執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
「リオ印象記」
Como eles acharam a” Cidade Maravilhosa” , vendo com seus próprios olhos?
最初の留学を通じて私は、すっかり” 麗しき都”とみなされているリオはむろん、ブラジルの虜になってしまった。
ところで、ブラジルを訪ねた作家、詩人にはその他、島崎藤村、開高健、向田邦子などがいる。そうした文人たちにとって、特にリオは果たしてどう映ったのだろうか。幸いにして、彼らは紀行文の類のエッセイなどを綴っている。これらを頼りに、文豪たちが抱いていたリオへの思い、印象などを垣間見たい。
前回、ブラジルに魅せられリオを終の住処にしたステファン・ツヴァイクを取り上げた。著書『未来の国 ブラジル』のなかでこの作家は、リオを訪ねての印象をこう綴る。「リオに上陸した時、生涯をつうじて最も大きな衝撃を受けた。わたしはブラジルに魅せられると同時に感激した。なぜなら、ここで海と山、都会と熱帯の自然の素晴らしい組み合わせという、地球上で最高の風景美に出会ったのみならず、文明の全く新しい様式を見出したからだ。」 リオを最初に訪ねてのツヴァイクの印象は、私のそれと重なる部分が少なくない。が、瀟洒で垢抜けした南部地区( Zona Sul)の住民と都市景観は何にもまして私には魅力に思われた。
ところで、リオを訪れた日本の文豪のなかにあって、この都市への憧憬と感動を誰よりも露わにしたのは、『潮騒』の作家かもしれない。20才の時に初めて海外に赴き、南米紀行のかたちで『アポロンの盃』( 新潮文庫) で、リオをこう綴っている。
「しかしリオのこの最初の夜景は、私を感動させた。私はリオの名を呼んだ。着陸に移ろうとして、飛行機が翼を傾けた時、 リオの燈火の中へなら墜落してもいいような気持がした。自分がなぜこうまでリオに憧れるのか、私にはわからない。きっとそこには何ものかがあるのである。 地球の裏側からたえず私を牽引していた何ものかがあるのである。」
「リオは不思議なほど完全な都会である。」
三島由紀夫が抱く感想と同種のものを『現代ブラジル文学代表作選』( 第一書房)のなかで堀口大學は吐露する一方で、優艶にして幻想的な雰囲気を醸し出すリオにすっかり心酔して、《利甫〔リオ❳は酔って酔って酔っぱらう天女です》と形容もする。
他方、エッセイ『異国の街角で』( 集英社文庫) で五木寛之は、リオの社会相に言及しながら、「灰色の水曜日」に催されるカーニバルを観ての印象を、白日夢をみているかのようだと述べている。リオの社会相については別の機会に詳述するが、つまるところ、華やかなパリを彷彿とさせる雰囲気を醸し出す、この三大美港たる「麗しの都市」を一度訪ねた者なら誰でも、強い印象を受けサウダージを覚えるに違いない。留学で2年にも亘ってリオ暮らしをした私にとって、この体験と印象が心の中に刻まれないはずがない。Sou eu carioca japonês quanto à maneira de pensar e agir.
