執筆者:広橋勝造 (医療機器のメンテナンス会社経営 ブラジル在住50年)
エッセイ集を書くのが如何に楽しいかを教えてくれたのは、邦字新聞等によく投稿される駒形秀雄さんが弊社を訪れ、西風会発行No.12の“西風”と云う本をくださった事だった。この本の軽快で、自由で、読み易く、説得力のある沢山のエッセイ集があまりにも素敵であったからだ。 先月No.13をまたいただいた。今まで、第一人称を“私”と書いてたのをこの本を読んだ後“俺”と書く勇気をいただき、それで文法やらを気にせず文章の自由度が上がり、面白く書けるようになった。
1971年26歳でブラジルに単身移住した“俺”、今年2021年でブラジルに丁度半世紀の50年になる、時の経つのは早いもんだ、近年、仕事の関係で短期間の日本訪問を二回していたが、今回は親父の50回忌参列を利用して、のんびりと日本を楽しもうと思って訪日した。しかし、それがのんびりではなく、カルチャーショックに見舞われる惨事となった。それらのケースを混じえてカルチャーショックについて紹介する。
現代の日本人の靴に比べ俺の汚い靴が気になった。東京でカッコ良い靴を買った。それに凄く安く、良い買い物であった。さて支払いだ、レジで千円札2枚を出して僅かなお釣りを待った。30秒位経ってレジの女の子は嫌な目つきになって俺を見つめ始めた。俺も「何やってんだこの野郎」とお釣りを待ってニコニコ顔が消え自然に口を尖らせた。それから約一分間二人は睨み合いになった。女の子の顔が引きつってきた。やがて俺から目を外し、俺を馬鹿にしたように無視して、店内の音楽に合わせて体を揺さぶり始めた。現代の日本の女の子のレベルは落ちたもんだと思った。50年ぶりの日本での買い物、この様な仕打ちにあってどう対処したら良いか迷った。サンパウロでは「(おい可愛いねーちゃん、お釣りをくれよ)」と言って直ぐに解決するのだが、50年ぶりの日本では如何に切り出して良いか躊躇した。後ろに二人の客の列ができた。一緒に来た50年前に務めていた会社の同僚でブラジルにも来てくれた友人が「おい、如何したんだ早くしろよ」と話しかけてきた。俺「このレジの女がお釣りをくれないんだ。プッシャ・ビーダ(何て事だ)」、彼「あの~、会計早くしてくれませんか」、女「十二円足りないんですよ」、俺「二千円出したじゃないか、早くお釣りをくれよ」、女「十二円足りないじゃないですか」、俺「これ二千円以下じゃないか!」、友人「あっ、広橋さん、消費税がいるんだ」、俺「消費税?」初めて聞く税、「何それ?」、彼「ごめん、ごめん、此奴、サンパウロから来て消費税の事を知らないです」、日本って厳しい社会になったもんだな。
デパートで買い物して大きな紙袋を提げてドアが閉まりそうなエレベーターに駆け込んだ。エレベーターは少し満員だったが後二、三人は入れそうだ。友人と一緒に背中から入った。入った瞬間エレベーターが「ピー」となった。俺「ドアが閉まるぞ」と背を後ろに押した。エレベーターのドアは一向に閉まらない。後ろの日本人(俺だって日本人)が俺の背中を遠慮がちに押した。俺「うっうーん」と言って少し押し返した。友人は諦めて(?)エレベーターを出た。エレベーターの中の全員が俺の背に向かって「うっうーん」と言い出した。エレベーター内が変な雰囲気になりいたたまれなくなって俺は仕方なくエレベーターから出た。するとエレベーターのドアが「スーッ」と閉まり俺を残して別の階に去った。人種差別なのか?と疑った。友「あの“ピー”と鳴ったのは重量超過とか人員超過の信号だよ」、ほんのちょっと位の重量超過でお怒りか、ブラジルではいいのにな~。
買い物終えて駅に行った。もう午後6時過ぎ、駅は帰宅時間で混雑していた。ブラジルでは公共交通機関はバスが多く、それか自家用車での移動が普通だ。俺もそうだ。日本に来てから歩きっぱなしで足が吊ったように痛く歩くのが辛かった。来日して直ぐ買った安くてカッコ良かった靴も変に俺を痛めているようだ。俺とは対照的に日本の現代人は50年前と変わらず足早で俺をどんどん抜いていく。うぁ~、前方に階段が迫ってきた。あっ、エスカレーターが有った良かった! 何とかエスカレーターに辿り着き、あ~良かった~。俺の後ろに長~い列ができた。皆、俺を見ている。俺も、皆を見つめ返して、挨拶(?)気味に少し頭を下げた。それに応えて嫌な目線が返ってきただけだった。後で知ったのだが、俺が立っていたエスカレーターの側は忙しく上る奴等の通る道だったそうだ。エスカレーターは自分が上らなくても上れる物なのに、日本人は何故エスカレーターを上るんだ?
