力は身についている。問題は、聴解能力。ブラジルのラジオやテレビで話す内容が今でも分からなかったりするケースが少なくない。そうした自分の語学能力のなさは十分に自覚しているものの、今もめげずに学習し続けている。

 ところで、留学前は主として、ポルトガル政府派遣の先生の指導を受けていたので、ポルトガルの発音にある程度は馴染んでいた気がする。ところが、リオに着くなり、ブラジル式の発音にいささか戸惑いを覚えることとなった。
 以前、rrもしくは語頭くるrの発音について見解を述べたことがある。その場合の多くの日本人の発音は厳格に言えば、正確なものではない。私の発音がその典型であろう。

 私たちにとってのポルトガル語の発音上の問題はいくつか挙げられるが、その最たるものはlの発音かもしれない。日本語にlの字母がないのが要因であるが、概して私たちは、r とl の区別ができない。聴解力が全くないのか、特に私は区別ができなくていつも混同している。

 アフリカ人は一般に、rotacismoという言葉で表現されるように、r の発音ができない。同様に、日本人もまた、l の発音が正確にできるとは言い難い。
 この種の誤った発音を繰り返している私に業を煮やして、native speakerはよく訂正してくれたものだ。Brasil, pantanalの如き語尾がl で終わっている場合、l をu の発音をすると良い、などはアドバイスの一例。

 留学当初は言うに及ばず、言葉の理解に苦しんだ。私の本は何処にあるの?Onde está o meu livro? なる表現が、Ondeに代わるCadêという疑問副詞を使われたりして、ちんぷんかんぷん( 俗語で Estou boiando)であったことなどを思い出している。とかく外国語の習得は並々ならぬものがある。しかしながらその一方で、言葉によるコミュニケーションを通じて私たちは、異邦人の心情などを理解できて、平和にもつながる。

 言葉は文化の要諦である。異文化の世界を理解する上で確かに言葉は手段に過ぎないかもしれないが、他者( 外国人 ) の思考・行動様式を根底から認識しようとなれば、言葉を深く知るのが肝要である。

 語学運用能力のないことを自認しながらも、そんな思いで今も必死に語学に取り組んで私なのです。

「ブラジルの知の巨人( gigante intelectual ou polímata do Brasil―ルイ・バルボーザとアントーニオ・カンジド Rui Barbosa e Antônio Cândido

 
知の巨人と言えば、私などは粘菌の研究で著名な生物学者で博物学者の南方熊楠、先月亡くなった立花隆などをすぐさま思い浮かべる。

 ブラジルで言えばさしずめ、ルイ・バルボーザと、アントーニオ・カンジドかもしれない。前者はさまざまな領域で突出した法学者で、彼の手になる『若者への説教』(Orações aos Moços)はつとに有名である。
 長年、務めていた大学の共同研究室の入った後方の壁に、今はあるか知らないが、世の毀誉褒貶を超越した風情の、思索する晩年のバルボーザの写真があった。それ故に、この人物がどれほど重要な存在であったについては私もおぼろげながら理解していた。

 事実、著名人の伝記書としてはおそらく、バルボーザほどに多く出版されているのはないのではないだろうか。それかあらぬか、ボタ・フォーゴの海岸からサン・クレメンテに入りしばらく進むと、コルコヴァード山頂のキリスト像を真上に望む場所に、ネオ・ルネサンス様式のルイ・バルボーザの家がある。その博物館となっているこの家については後日言及の予定。

 すでに亡くなってはいるが、もう一人の知的巨人、それも現在の、と問われれば、アントーニオ・カンジドであることは寸毫の疑いもない。超一流の文芸評論家で社会学者であった彼は、《サンパウロ学派》の中核的存在で、多方面に多大の影響を及ぼしたことで知られている。そんなブラジルを代表する知識人のアントーニオ・カンジド先生が、一介のブラジル研究を志す私に会ってくださったことについては、過去にも触れてきた。

 ともあれ、先生のご著書『ブラジル文学の形成』(Formação da Literatura Brasileira)や『Literatura e Sociedade』(文学と社会)等が、自身のブラジル文学の認識に向けてどれほど有益なものであったかは言うまでもない。今は、先生から頂いたタイプ打ちの、外国人対象のブラジル文学史の原稿の翻訳を終え、推敲している段階である。

