連載エッセイ125:広橋勝造 「50年後に帰った日本でのカルチャーショック」その3 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ125:広橋勝造 「50年後に帰った日本でのカルチャーショック」その3


連載エッセイ122

「50年後に帰った日本でのカルチャーショック」その3

執筆者:広橋勝造 医療機器のメンテナンス会社経営 ブラジル在住50年

日本でのカルチャーショックの話題にブラジルでのカルチャーショックも入れて続けよう。

21.致命的通訳エラー:

広島の医療機器メーカーへブラジルの慈善病院の院長と看護婦長を連れて営業活動の一環で訪問した。俺にとっては大きな投資であった。メーカーの二日間に及ぶ会社紹介や製品紹介が終わった時点で、宮島観光に招待してくれた。10分位の船旅(船旅とは大げさでフェリーボートで渡った。最適な日本語の単語が出てこない)で宮島に上陸した。俺は難しい医療用語等が次々と出てきた今回の通訳と案内でヘトヘトになっていた。旅行の大事な目的を果たし、ホッとしていた。桟橋から宮島神宮まで500メートル程度の道程があり、やっと神宮が見えてきた。

その道程の途中、病院長「キエロ、ベー、ファブリカ、デ、アケレ、プロドゥット(あの製品の工場が見たいんだ)」と、この観光に関係ない事を言ってきた。俺は日本メーカーの随行員に通訳した。日本メーカーの随行員「そうですね~、時間的に余り余裕がなくて・・・。可能性を検討します」、それに答えて、日本人(文化)にもブラジル人(文化)も同じレベルになっている俺「エステ・ブラジレイロス、エンショサッコ。エウ・キェロ、ジョガー、エレス、ノ・マール。」と随行員に言った。メーカーの随行員「!?」と俺の顔を見て「広橋さん、何ですか?」と聞き返して来た。俺「エントン、エストゥ・カンサード」とグチを言った。

随行員「えっ。何ですか?」と怪訝な顔で俺を見つめながら「私、ポルトガル語が解りませんが」と言った。それを聞いた瞬間、俺は顔から血の気が引き、目の前が真っ暗になって、メーカーの随行員の肩に掴まって歩かなくてはならない状態が五秒ほど続いた。俺の頭は長い通訳の作業で混乱していて、どっちがどっちか分からなくなって、俺が随行員に言ったポルトガル語で大変な事を言った。和訳; “このブラジル人達、全くうるさいなー、俺、奴等を、この海に、投げ込みたいよ” である。俺の横を歩く病院長にはちゃんと聞こえていたはずだ。

その後、十秒ほど沈黙が続いて、院長「(まだいいよ、今回はヒロハシがポルトガル語で言ったから、日本人には解らなかった)」嫌味か養護か知らないが、こう言った。俺は45台の透析機械の大きな販売チャンスを逃したのだ。デプレッションになってブラジルに帰国、誰とも話しなくなかった。二週間経って病院から連絡が来た。キャンセル通知か?と電話に出ると、病院長が「(ヒロハシ、元気かい。私だ、今回の訪日有難う。楽しかったよ。いや、面白かったよ。と皮肉を言ってから、来週月曜日の午後に病院に来てくれ。45台買ってやるからな。おめでとう!)」俺涙を流して喜んだ。奴にお礼を言うのを忘れてしまった。それから、お互いを奴と言える仲になっていた。ブラジル人って良い奴!・・・。

22. 故郷のお寺でのミサ

親父の50周忌のミサで訪日した。法要の日、もう50年以上も会ってなかった多くの親戚が集まった。甥や姪、初めの会う彼等の伴侶達、その子供達にも会い、とにかく大勢が集まった。集まったお寺は豪華であった。俺が知る50年前は、古臭かった。門の両側には怖面で構え立つ仁王さんは健在であった。仕事で初めて訪日した際は同伴してくれた姉や自動車で送り迎えしてくれた甥を追い払って、一人で死目に会わなかった父の仏前に向かって大泣きしたのを思い出した。あの、大泣きは気分がよかった。スカッとした。