日本に来て、東京滞在中、50年前の同僚の家に俺は世話になる。友人は八王子に住んでいる。昔懐かしの新宿駅で別の路線に乗換る。複雑な駅構内を間違えない様にブラジル式に俺のペースで歩いていると、俺のカッコいい歩き方と姿に興味を持ったのか、二人の上品な中年女性が、私を呼び止め「このパンフレッドをゆっくり読んで連絡して下さい」と言って何かの勧誘のパンフレッドを手渡してくれた。何となく嬉しい気持ちで友人の家にたどり着いた。友人「何を大事に持っているんだ?」、俺「二人の優しそうな美人が俺に惚れて、これをくれたんだ。誘惑の手紙だろう」、友人「えっ、そりゃーないだろう。見せろよ・・・、何だこれ?“自殺は止めてください・・・何とか、かんとか記してある・・・」、50年遅れの俺は自殺希望者に見えるのかな。畜生!
あ~サンパウロで同じ様な経験話を聞いた。日本に行って、神田川の欄干で懐かしく川を覗き込んでいると、突然二人の警察官に抱き抱える様に取り押さえられたそうだ。彼「何するんだ!何も悪い事はしてないじゃないか」と必死で抵抗したそうだ。警察「飛び降り自殺は止めて下さい」だったそうだ。
わぁ~、大きく、綺麗になった博多駅、さてと、兄と姉から駅に迎えに来ると連絡を受けていた。懐かしいなー、涙を流さない様にしようと思ってホームに出た。あっ、いた!優しい兄貴ともっと優しい姉ーちゃんだ!最初の一言は如何言おうかと思案するうちに兄貴が来た。兄貴「おい、カッツオー(俺の名前は“勝造”である)、」少し遠慮がちに「その背広脱いでくれんか」、俺「如何して?」、兄貴が周りを気にしながら「その白い背広バッテンが、如何しても893さんに見えるとバイ」、暑いブラジルから来た俺、普段背広を着ない習慣で、俺が持っている中で一番カッコいい白い背広を着こなして颯爽とホームに降り、映画の主人公になった様だと思ったのに、兄貴には俺の服装がみすぼらしく哀れに見えたのであろう・・・。これが本当のカルチャーショックなのだろう。そう言えば、空いてる車両に座っていると、車掌が俺の切符を見てから「この車両はグリーン車です」、俺「でも、他は満員で座れないで・・・」、数秒考えた車掌「いや、そのまま博多までいいです」と言ってくれたのは俺が893風だったからか・・・
服装で思い出した。八王子の友人の家に世話になった折、友人の奥さんが突然「新宿の○○デパートに行きましょう」と誘ってくれた。日本のデパート、半世紀ぶりだ、気持ちがワクワクしてきた。一流企業に勤める気の利いた娘さんまで同行してくれるそうだ。美味しいそうな食べ物が一杯陳列された地下街からエスカレーターで上階に上がっていった。みんな高そうな高級品が並び、俺が買えそうな物はなかった。ある階に着いた時、娘さん「お母さん、ここに良い物が揃っているわよ」、友人の奥さん「そうね、見ていきましょう」、しばらくして奥さんが「広橋さん、ちょっと来て」、別のコーナーの陳列に見入っていた俺「はい」、と言ってブロックを回って奥さん達に合流した。奥さん「これとこれ、試してみなさい」、と言って俺には不似合そうな2つの若者向けのシャツを進めた。俺「はい」と言われるままに着替え室に入って試してみた。ピッタリで俺のイメージを変えた。着替え室を出ると、奥さんと娘さんは俺の服装についてヒソヒソ話をしながら俺の格好を品定めしていた。それから、娘さんが別コーナーから首巻を持ってきた。ブラジルは夏だが日本は冬だ。奥さんは俺の首に首巻を巻いて品定めをした。俺はマネキン替わりなって硬直しながら、何で自分の旦那を連れてこなかったんだと思った。奥さん「広橋さん、見違えるようにカッコよくなりましたよ。少し若返った様ですよ、それでいいですね」、俺「えっ、こっ、これ、三井さんの・・・」、奥さん「いいえ、広橋さんに買ったのですよ」、心の中ではこんなにカッコよくなって嬉しくて嬉しくてたまらなかったけど、俺「いえ、トンでもない、そんな事・・・」、奥さん「いいですから、そのままで帰りましょう」、・・・。今、思うに、寒そうで50年遅れの惨めな服装で、訪れた俺を見るに見かねて俺の服装を改善してくれたのだ。それに日本滞在中、旦那の冬コートを貸してくれた。友人の奥さんと娘さんの計らいで日本滞在中、颯爽と街を歩く事が出来たのだ。鈍感な俺、今頃になって、奥さんに『ありがとう』。
