執筆者:富田 眞三(在テキサスブロガー)
無事に終了したTOKYO2020は、国内はもとより、世界中に感動の嵐を巻き起こしてくれました。金メダル9個の陸上界のレジェンド、カール・ルイスは「それにしても日本はよくぞ大会を開催してくれた。今大会のヒーローは日本の皆さんだ」との賛辞を寄せている(8月8日、読売新聞)。開催に反対した共産党、朝日新聞にぜひ聞かせたい話である。
さて、TOKYO2020では、数ある名勝負があったが、筆者が特に関心をもって見守ったのは、男子サッカーだった。
サッカー日本代表、銅メダル獲得!
写真:毎日新聞
53年前のMEXICO68(メキシコ五輪)にオリンピック二度目の登場を果たした日本サッカーチームは得点王釜本を擁して、堂々銅メダルを獲得して、世界を驚かせた。TOKYO2020では、日本サッカーの二個目の銅メダル獲得の期待が高まったが、「歴史は繰り返さなかった」。MEXICO68での三位決定戦の対戦相手は今回と同様にメキシコだった。幸いにも筆者はメキシコ最大のフットボール・スタジアムのアステカでこのゲームを観戦できた。今回は、その試合で起きた信じられないエピソードをご紹介したい。
写真:(www.ahunam.unam.mx/68
当時のメキシコは、左翼学生たちによるオリンピック反対運動が起こり、学生によるデモ鎮圧のため、メキシコ・シティでは戦車が出動して、多数の死者が出る騒ぎだった。デモ学生たちのスローガンは「五輪は欲せず、我々は革命を欲す。(MEXICO 68)」だった。これは今回の五輪反対のスローガン「五輪は欲せず、我々は命を欲す(TOKYO 2021)」と革命と命の違いはあるが、どこか似ている。 Mexico68のサッカーに戻ろう。この年の五輪は原則プロ選手の登録は禁じられたが、ワールド・カップ・チームに召集されたことのないプロ選手はその限りにあらず、とされたため、メキシコのイレヴンは全員プロ選手だった。一方、日本はまだプロ・サッカーがなかったため、全員がアマチュア選手だった。
図表:毎日新聞
さて、Mexico68のサッカーには、16ヵ国が出場した。ベスト8には、ハンガリー、グアテマラ、日本、フランス、ブルガリア、イスラエル、メキシコ、スペインが進出した。日本は強豪フランスを3-1で破って、準決勝に進んだ。一方、メキシコはこれまた強豪のスペインを2-0で下して準決勝に進出した。準決勝で、日本はハンガリーに0-5で完敗、メキシコはブルガリアに2-3で惜敗した。
その結果、決勝戦はハンガリーとブルガリアとなり、それに先立って、10月24日(1968年)、メキシコ・シティのアステカ・スタディアムに7万5千の大観衆を集めて日本対メキシコの三位決定戦が行われた。
ところで、当時も今同様に、五輪開催年には欧州サッカー・プロチームによる、ユーロカップ(欧州選手権)が開催されるため、欧州のサッカー強国は五輪に対する関心が低く、MEXICO68のサッカーでは、ドイツ、イタリア、イングランドは不在だった。ブラジルはスペイン、日本と同組のグループBだったが、予選で消えてしまった。
その三位決定戦を筆者は、今は亡き女房と会社の仲間たちと共に、勤務する会社がアステカに所有する、15名が座れるボックス席で観戦したのだった。その日、女房が白いシーツで作った、速成の大きな日の丸の旗をもって応援に行ったのである。この試合は日本サッカー史上最高のストライカー、釜本邦茂が6番、7番目のゴールを決めて得点王となり、その名を世界にとどろかせた一戦だった。試合日は1968年10月24日(水)、場所は75,000の観衆が入った、アステカ・スタディアム。地元観衆の大声援を受けた、ラ・セレクション・デ・メヒコ(メキシコ選抜)は試合開始から日本陣に攻め込んだが、日本の守りは固く、メキシコはじっと反撃の機会をうかがっていた。
写真:(www.sponichi.co.jp)