さて、今回は大変であった。法要で一時間余り畳に直接座らなくてはならない。もう50年余り正座した事がない!あぐらをかいて座る事も皆無であった。椅子に座って膝を最高45°しか曲げた事がなかった。足が曲がらない、無理して顔をしかめながら何とかしようとしたが無理であった。優しい姉が俺の窮地を察知、座布団を持ってきてくれた。座布団に座ろうとしたが、それでも無理であった。すると、姉が座布団を折ってくれた。高さを確保して、俺の限界の限界で何とか座れた。法要も終わりに近づき、線香を立てなくてはならない、俺は立つことが出来なかった。俺は断念した。最後に坊さんの説教があって、法要が終わった。全員軽々と立ち上がり、大きな豪華な祭壇の前から立ち去った。宴会の用意に姉さん達は急ぎ足で出て行った。俺は立ち上がる事が出来なくて、広―い部屋にとり残され、如何する事も出来なかった。

俺は何かに掴まろうと祭壇に向かって這って行き、何でも掴まれる物に掴まって這い上るようにしてやっと立つ事が出来た。その最後の力を振り絞った時、豪華で金箔で飾られた物が「ポキッと」乾いた音を立てて折れた。ビックリして周りを見回すと誰もいない!よかった!こんな時、俺の半分であるブラジル人魂になってしまう。誰もいないとなると、日本人みたいにバカ正直ではない。そっと、チンバを引きながらその場から去った。それから、お寺の別の場所に集まり精進料理とビールをいただいて宴会を半分心配し半分楽しみながら過ごした。帰る時、怖い仁王さん達がいる正面の門を通らず、寺の後ろの甥の自動車がある駐車場に直接行った。

23.日本で飲む酒のエフェクト:

ブラジルでのメンテナンス活動の為、埼玉にある広島のメーカーの下請け工場へ研修に行った。3ヵ日間の研修を無事に卒業、その間でアミーゴ(友達)になった先生(技術者)達が気の合う連中も入れて、一番近い東京の繁華街(池袋あたり?)にある彼等の行き付けの飲み屋(小さなお座敷がいくつもある)でお別れ会を開いてくれた。掘りコタツのようになったテーブルに押し合いへし合いして全員座り、俺はこの座敷方式に安心した。ブラジルに移住して俺は直ぐブラジル社会に溶け込んだ。ブラジル人とは街角のバーでのビールの立ち飲みが99%だ。座って酒を飲んだ事がなかった。2年に一度くらいサンパウロの東洋街に出向いて懐かしい和食を食べたが家族連れで酒なしであった。だから、座って日本酒を飲むのは30年ぶりであった。

少し寒い時期であり、熱カンがドンドン運ばれてきた。先生方は日本語がおかしい変な日本人を無事に卒業させてホットしたのであろうか、それともこれが常なのかドンドン飲むのである。俺もブラジル人がアルコール4.5°のビールをドンドン飲む飲み方でつきあった。アルコール11°前後の日本酒が美味しいのである。そのうち、酔っ払い達は焼酎を瓶ごと2本頼んで飲むのである。俺もブラジルで身についたビールを飲むリズムでつきあった。彼等が指定してくれている俺のホテルはここからそう遠くないそうだ。それも手伝って心配なく飲めた。十時を回った頃、俺のブラジル談義も尽きた頃、お開きになった。

勘定も終わり、さて、俺も立ち上がり靴を履いて表に出た。すると、なんと歩道がぐんぐんせり上がってくるのである。やがて、歩道が横倒しに見えるのである。横になった先生方が「ヒロさん。まだ寝るのは早いですよ!」、俺「?」、俺を横向けにしようと・腕を・・、いや、そうじゃない! 俺を持って、立ち上げてくれたのだ。俺は歩道に寝そべってしまっていたのだ。ブラジル式の飲み方で、日本で飲むのは危険である。!! 俺の二世の知人で日本酒が好きな奴は皆無である。それは、日本で、日本酒で悪酔いした経験をしているからだ。その原因が俺の実験で科学的に解明できた。この発見は“NO”メル賞ものだ。

24,うるさいブラジル人の同僚:

ブラジル移住して3ヶ月して、日本メーカーの会社を辞めた。事情はこのエッセイ集では語りたくない。単身移民で頼る者がいない俺、しかし、これがブラジルでの幸運の始まりであった。辞めてから4カ月間あちこち走り回って、読めないポルトガル語の新聞(数ページ求人欄がある)を買って職を探した。その頃はポ語/日本語辞書を牧師が持ち歩く聖書の様に片手に持ち歩いた。努力のかいが実ってポルトガル語が出来ないのに半官半民であった州の電話局に就職出来たのだ。もう持ち金も無くなってきたころだった。本当にラッキーであった。条件は2年後にポルトガル語の試験を行い、それに合格しなければ辞めねばならないそうだ。

 ― 俺は11人兄弟の末っ子で、多くの兄弟、姉妹に甘えわがままに育った。それで多分、カーラ・デ・パウ(“顔の皮が厚い”の意味)も育まれていたのだろう。そして楽観主義もだ。だから、ブラジル移住が出来たのかも・・、話に戻ろう ― 電話局に入って2年目になったがポ語の試験はなかった。採用した人事の奴は管理が悪くて忘れた様だ、そして、各局に配属される一般のメンテ要員からカテゴリーを2つも一度で上げてくれて、給料も倍増し、特別セクターに配属された。そこは、難題が起こった時に出動する映画の“スワッチ部隊”みたいな部署であった。半官半民であるため、俺には生温い仕事体制であった。その部隊に入って二年目位に新米の技術者が入ってきた。俺の二つ前の机に居座った。

奴は遠い北東州から来た者で、日本人を生(なま)で見た事がなく、俺(珍しい動物、それも原種)に興味を示し、何時も「日本はどんな国か?、日本は・・・は有るんか?」と日本の事を毎日聞いて来た。多分、俺に対しての質問を用意して出勤してくる様に思えた。日本に興味を抱いてくれるのはいいが、毎日の質問攻めには我慢できなくなってきた。俺は仕事に集中し、人の二倍働かなくては皆についていけない状況なのだ。ある日、奴が「(日本語で朝の挨拶は如何いうんだ?)」と質問してきた。その日、遅れている前日の報告書を文法が複雑で難しいポ語で完成させ提出しなくてはならない。

髄一の助けはシェフェ・デ・セトール(主任)のポルトガル人のエウクリーデス・ボウジェスで、俺の幼稚なポ語を直してくれるのだ。多分、恥ずかしくて上部に出せないのであろう。この余裕のない状況で、我慢できなくなった俺は、意地悪な策略を練った。俺「ワタシハオカマデス」、早速、奴はノートに書き写し、そのノートを見ながら一日中「ワ~タシハーオ・カ・マ・・・デス」、「ワ~タシハ・オ・カマデス」、{ワ・・・オカマ・デス}、と繰り返して練習していた。帰るころにはだいぶ上手くなっていた。次の日、俺に軽快に「ワタシハオカマデス ! 」、と言って頭を下げて挨拶した。俺は「Bom dia !(おはよう) 」と返答して“ニヤッ”とした顔を見せた。奴はその顔が気に入ったようだ。それから毎日、出勤すると「ワタシオカマデス」、と俺に挨拶する習慣がついた。

それから2週間位過ぎた、ある日、奴が真っ赤な顔して俺の机に向かってきて「(この~日本人の女郎の子め!X@ZY…△◇X□XX)」と、今にも殴りかかってきそうな剣幕で怒鳴ってきた。奴は本当の意味を知ったのだ。これを前から覚悟していた俺「(俺の名前はヒロハシだ、日本人は半分だけだ、後の半分はブラジル人だ。よく覚えてろ、ヒロハシを罵倒してもいいが、日本人を罵倒するのは許さないぞ。お前は俺の親を罵倒したんだぞ。罵倒するのは俺だけにしろ!)」、何かと俺が困った時、いつも助けてくれる二世のノブオが来て奴をなだめ、何とか事は収まった。

ノブオ「ヒロさん、ごめん」、俺「ノブオさんが謝らなくとも」、ノブオ「毎日、フーベンスが俺んとこに来てニヤッとして“ワタシハオカマデス”と言うんです。もう気持ちが悪くて、気持ち悪くて、会社辞めようかと思っていました。それで、何の意味か教えたんです。そしたら・・・こんな事に・・・」。俺はあの煩いフーベンスを痛めつけようとしたのが、苦しんでいたのは二世のノブオだったのだ。それから俺は人に意地悪をするのを(少し)止めた。また俺の持ち病である“幼稚症”が少し治った。まぁーこの病気は人には感染しないから、死ぬまでに治せばいいだろう。そしたら閻魔大王も三途の川を多分渡らしてくれるだろう。