50回におよぶブラジル旅行にもかかわらず、リオの東南の800メートルあまりの高原に位置する、皇帝の住まいであったペトローポリスを訪ねたのは留学時の一回のみである。しかも、そこがブラジルをこよなく愛した、『未来の国ブラジル』(Brasilien: Win Land der Zukunft)の著者であるステファン・ツヴァイクが永眠しているところとは、寡聞にして知らなかった。
周知のごとくツヴァイクは伝記作家、史家として世界中に知られている、ユダヤ系オーストリア人である。自由主義に徹した彼はナチスに追われて世界を転々として、唯一生きる道が開けていたアメリカ、英国、ブラジルのなかで、終の住処に選んだのがブラジルなのであった。
1936年9月に、ブエノスアイレスで開催されたペンクラブの国際大会の途次、『マリー・アントワネット』の著者は初めてブラジルを訪ねている。特筆すべきはその際に、当時のバルガス政権の要請で、リオおよびサンパウロにおいて講演していることだろう。ともあれ、ユダヤ出自であることから、文豪への迫害は苛烈を極め、彼の著書はヨーロッパ各地で押収・焼却処分の憂き目に遭う。かかる状況のなかで、ツバイクはロッテ夫人を帯同して1941年9月、ブラジルへの移民を決意してペトローポリスに住むようになる。その意味で、心身ともに疲れ果てたツバイクを癒やした、逃亡先がブラジルであったのである。次回に述べるが、ブラジルという未来の国へのオマージュとして書かれたと解される『未来の国 ブラジル』は、この国を東西南北、旅をして、その印象を綴たもので、ブラジルを愛してやまない作家の心情が余すところなく吐露されている。原著出版( 1941年) から52年を経た1993年、宮岡成次氏の訳で河出書房新社から出た本を読んで、ブラジルを愛する点で共感するところが少なくなく、感動している。
ドイツ文学に関して私が読んだ作品と言えば、ゲーテとヘルマン・ヘッセのものぐらい。周知のように、トーマス・マンもヘッセと並んでよく読まれる、ドイツを代表する作家である。そのトーマス・マンの母がブラジル生まれであることをご存知だろうか。
トーマス・マンの母方の祖父ヨハン・ルドウイッグ・ブラウンは、商魂たくましく海外発展を抱いてブラジルに渡った。1842年のことである。資産家であったこともあり、現在原子力発電所のあるAngra dos Reis に土地を購入、コーヒー栽培と合わせてコーヒーの輸出商を始め財をなす。そして、独身であった彼は、美貌かつ聡明なポルトガル人とインディオの混血児であるMaria da Silvaと1848年に結婚。3年後の1851年、Juliaが生まれる。この人こそトーマス・マンの母である。
ヨハンの妻マリア・ダ・シルヴァは二度目の妊娠の後、流産が原因で落命する。この妻の死を機会に、当時6才であったジュリアを連れて祖国に舞い戻る( 1858年2月)。母親の面影を残す珠玉のような美人のジュリアは、父の古里リューベックの女学校で学びながら教養を身につけた。音楽もこよなく愛した彼女は、ピアノを弾く一方で優れたソプラノの歌い手であったそうな。18才の1869年、リューベックの豪商であり上院議員のトーマス・ヨハン・ハインリッヒ・マンと結婚する。二人は5人の子宝に恵まれた。その内の一人がトーマス・マンである。
教養小説『魔の山』が出版されたのは、ブラジルに生まれ、インディオとポルトガル人の血を引く母親が没した1924年である。いずれにせよ、ドイツ最高の知性の一翼を担う作家、トーマス・マンの母がポルトガル人とインディオ出自で、ブラジル生まれであることは実に意外であった。
貧困州の一つであるブラジル北東部ペルナンブーコの州都レシーフェに生まれた、医者にして地理学者、社会学者でもあったジョゼー・デ・カストロ (Josué de Castro:1908-1973)。世を去ってはや30有余年 [*2021年の今となっては間もなく半世紀になる] の歳月を閲する彼が、一躍世界的に名声を博したのはおそらく、「飢餓が自然的要因によるよりは、むしろ誤った経済・社会構造に起因するものであり、飢餓こそ人口過剰の原因である」と説いた、彼の代表作『飢えの地理学』(Geografia da Fome) [邦訳は『飢餓社会の構造 ―飢えの地理学』(大沢邦雄訳)、みき書房、1975年] のおかげだろう。 今も周期的に北東部を襲う旱魃の被災者の一人として送った青少年時代の自らの貧困体験は、彼をして飢餓問題研究へと向かわしめた。『飢えの地理学』は、そうした現実に身をもって直面した著者の、実証的な研究に裏打ちされたものだけに、すこぶる説得力を持つ。