20分、試合が動いた。釜本が杉山隆一のパスを胸で受け、左足で先制ゴールを決めた。釜本は40分にも杉山のパスから、今度は右足を振りぬいて追加点を奪った。こうして、白いジャージーを着た、まだSAMURAIとは名乗っていなかった、日本チームは2-0のスコアで前半を終えた。後半の立ち上がり、日本はPKを与えたが、GKの横山謙三が見事にセーブした。後半の中盤に差し掛かると、アステカを埋めた、メキシコ人サポーターたちは、全員アマチュアの弱小チームの日本に後れを取る、メキシコ・チームへのいら立ちを募らせ、あろうことか、「ハポン(日本)、ハポン(日本)」と日本チームを応援し始めた。
写真:(www.sportz.vision.com)
すると、「ドン、ドン、ドン」と我々がいたボックス席のドアが激しくたたく音がスタディアムの騒音に交じって、聞こえてきた。同席していたメキシコ人の社員がドアを開けると、5,6人の大学生風の若者たちだった。「日の丸の旗を貸してくれ」と言っているが、どうしますか、と訊かれた筆者が応対した。容貌、態度、話し方から見て、いい加減な連中でないことはすぐ分かった。「何のために日の丸を借りたいのか?」と訊いたところ、「ご覧の通り、観衆は『ハポン(日本)、ハポン』で盛り上がっています。我々は日の丸を掲げてスタディアムの通路を一周して、ハポン・チームに声援を送りたいのです」ということだった。
「国旗を焼いたり、破ったりするような人たちではないことは、筆者に真剣に『お願いする態度』に現れていたので、日の丸を貸してやったのである。彼らは喜々として日の丸を掲げて、アステカの二階席通路を何周も何周も走り廻って、大観衆の日本への大声援をイヤが上にも盛り上げてくれた。日の丸は無事、我々のもとに返ってきたのはもちろんだった。だが、日の丸応援団が退場すると、多くの観客たちは潮が引くようにスタディアムを後にして行った。
とにもかくにも、釜本を擁する、日本はMEXICO68、サッカーで銅メダルを獲得した。これは日本サッカー史上最高の快挙であり、日本チーム唯一のメダルである。
二日後の26日、アステカに於いてMEXICO68、サッカーの決勝戦が行われ、ハンガリーとブルガリアが対戦した。この日、筆者は日本サッカー・チームの釜本、杉山、横山等、5,6人の選手をアステカのボックス席に招待して、彼らの解説を聞きながら、優勝決定戦を観戦するという、幸運に恵まれた。前日には、例の日の丸に選手全員が「W杯MEXICO70で会いましょう!」と寄せ書きしてくれていた。
日本サッカー・チームとの縁は、確か筆者の亡父の友人の紹介だった、と思う。選手たちの「にぎり飯が食べたい」との要望には頭を抱えてしまった。あの頃、メキシコ・シティには日本レストランは唯一日墨会館にあるだけだったうえ、日本米はメキシコ南部で少量生産しているだけだったので米を入手出来たのは、奇跡に近かったが、選手たちは知る由もなかった。
優勝戦観戦中、何を聞き、またしゃべったかは一切覚えていないが、釜本から訊かれた質問だけが記憶に残っている。「メキシコ・チームの8番は何ていう選手ですか?」と訊かれたのである。Fernando Bustosです、というと、釜本は「ブストスですか。私は彼にずうっとマークされていたので実に嫌なプレイヤーですが、同時に実に良い選手ですね」と言っていた。ブストスは筆者のひいきするCruz Azul(青十字チーム)に所属する選手だったので、我がことのように嬉しかった。
日本サッカー・チームの皆さんは口々に「二年後の1970年W杯でまた会いましょう!」と我々に誓ってくれたが、彼らが再びメキシコに来ることはなかった。日本はW杯アジア第1次予選で、0勝2分け2敗で敗退し、アジア代表としてメキシコへ来たのは、イスラエルだった。
W杯MEXICO70は、ペレがプレイするブラジルが3度目の優勝を飾り、規則により当時の「ジュール・リメ杯」の永劫所有権を獲得した。
なお、サッカーW杯MEXICO 70は、ヨーロッパと南米以外の都市では初めての開催だった。思えば、68年の五輪、70年のW杯開催と立て続けに世界的イベントを主催した、メキシコは当時が繁栄の絶頂期だった。この後、メキシコは一時の石油ブームに沸いたものの、外債返済に悩む、発展途上国組に仲間入りをしたのだった。(終わり)