25,悲惨な野球大会:

サンパウロの近郊のサンべルナルド市でベテラン(55歳以上)のカテゴリーの野球大会が開かれた。俺は好きだけどプレーは下手クソで何時も野球道具の運び屋や試合中はベンチを温め、場外ボールの球拾いをやっていた。それでも、楽しかった。俺の家内は弁当作り(人様に見せる)が出来なくて、皆んなが持ち寄る弁当が楽しみだった。内心、涙が出そうであった。それで、ご馳走盗みでチームの中で肩身が狭かった。今回のオールドチーム大会の主催者はサンベルナルドのチームだ。このチームは主にフェイランテ(決められた曜日に決められた路上で屋台販売(主に新鮮さが求められる野菜類や果物類、魚介類の販売)で構成されている

。それで、仕事の都合上、3週間の日曜日だけでスケジュールが組まれる。もう一つの特徴はグランドの三塁側に仮設屋台ができ、うどんが安―く提供される事だ。それが、シンプルでブラジル一の美味しさ(日本の実家の隣が博多うどん屋だったから俺が保証する)なのだ。大会が始まった。俺が所属するチーム(一世だけで構成)は順調に勝ち進んだ。2週間目に雨が降って中止となり、スケジュールが凝縮され、残りの3週目で残り全部の試合を熟す事になった。朝早くから始めれば何とかなるとの判断である。

俺のチームは順調に勝ち進み決勝戦まで進んだ。その為に3試合をしたのだ。プロ級の投手は肩を壊し、ライトの一番年寄りの外野手は試合放棄して、ただ一人元気いっぱいの俺と交代した! 俺の参加で(?)大差で優勝したのだ?!試合終了時、悲惨な光景がグランドいっぱい広がっていた。内野手はそのポジションで死人の様に寝そべり、センターの外野手はその場で後ろを向いてオッシッコして、レフトの外野手はホームの方向に向かって這っていた。俺にはまるで戦争映画で見た戦い尽きた兵士達の様にみえた。その惨状の中で表彰式が始まった。誰もトロフィーを取りに行かないので、遠慮しながら俺が取りに行った。帰りにトロフィーの管理を名乗り出る奴が居ず。俺にくれた。皆、勝利のトロフィーを憎んだ目で見ていたようだ。

26.自慢話:

時々、日曜日の遅い昼食後に、日向ぼっこするような感じで、家の前でくつろぐ事がある。その時間帯に、同じ時期(四十年前)に家を買った連中も良く家の前に出てくる。そして、自然に集まって世間話をする。そこで、俺の家内の自慢話をした。俺「(夜遅く帰っても、家内は起きて待っててくれるよ。それに、もっといいのは、車が家の前に来ると、ちゃーんとガレージを開けてくれるんだよ)」、ちょっと白けた感じになってしまったが、前の家の奴が「(いいなー、俺なんか中に入れてくれないよ)」、それを聞いて自然に俺は少し背を伸ばして悦になった。

生まれながらにコンプレックスの塊の俺は、なぜかこの連中にはその反動を発散する。しかし、今日は度が過ぎた。隣の、つい最近、3年間の日本“出稼ぎ”から帰ってきた二世のペドロが「その事で私の嫁さん(二世同志で俺の家内と仲がいい)が言ってたよ・・・」、俺「何を?」、ペドロ「(セーリア(家内のブラジル名)さんはいつもヒロさんの帰りが遅くて困ってる。ってだって・・・)」、俺“余計な事言わなくていいよ”と内心思った。続けてペドロ「(セーリアさんはガレージを開ける為にヒロさんが帰ってくるのを待って、起きてるんだって・・・)」、俺「(そうだろう!)」内心“俺を待つんだぞ!凄いだろう!”と言いたかった。ペドロが更に「(セーリアさんは、隣近所に恥ずかしいから、ヒロさんがクラクション鳴らす前にカレージを開けるんだって)」、俺の見栄は地に落ちてしまった。背中が曲がって、肩が落ち、萎れてしまった。