訪日する時、服装の事は何時も問題になる。ブラジルと日本は季節が真逆であるからだ。現地ブラジルの店頭で訪問先の季節に合った服が買えないのだ。それで、いつも、使い古しの服装になる。それに訪問先で服なんかの購入は助けがなくては出来ない、品物の良し悪し?どの店頭で?高いのか安いのか?Etc’s・・・ それに、帰ってみると現地の服装にマッチしない、などなど・・・。あの時の長袖シャツはブラジルでもおしゃれで、今も使っている。俺のお気に入りの服装だ。
甥の秀一郎さんが回転すしの店に連れて行ってくれた。グルグルと食べたい寿司が目の前に“どうぞ、ご自由に盗って食べて下さい”と廻って来る。盗んで食べて良いのだ。ブラジル生活50年の俺には考えられない光景だ。ここは天国の極楽か楽園だと思った。さて、満足して店を出る時、甥が4人分でウン万円の支払をした。あれだけ思う存分食べたのだから当然なんだろうが、そこで、不思議に思った、店の奴は如何して俺達が何を幾つ食べたのか知っているのか?。甥「あのねー、カッツオー(俺の名前は勝造)叔父さん、食べた皿を観て勘定して分かるっちゃが」、そうか、“なーるほど”と思ったが、折角、盗んで食れたのに・・・。如何して日本人は寿司だけ盗って、皿をレールに乗せたままにしないのか、そうすれば金を払わなくてもいいのに、と思った。日本人はブラジル人と違ってバカ正直なんだな、と、・・・。それから、1,2週間経ってだいぶ日本人化してきた俺は“盗る”の発想から、ただの“取る”の発想に代わっていった。ブラジルに帰った時、飲み友達の奴等は「ヒロさん日本に行って勘定払が正直になったね」と言われた。褒められたのかな?バカにされたのかな?褒められたんだよな。
博多に帰ってから三日目、二人の兄貴達と三人の姉ーさん達と街に出た。帰りにスーパーマーケットに立ち寄った。俺には50年目の日本のスーパーマーケットだ。入った直ぐは、サンパウロのスーパーマーケットとさほど変わらないなと思ったが、しばらく店の中を回っているうちに品物の種類と中身が濃い(多い)と思った。特に、興味を引いたのが缶ビールが並んだ一角だ。種類も中身の説明も俺には理解出来ない現代の変な日本語で記されており困った。考えた末、飲んでみるしか方法がない、と思った。よし!端から試しで飲んでやろうと決めた。早速、一個を棚から取って“プッシュー!!”と栓を抜いて飲もうとした。突然、後ろから羽交い絞めにされ、宙吊りになってレジに連れていかれた。後ろを見ると兄貴と姉―ちゃんだ。姉-ちゃん「何て事するとね!」、俺「どうせ払うんだから問題ないじゃん」、姉―ちゃん「ここはブラジルじゃなかっちゃが、日本よ!」、兄貴が顔を真っ赤にして「すみまっせん。すみまっせん。此奴、ブラジルから今週戻ってきて日本の事情がまだ分かっとらんけん・・・許してくれんね。・・・こら!カッツオー謝らんか!」、姉―ちゃんは、余りの奇行に驚き、それに滑稽さが加わって、笑いと半泣きを合わせた顔で俺の顔を狙んでいた。この瞬間、騒ぎに集まった五人の兄弟の間に、七十数年前の泣き虫で常識外れの末っ子の俺を甘やかし、叱り、優しく宥した光景が、一瞬、蘇ったようだった。今、あの時の大騒動を思い出して俺は涙を流して笑ってこのエッセイを書いている。末っ子って、幸せななんだなー、ほんとによかった。