ともあれ、1975年に世に問われた本書が、ブラジル内外の飢餓や貧困問題に従事する研究者に与えたインパクトは小さくない。のみならず、カストロの言説は、人口過剰が食糧危機を招来し人類を破滅に導く、という『生存の道』(Road of Survival) の著者ウイリアム・フォーグド (William Vogt:1902-1968) 一派の新マルサス主義の考え方を批判し、彼らに再考を促した。人口過剰こそ貧困の要因と説く、そうしたマルサス主義の論拠の誤りを指摘しえたのも、カストロ自身が、各地の住民の文化や健康に及ぼす影響等について考察しながら、自国の食料事情に通暁していたからに他ならない。
飢餓研究の第一人者としてカストロは、1952年から1956年の四年間、FAO (国連食糧農業機構:The Food and Agriculture Organization of the United Nations) の理事会議長の要職にあり、この方面の問題解決に尽力し貴重な提言も行なった。当時ブラジルでは、飢餓問題を論じること自体、学界ではタブーであった。にもかかわらず彼は、このテーマに果敢に取り組み、人類の三分の二近くが恒常的な飢餓状態にあること。そして、ブラジルもその例外ではなく、国民の食べ物は質的にきわめて劣悪であり、慢性的な飢餓に陥っている人の数が少なくないこと。さらには、ブラジルの国土の2%のみしか有用作物栽培のために耕されているに過ぎず、しかも、その面積のわずかに三分の一しか食用作物に向けられていないことなどを指摘し、自国の食糧問題の核心に迫っている。
『飢えの地理学』が前著同様に、国の恥部を白日の下に晒し、歴代の為政者の社会政策を痛烈に論難したことから、著書はある時期まで発刊禁止となり、カストロ自身も1964年のクーデターで公職追放の憂き目に遭い、パリへの亡命を強いられることとなった。しかしながら、『飢えの地理学』にみる典型の、飢餓問題に関する研究成果は、いまもその価値を失っていない。そればかりかむしろ、再評価の方向にあると言える。
世界でも冠たる社会的不平等の国であるブラジル。富める者はますます富み、貧しい者は宿るところもなく路上を住居にしながら、貧困ライン以下の生活に甘んじている。こうした二極化現象は拡大の一途を辿り、“白い暴力” [ゆるやかな飢餓による死] が現実のものとなっている。
こうした情況を見兼ねた現ルーラ政権は、「飢餓ゼロ」(Fome Zero) を国家の最重要課題と位置づけ、国民生活の向上に全力を挙げて取り組んでいる。のみならず、BRICSのメンバーとして政治力を強めながら、貧困および飢餓の撲滅が、広く世界通有の課題であるとの認識の下に、ブラジルにとどまらず国連レベルにおいても喫緊の課題であることを、ルーラ政権は力説し続けている。こと食糧資源に関する限り、ブラジルは有数の大国である。にもかかわらず、何故こうも飢えている人が少なくないのだろう。まことに怪訝というしかない。管見ながら、これらの要因としては、ブラジルの経済社会の発展を歪めた農業のあり方、大土地所有制 (sistema latifundiário) などの経済的・文化的なもの、さらには、人間集団の形成と進化に係わる生物学的・生態学的な事由が考えられる。本ブログの別のところで概説している「ラテンアメリカの立ち遅れに関する要因を巡って」と合わせて考察すべき課題かもしれない。
カストロ自身が述べているように、850万平方キロの大陸規模の国土は、アマゾンの赤道雨林気候から北東部のセルトン地帯の乾燥、半乾燥気候に至る種々の熱帯気候と、多様な型の経済組織を形成する亜熱帯気候を有する。しかも、他の世界の国々に較べれば、一部北東部の「旱魃の多角形地域」(Polígono das Secas) を除けば、砂漠化したところがない。この点で、地球市民の食糧を支える “世界の食糧庫” (celeiro do mundo) としての可能性を十二分に秘めている。“豊かな大地に貧しい民がいる” と述べた、とあるブラジル人研究者の言葉を私は反芻している。