27.カラオケの選曲:

その夜遅く帰る原因になっているのにカラオケがある。俺、カラオケが好きだ。見栄はりの俺は他の客が多ければ多いほど歌いたくなる。しかし、客が多いと歌う順番がなかなか廻ってこない。それで、帰りが遅くなってしまうのだ。金曜夜の呑み助野郎達と飲んだ後、カラオケに立ち寄る。それに、“コーカゼロ”を飲みながら過ごし、飲酒運転のエフェクトを少しでも和らげるのだ。今まで、事故を起こさず上手くいっている。今夜は満員だ。何時もの俺の座るところは空いていた。いつものカラオケ仲間の坂本さんもいた。向こう側にさっきまで居酒屋で一緒に飲んでた荒木さんもいる。俺は坂本さんが居るとビール一本をあけて乾杯するのが慣例だ。

よし!歌うぞ!今夜は“三木ひろし”の“おふくろの子守歌”だ。この歌のメロディーを車のCDで一週間聴きっぱなしで練習してきた。聞かせたい、あっ!あの子(思いを寄せる40代の女性)も向こう側に座っている。早速、歌手名で仕分けた“歌のリスト”を開き歌ナンバーを探した。三木(みつき)・ひろし、の欄が見つからない。“あ、か、さ、た、な、は、ま”行のページに行きついた。“ま、み“、やっと、“三木(みつき)・ひろし”の欄に・・・。一向に“三木・ひろし”が見つからない!何度探しても“みつき・ひろし”が見つからないのだ。いつも世話になっているSOM係の担当者マルセーロさんを呼んで、“みつき・ひろし”を探してもらう事にした。もう半時間も探している。

マルセーロさん「(ミツキ・ヒロシ、って歌手を知りませんよ?)」、焦っている俺「(何言ってんだ。俺、今日一日中、彼の歌を聴いて練習してきたんだぞ)」、マルセーロさん「(ヒロさん、歌はなんですか?)」、俺「(オフクロ・ノ・コモリウタ)」、マルセーロさん「(それ、イツキ・ヒロシの歌ですよ)」、俺“ハッ”として沈黙・・・“そうか、五木(いつき)ひろし”か、いつから、三木(みつき)・ひろしに変わったんだろう? じゃなく、変えたんだろう? あっ、俺の美声を聴かせたかったあの女性はもう帰っていなくなっていた。これが“もうろく”の兆しか・・・。

28,N氏の生還:

俺は宮城県人会の元会長さんのN氏(2021年、77歳)が好きだ。彼のどこが好きかと問われ、考えてみると、彼の欠点しか出てこない。その欠点が俺と同じだからであろう。だから、親近感が沸くのだ。欠点は外見的にみると優しいが内心は凄く頑固だ。しかし、彼の頑固さは自分が正しいと判断した事に対してである。そして、その“正しい”の精度が高く、そして俺にない彼の欠点(?)で強引に実行し、成功するのだ。彼の強引さと実行力に俺は魅力を感じる。さて、彼を誉めながら“いびる”のは止めて、彼が深刻な顔で語ったある事件(事故?)からの生還を忠実(?)に再現し、俺の想像も加えて、その事件からの生還物語を書いた。

事件;三陸の荒波で鍛えた俺(N氏)、泳ぎには自身がある(?あった)。サンパウロから約100㎞のアチバイアの俺の農園に、時々、孫達が “じいちゃん“を訪ねてきてくれる。とにかく可愛い~、来るといつもプールで遊んでやる。”じいちゃん“の年寄りのイメージを破って強い男として孫に接した(接していた)、今回も孫が来る事を予め知った俺はプールを掃除して水を満たし、孫たち一行を迎えた。おぉー、チョッと見ないうちに、また大きくなったもんだ。今日はプール日和、孫達は挨拶もそこそこにプールに飛び込んだ。よっしゃ!俺も負けずに早速パンツに替えてプールに飛び込んだ。このプールは農園の建設に長年付き合ってきたブラジル人に作らせた。