 機会を見つけて、バルボーザ伝記をこの日本で紹介したい。そして他方において、カンジド先生の上記翻訳の上梓を実現して墓前に捧げることができれば、言うことはない。
 
ブラジル愛好家の皆さまにも、 この国にも博識家( polímata)と呼ぶにふさわしい、特筆大書すべき人物がいたことを知って頂ければ、幸いである。

アントニオ・カンジド博士と一緒の写真

「日々 の渡し船( barca) での通学ーロマン主義詩人Castro Alves の『黒人奴隷船』( Navio Negreiro) を彷彿とさせる様相ー」

 
インガー近くの下宿先からニテローイの船着き場に近い、日系人のお宅にお世話になって数カ月後にはリオのグロリアでのアパート暮らしを始めた。
 そこはGlória Hotelやかつてのジェツーリオ・バルガス大統領の住まいであったCateteの宮殿も指呼の距離であった。そして、埋め立てたフラメンゴの海岸の先には、飛行家にして発明家であったサントス・ドゥモンの名前を冠した、国内空港Aeroporto de Santos Dumontが視界内に収まっていた。
 そのグロリアから終日を除くほぼ毎日、通学していた。バルカが発着するPraça Quinzeまでは、多くの場合、バスを利用することもなく、徒歩でMuseu de Arte Moderna前を通り、空港の脇を経由するパターンであった。
 今回のテーマである渡し船は、30分に一度のペースでPraça QuinzeとNiterói間を航行していたように思う。25分前後の所要時間であったが、時間の無い時はbarcaの3倍払って、Flecha( 矢)と称する水中翼船を利用したものだった。
 時間に関係なく、この渡し船を利用しているのには驚く。であるから、いつもほぼ満杯の状況であった。危なっかしいことこのうえないが、船首(proa) に足を投げ出している客もある。
 リオは黒人住民も多いこともあって、時にはあの暗黒時代の黒人奴隷船にいるかのような錯覚を覚える。もっとも、奴隷船でブラジルに導入・運搬された奴隷たちは立錐の余地もないくらいの状態で船倉( porão)に閉じ込められていたのであるが。
 『アフリカの声』(Vozes d’ África) の作品で名高いブラジルの社会派詩人のカストロ・アルヴェスは、Navio Negreiroの作品でも奴隷たちへの仕打ちや彼らの塗炭の苦しみを描いた。その場景が私には、barcaに乗っている黒人系の人々と二重写しになって脳裏を過ぎったものである。
 ニテローイから渡し船を使ってリオに通勤する人は多い。涼風を浴びながら、着陸寸前の頭上をかすめるエヤークラフト、リオ・ニテローイ大橋、砂糖の山、コルコヴァードのキリスト像などを眺め見ながらの船上の束の間の時間も捨てたものではない。

「人間に翼を与えた人」= サントス・ドゥモンーAlberto Santos Dumont que deu assas ao homemー」

 リオの玄関口であるサントス・ドゥモン空港は文字通り、飛行家で発明家として名を馳せたアルベルト・サントス・ドゥモンの偉業を称えて冠せられた名称である。

 サントス・ドゥモンの父親であるエンリッケ・ドゥモンはフランス系で、ミーナス州のディアマンティーナに生まれた人であった。その彼は、サンパウロ州のリベロン・プレットの名高き耕地の所有者で、コーヒーに適したテーラ・ローシャ( terra roxa) の地においてコーヒー王国を作り上げた人物である。その後、コーヒー園は英国資本に渡るが、それまでの間、当然のことながらサントス・ドゥモンもそこで少年期を送っている。

 当時、耕地では依然、黒人奴隷が使役されてはいたが、遅かれ早かれ奴隷制度が廃棄されることを見越してエンリッケは、外国からの移民を積極的に導入する点で功績があった。事実、このコーヒー園には外国移民、特にイタリアからの移民がかなりの数、到来している。

 対費用効果の面で採算が芳しくなく、コーヒー市場も不安定な状況にあったが、エンリッケは国際産物たるコーヒーの将来性に期待をかけて、耕地経営に尽力した。

 こうした不撓不屈の精神と進歩的な態度を体現したのが、ここで扱う7人目の末っ子、アルベルト・サントス・ドゥモンなのである。

 彼が機械に興味を持ち始めたのは、父親が考案したコーヒー園のさまざまな機械を目にした時と軌を一にしている。冒険小説を読む傍ら、机に向かって設計図を描いたり計算したりしながら、空を自由に飛翔する鳥のようにありたいと夢見たようである。

 父親の大怪我で耕地は手放すことを強いられたが、その売却価格は実に法外で、新聞記事にもなったほど。

 結果として、他の兄弟と等しく多額の父からの資産を受け取ったサントス・ドゥモンは、18才にして飛行機の研究に没頭できたのである。そのためにパリに出向き、工芸高校の機械科に籍をおいて飛行機の発明に乗り出す。軽気球から飛行船まで造って、ついには、飛行機発明の偉業を達成させることになる。

 1906年10月23日、パリのエッフェル塔上空を飛行・旋回して、その名を世界に広めたのがそれ。私たちは飛行機の発明と言えばライト兄弟を連想しがちであるが、この偉業を成し遂げたのは他でもない、ブラジル人のサントス・ドゥモンその人なのだ。

 彼の甥に当たるエンリッケ・ドゥモン・ビラーレスは、『人間に翼を与えた人』と呼ぶ書のなかで、サントス・ドゥモンについて論じている。のみならず、彼に関する著書はあまたある。その存在は知っていても、私は皆目読んではいない。

 ともあれ、『人間に翼を与えた人』は、7月20日に生まれ、同じ月の23日、比較的に若い59才でサントスにて他界している。偶然にも父親の生誕日も同じである。であるから、7月はサントス・ドゥモンを記念する月になっている。

 留学時に、下宿先のアパートからサントス・ドゥモン空港を遠望する際は常に、ブラジルが世界に誇る『人間に翼を与えた人』のことを考えていた自分がそこにはあった。

サントス・ドゥモン空港の写真