『交雑した文化』(Culturas Cruzadas, 1994) の著者マーリオ・カレリ (Mario Carelli) 教授によると、フランス人にとってのブラジルは、ディオニュソス (バッカス) 関連のものと自分たちの夢の一部を保持しているところであり、他方ブラジル人にとっては、フランスは自身の近代的国家構築の主要な段階とつながっている。ポルトガル人によって植民地化され、後に、多くのイタリア、ドイツ、日本からの移民を受け入れたにもかかわらず、ブラジルはフランスを文化的な祖国としてみている節がある。
ブラジルの国家形成の過程において、今日までヨーロッパの “貧乏な従兄弟” とみなされているポルトガルを介して、自由の着想は成しえられなかった。翻ってフランスは、啓蒙の世紀 (Século das Luzes)、すなわち18世紀には、「ミナスの陰謀」(Inconfidência Mineira) を含めてこの新世界ブラジルの独立を誘発させる知的産物がフランスには存在していた。当時のブラジル人は、自らのポルトガル人としての出自を受け入れることを拒むかのような心理状態にあった。そして、自分たちの目に豊かで高貴に映る他の出自に取り替えることができるなら、と願っていたようだ。
ブラジル芸術のほとんど全ての領域においてフランスの影響は疑いがない。従って、この国が文化的アイデンティティーを形成する時期においても、フランスの影響から逃れられなかった。国民的なテーマの追求によって自国の真の発見を目指したロマン主義そのものも、ジョゼー・デ・アレンカール (José de Alencar)、ゴンサルヴェス・ディアス (Gonçalves Dias) などがインディオを主題とし、トゥピー語を多用しながら国民化の方向に進んだが、その根底において、憧憬の念も加わった精神構造はフランスに深く根ざしたものであった。
事実、ブラジルにはフランス的な知性が広範囲に華開いた。文化使節団の度重なる到来、サンパウロ大学 (USP) の創立などはその一例にすぎない。そうしたフランス、とくにその国の文化的影響の下に、主として上層のエリートたちはフランス語を母国語同様に操っていた。
他のヨーロッパ人のように、価値観の危機にあるフランス人にとって新世界ブラジルは、いわば “エデンの園” のような存在である。1557年にブラジルの大地を踏んだジャン・ド・レリ (Jean de Léry) までもがすでに、『ブラジルの地への旅行』(Viagem à Terra do Brasil) の書のなかで、現実と幻想との間で揺れ動きながら、桃源郷たる牧歌的なアメリカ観を吐露している。
16世紀に、リオデジャネイロを「南極フランス」と命名したフランス人はその地に植民地建設を企てた。やがてポルトガル人によって追放されるが、ブラジル (リオ) はフランス人には特異な存在に映るらしい。彼らが心に描く幻想とステレオタイプな見方は今も変わりなく、憑りつかれているような塩梅だ。
2005年はフランスにおけるブラジル年。さまざまな行事が催されたと聞く。第三者の立場からフランスとブラジルの関係史を、とくに文化面から考察する価値は十分ある。因みに、私は上述の「南極フランス」に関する論考を完成させ、地中海研究会会誌Mare Nostrumに投稿している。近々刊行されるはずである。
前回の原稿では、ブラジル、フランス双方の間の深い文化交流の絆について論じた。そこで遺漏し言及し得なかったこともあるので、少々付け加えたい。ブラジル発見時には、スペイン、ポルトガル、イギリスに較べると立ち遅れたフランスではあったものの、およそ100年あまりに亘ってブラジル北東部の大西洋林において、染料剤となる《パウ・ブラジル》( pau- brasil)を伐採、自国に持ち帰っていた。が、ブラジルとフランスとの最初の接触は交戦の歴史であった。すなわち1555年、「南極フランス」(França Atlântica)と称する植民地建設を夢見たフランスはグワナバラ湾に侵入し、要塞を築き始めたのである。
もしも両国との間でブラジル側が敗北していたとしたら、リオはフランスの植民地になっていたかもしれない。初代長官のエスターシオ・デ・サーは、現地のインディオであるタモイオ族と結託したフランス軍を、リオから放逐したことで、占拠・支配の難をのがれられたのである。ちなみに、この戦闘で長官は犠牲となり、その後死亡している。