奴は、プール作りは初めてであったが、なんでもこなす優れ者だ。俺はプールの広さの決定には実際に地面に線を引いて詳しく伝え、深さは口頭で伝え、物理的に示さなかった。プールの工事が大分進んだ頃、会長を務める県人会の件で4週間ほど訪日があった。帰った時には底の工事の大半が終わって、タイル張りが終わるところであった。それから3ヵ月後素晴らしいプールが完成し、知人達を呼んで盛大なイナグラソン(プール開き)をして祝った。ただ一つの失敗があった。それは、プールの深さがオリンピック・プールじゃあるまいし、2メートル以上の場所がかなりの範囲占めているのだ。まぁー、泳ぎの達人には関係ない。これでいい・・・。

これが、後で、俺の命取りになるとは思いもよらなかった。飛び込んだ俺は孫達を驚かそうと潜ったまま孫達に近づいた。さーっと水面に顔を出そうとした時、何かが圧し(のし)かかってきた(彼の話では”絡んできた“)、孫達である。呼吸のタイミングを外して水を大量に飲み、息苦しくなって、慌てふためき、それで、又水を飲んで慌てた。俺にふざけて圧しあがってくる孫達の笑い声がまるで地獄の鬼が笑っているような・・・。その声が遠のいた。その後の記憶はない・・・。俺が助かったのは溺死体としてプールの水面にうつ伏せに浮かんだ俺にふさけて跨った孫が俺の反応に異変を感じ、それから30分後、俺の身体は病院の死体置き場にあった。・・・。

それから、3時間、息子達は葬儀の手続き等で忙しく、俺(死体)は白い布を被せられ安置所に放置されていた。・・・。一人の看護師が俺(死体)の横を通った。そのオカマ気味の看護師「(まぁー。立派なモノだわ)」と俺のモノを布の上から触った。オカマ気味の看護師「(あれ?この男のモノ、死体になっても、ピンピンしてるわ?)」、又、モノを掴んで「(温かい、温かいじゃないの!、?!!、これ生きてるわよ!)」、こうして、間一髪でオカマさんに俺は救われた。俺(広橋)は思った。死んでもモノをピンピンさせて生還した日本男児の魂、立派なモノだ・・・。さすがN氏だ。
   

29,モーテル:

バイシャーダ・サンチスタ(海抜が低い土地のサントス地域)の“グアルジャ市”でブラジル腎臓学会主催の学術会議が開かれる事になった。仕事上、俺も参加する事にした。他州の商売仲間の者が参加を希望していた、名前はロベ
ルト(当時55歳)、俺(当時53歳)である。俺はサンベルナルド・ド・カンポ市(海抜1000m前後)に住んでいる。海岸山脈(1000m前後)を下りサントス市のフェリーボートで1000m位の対岸に渡れば“グアルジャ”である。非常に近い、それでロベルトとコンビネーションして前日の夕方サンパウロの国内線専用のコンゴニアス空港で迎え、夜はサントスに近い俺が住んでるサンベルナルドで一泊し、朝早くグアルジャに降りる事にした。飛行場から20㎞のサンベルナルドで軽い夕食をして、ホテルを探した。ビヤジャンテ(営業マンの昔風の呼び名)用のホテル、三ツ星のホテル(サンベルナルド市の上級ホテル)は、何所も満員であった。困ってしまった。

サンパウロまで戻って、ホテルを探す事にしようか、と、思案している時、前方にピンクのネオンが誘惑するようにピッカピカ輝いていた。俺「(ロベルト、今晩はあのモーテルに泊まってくれ。俺の家には近いし、明日早くグアルジャ“に行かなくてはならないし、たった一日だけだからいいだろう)」、ロベルト「(しょうがない。そうするか)」、二人は軽―い気持ちでそう決めた。

もう薄暗くなっていた。丸いガラス窓の受付で俺「(ホテルが空いてなくて困ってるから)」彼だけが泊まる事を強調して、指定された69号室に向かった。俺「(明日、AM07:15きっかりに迎えに来る)」と約束して家に帰った。翌朝、07:15モーテル入った。友人が1人で泊まっている事を昨夜とは違う受付の女に伝えると乗り入れを許可してくれた。69号室に直行すると、ロベルトは中型のスーツケースを提げて69号室の前で待っていた。おれの車が完全に止まらない前にドアーを開けて乗り込んで来た。さて、目指すはグアルジャだ。右左に曲がりくねった路地を通ってモーテルの出口に向かっていると、掃除の女性(おばさん)がネクタイをした男が二人乗っている車を見て”信じられない“光景だ”と目を丸くして、掃除を止めて、ホースの水を垂れ流しして、通り過ぎるのを見守った。