博多は、ラーメンが有名だそうだ。18歳で東京に出た俺は博多ラーメンが有名だったとは知らなかった。しかし、博多の魚市場にあった長浜ラーメンは知っていた。高校は博多湾を横切って通わなければならなかったので、毎日、路面電車と船を乗り継いで通った。それで、桟橋までの路面電車を倹約し、それで貯めたお金で週に一回、長浜ラーメンを友達と一緒に食っていた。東京に出てから58年ぶりに戻った事で、兄貴が気を利かせて「何処か、懐かしゅうて行きたい所があるか?」と聞いて来た。俺1分ほど考えて第一番に浮かんできたのが意外だった。それが“長浜ラーメン”だった。兄貴「じゃー、連れて行ってやろう」、車で15分くらいで、昔魚市場だった所に着いた。現在の立派な魚市場からもそう遠くない。“元祖、長浜ラーメン”の看板が掛かった店に入った。昔、美味しくてむさぼって食ってたラーメンだったが、口が肥えた今ではまぁー、まぁーだ。懐かしさを満喫して、店を出ると、なんと!“本家 長浜ラーメン”の旗がひらめく店が5メートル先の向かえ側に見えた。どっちが本物なんだ。店の規模や造りはほぼ同じで、判断に困った。俺「じゃー、仕方がない。もう一杯食おう」50年の懐かしさを慰めるためにラーメンを2杯続けて食うことにした。これで悔いはない。ゲップ―、大満足した。
近所の幼友達が4人集まってくれた。誰かがたまたま俺の実家に用事で訪ね、俺の訪日を知ったらしい。大人になって昔の面影がある奴は一人もいなかった。近所にあるバーに集まった。外見は、ブラジルでは怪しい店に匹敵するようなケバケバしさがあったが、中の雰囲気は真面目な所だった。一人が行き付けのバーだった様で、特別にあしらってもらったようだ。お互いの空間を埋めるのに一時間以上掛ったように思う。仕方がない、50年以上の空白時間だったんだから、一人は博多に住んでいて一度も会っていなかったそうだ。一時間が過ぎたころから、お酒も入って、お互い打ち解けてきた。誰からも、余り俺の思い出は出なかった。何時も一緒に遊んでいたのに、俺の事を余り語らない、俺の話になると、俺の親父の事になる。話の内容は「家に遊び(忍び)込んで水飴を指で盗んでなめた」、「ヨモギを採って来たら、お前の親父がヨモギ餅を皆に作ってくれた。旨かったー」とか食い物の話ばかりだった。俺の家は“ようかん”、“カステラ”、“運動会用の”紅白まんじゅう“やらを作る和菓子屋だった。あの頃の俺達は何時も空腹で食べる事しか考えていなかった。終戦後のドサクサ時代の幼友達だ。今は県の教育委員会の何何会長を何年続けていると云う者もいた。あの頃、俺達はスイカ泥棒やカキ泥棒、モモ泥棒をしたものだ、それが県の教育委員会の何かになっている。一番美味しかったのは女学校で育てていたイチゴだった。夢のような食べ物だった。夢のような食べ物で思い出したのが米軍基地の塀の上から、クリスマス・イブにバラまかれたお菓子であった。今で云うチョコレートだった。皆で奪い合ったものだ。そんな話で盛り上がって、バーの予約時間が切れ解散になった。おの頃の空腹が全員懐かしかったようだ。 次号につづく。
「編集人からのメッセージ」
このエッセイは、広橋勝造氏が、ブラジルの南リオグランデ州在住の和田義二氏が管理
される「私たちの50年」というメール仲間に投稿された原稿を転載させていただいたものです。
広橋氏の略歴は下記の通りです。
1945年福岡 生まれ。1971年に出港した「あるぜんちな丸」の第38回ブラジル移民としてサントスに上陸。以後50年にわたり、ブラジルに滞在、創業26年になる医療機器専門のメンテナンス会社を経営。サンバルロ近郊のサンベルナルド市に在住。