フランスのブラジル植民地化の野望はこれだけにとどまらなかった。シャルル・デヴォーとジャック・リファーを司令官とするフランス軍が北東部のマラニャン州到来。マラニャン島にサン・ルイースなる要塞を築き市街を建設したりもする。フランスの憧憬するリオへの執念は根強く、1710年には2度に亘って、当時ミナス産の金と砂糖の輸出港として活況を呈していた都市は、甚大なる被害を被った。このように、フランスの侵略で始まるブラジルとの関係史。が、打って変わって、19世紀初頭からは両国の関係は一変、隔世の感さえする。
1816年のドン・ジョアン六世の招聘によるフランス芸術使節団の来訪以降、特に文化交流は深化の一途を辿った。歴史画家のジャン・バチスト・デブレー、建築家のビトリオ・グランジャン・デ・モンチニー、彫刻家のアウギュスト・マリア・トゥネー等の尽力もあって、この国に芸術文化は様変わりする。そして、国立美術学校も設立され、その初代校長に先の使節団の団長であったレブレトンが就任したりもする。それのみならずリオは、パリがモデルとなって華やかな都市美を呈するようになる。リオ市街地の構造、芸術的な建築などが、次のオリンピック開催都市であるパリを想わせるのも、けして偶然ではない。
留学時の私などは、けたたましい爆音で飛行するコンコルドが、リオとパリの間で唯一就航していた事実からも、リオとフランスとの間の深い関係の一端を知るに及んでいる。
いささかステレオタイプ的であるが、ブラジルといえば、大方の人はきまって「コーヒー」を想像されることだろう。が、「モレーノ (moreno)」という言葉 [の意味] をご存知であれば、相当のブラジル通かもしれない。とくにその女性形 “morena” を使えばこの国では、「小麦色した」肌を持つ混血の美しい女性を形容する。その点で、双方の言葉はいわばブラジルの「香り」と「顔」を表徴している。
にもかかわらず、コーヒーもモレーノもアラビア語から借入した言葉である。概して、ブラジルの文化はインディオ、ポルトガル人、黒人 (アフリカ人) を基底として生成されている。が、社会史家にして人類学者でもあるジルベルト・フレイレが指摘しているように、アラビア的要素も黙過しえない。事実、ブラジル各地を隈なく歩けば、食文化はむろん、言語から建築にいたるまで、アラビアもしくはモーロ的文明の影響を、その度合いの深浅は別として、垣間見ることができる。私が訪ねた北東部のセルトン地帯も然りである。そうしたモーロ (モウリスカ “mourisca”とも) あるいはアラブの影響は通常、植民地開拓者であったポルトガル人を介してなされた。奴隷に対する穏便な扱い、美人の理想型としての肥満体。ミナスジェライス州やサンパウロ州内陸部で見られる、ミサに出向く際の婦人のベール (mantilha) を被うこと、そしてトルコ絨毯やゴザの使用などはその一例。
ポルトガル人がイベリアやアフリカの地で吸収したモーロもしくはアラブ文化の他の側面は、陶板 (azurejo)、灌漑用水、噴水(chafariz, fonte, repuxo) などだ。建築面での窓格子 (gelosia) ないしは格子のついたバルコニー (muxarabis)、モーロ風の屋根、基盤目上の窓なども、ブラジルに伝播された。
一方、サンパウロのレストラン組合によれば、市内で供せられる料理のほぼ25%は、キベ (quibe) やエスフィーハ (esfirra)、クスクス (cuscuz) に代表されるようにアラビア出自のものだそうだ。砂糖をふんだんに使った、しかも油っこい料理などは北アフリカ出自の古いものであるが、ブラジルでは今日きわめてありふれた食べ物となっている。
因みに、アラビア世界は20の国々で成り立っているが、ブラジルに住むおよそ1千万の人は、そのほとんどがレバノン系 (700万) とシリア系 (300万) である。かの有名な日産のCEO、カルロス・ゴーン氏もレバノン系のブラジル人なのだ。ともあれ、彼らの大半は、オスマントルコ帝国の支配の下、宗教的迫害から遁れて新世界のブラジルに到来した。加えて、オスマン帝国が押印したパスポートを携えて下船したので、ブラジル人は彼らを”トルコ人”とみなしていた。
「アラブ」はアラビア語を共通に話す民族に対する概念である。それに対して、ムスルマーノ (muçulmano) は、予言者ムハンマドとコーランの宗教、すなわちイスラム教 (Islamismo) の崇拝者をいう。であるから、すべてのアラブ人が必ずしもイスラム教徒ではないのである。