俺達同時に「プッシャビーダ(なんてこった)」、ロベルトがサングラスを出してかけた瞬間、出勤と思われる3人のおばさんが雑談しながら前から来た。俺達を見た瞬間、雑談を止め、立ち止まり、俺達をまじまじと見て、頭を振って信じられないと、態度で示した。ロベルトはフロントパネルに両手をついて硬直し、俺は向かう方向から視線を外さずにおばさん達を無視した。やっと出口の窓口に着き、担保にされていたロベルトの身分証明書を受け取り、やっと屈辱感から解放された!と、出口の自動扉が早く開くのを待った。自動扉が完全に開いた瞬間、俺達の前には渋滞の車がズラッと止まっていた。車の中の運転手は全員俺達をみていた。その瞬間カルチャーショックじゃなく、・・・ショックに襲われた。その後の事は読者の想像にまかせる。   愚か者、笑い者、日本人の恥さらし、
   

30.日本選抜バレーボールチーム来伯:

   
1983年頃、電話関係の会社にスカウトされミナス・ゼライス州の州都のベロ・オリゾンテ市に住んでいた。アパートの最上階のコベルツーラを買って優雅(?)に暮らしていた。一年目は設計技術者として雇われ、2年目に生産部門のディレクター(俺は部長クラスと思って軽く受け入れた。後でファイナンス関係のディレクターに仲間として挨拶されて、この重荷を知って辞退したが遅かった)に抜擢され4年間務めた。あの頃は元気な俺であった。(二人のオーナーの奥さん同士の問題が起き、俺と同年配であった二人と友人として付き合いだった為にどちらにも付かず俺は退職した。それに、家内の事情と子供達の教育の事情でサンパウロに戻る事にした。後に、一人のオーナーはベロ・オリゾンテの市長を二期務めた) ベロ・オリゾンテに住んでいた頃、日本選抜バレーボールチームが親善試合に来た。

俺は早速ほうきの棒に小さな日章旗を作って括り付け、2万人収容できる大きな室内競技場(ミネリーニョ)に行った。満員であった。用心棒として勤めていた会社の部下3人と息子2人を従えて上部観客席の片隅に陣取った。観客のザワザワが少し収まった時、日本選抜チームがストレッチの為にコートに入ってきた。2万の観衆が一斉にブーイングを始めた。遠い日本から親善試合に来てくれたと云うのに、なんてお出迎えだ。畜生! 俺はない勇気を振り絞って持ってきたちゃちな日章旗を高く振り上げた。

そると、騒ぎが起きた!日本選抜に送ったブーイングどころではない!2万人の観客が立ち上がり、俺に向かって怒鳴り始めたその怒鳴りが共振して、やがて、合唱になり、“フィーリョ・ダ・プータ”、“フィーリョダ。プータ”、“フィーリョ・ダ・プータ”と最低の下品なシンガメント(罵倒)のブーイングになった。ところがである、そのリズムに拍手が加わり始め、やがて、リズムを失って拍手に替わったのだ。その拍手は人を称える拍手に替わったのだ。俺は拍手の中に“よく、この2万人の敵に向かって一人で立ち向かってきたな、この野郎!敵としてあっぱれだ”と云う観衆の暖かい心を汲み取った。俺、涙で一杯になってしまった。

家内が家で見ていたスポーツ番組に長けたTV局の放送で『(向かい上段の観客席に “カミカゼ” が現れました、・・・・・・・)』と、放送していたそうだ。その後、不思議な事が起こった。日本チームを応援に来た俺がいつの間にか心の底でブラジルチームを応援しているのだ、それに気が付いた。よし!勝った方に応援すればいい、と腹に決めてその場をしのぎ、胸のモヤモヤを消した。日伯五分五分の魂、となった俺はその後このエピソードを加え “Alma Mestica(混血の魂)”と題した本をポルトガル語で書いた。