ブラジルのアラブ共同体社会は、中近東と異なり、キリスト教徒であれイスラム教徒であれ、互いが対立せず宗教的、民族的な隔てはなく平和的に共生している。おそらくこれは、ブラジルの国の有り様と深く関係しているように思われる。500年に亘る人種関係の歴史過程の中で培われ、また外国移民によって成り立つお国柄からして、多文化主義の精神と人種的な寛容さが、他のどの国よりも国民の間に浸透しているからであろう。
アラブ系の民族の多くは、移民のかたちで雇用機会を提供した南東部のコーヒー栽培地域と、北部アマゾン地域の天然ゴム栽培地に集住している。が、昨今では、都市部に移住しているものも少なくない。例えば、日系人は東洋人街 (Bairro Oriental) と呼ばれるサンパウロ都心部のリベルダーデ (Liberdade) 地区に凝り固まって住んでいる [しかし、この数年来、特に治安の悪化から、かなりの日系人がこの地区を離れる傾向にある。従って今では住民の大半は中国人や韓国人である。日本語の看板を掲げながらも、店主はそうした中国人や韓国人であるケースがまれではない]。同様に、特にレバノン人などは、フロレンシオ・デ・アブレウ通り (Rua Florêncio de Abreu) や 三月二十五日通り (Rua 25 de Março) といった通りに工場や店舗を構えて住んでいる。 最近来伯したアラブ系移民の間では、1980年代のレバノン戦争のあおりによる事例がみられる。彼らは長引く戦争に嫌気をさして、断腸の思いで祖国を離れた人たちだ。
私たちは、ブラジルの社会や文化を論じる場合、とかくこのアラブ的な影響を見落としがちである。今後のブラジル学もしくはブラジル研究なるものは、もっとアラブ的、ユダヤ的な要素を加味すべきである。ことほど左様に、二つの要素がこの国に及ぼした影は大きい。
ポルトガル人がブラジルに到来した1500年以降、種々の事由によってこの国に住んでいた先住民は激減した。これはブラジルに限ったことではない。ラテンアメリカ、例えば、インカ、マヤ、アステカの民族のごとく、「後住民(?)」であるイベリア人によって殲滅されたりした。
では、一体どれだけの数の先住民インディオが、現在、ブラジルの国土に分居住しているのであろうか。昨今のインディオ研究はこの問いに対してのみならず、その分布状況までほぼ明らかにしている。(*2021年現在ではさらに研究が進んでいるだろう。)
以下、アマゾンの言語に絞って言及する。南米大陸が発見される前、この地には、学者によって見解は異なるものの、およそ1200もの言葉が話されていたようだ。それが白人開拓者の搾取 (収奪)、強制的な同化政策等によってかなりの程度減少した。今日ラテンアメリカで話されるケチュア語、トゥピー・グアラニー語、アイマラ語、マヤ語、ザポテコ語、マプドゥングン語、マン語などは、その一例である。この点からしても、ラテンアメリカで話されている言葉は、スペイン語、ポルトガル語、フランス語だけではないということだ。
ところで、ブラジリア大学のアリョン・ロドリゲス教授は、マット・グロッソ、トカンチンス、マラニャンといった一部の州以外に、アクレ、アマパー、アマゾーナス、パラー、ロンドーニア、ロライマの各州からなる法定アマゾン地域 (Amazônia Legal) で話される言葉の調査を行った。その結果、約150の言語がその地域に存在することを特定した。そして、その多くが消滅する危機にあるという。ウムチマ語 (umutima) はその典型で、その言語の話し手はただ一人とのこと。シパーヤ語 (xypaya) を操る者もただ2人だそうだ。その一方で、タピラペー族 (Tapirapé) のように人口増加によっていくつかの言語はその話し手を増やしている。40人ほどに激減した人口が今では400人にまで増え、全員がタピラペー語を話しているとのこと。
繰り返すが、アマゾン地域の言語が激減した事由は、植民地化、インディオに対する植民地開拓者の奴隷労働の強制、異なる種族を教理のために布教村に集めたことによる固有の言語の消滅、等々。特筆すべきは、18世紀の末葉までに、アマゾン河に沿った地帯で話されていた言語の大部分はなくなったようだ。そして、抹殺を免れたインディオたちは、植民地開拓者の言葉を話すようになったのである。