執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
これまでにも記したが、私が飽くなくアマゾンの地を訪ねるのには理由がある。けた違いの大自然の世界が拡がっていることはその最大の理由かもしれない。他にもいくつかアマゾンに惹かれる理由がある。アマゾン特有の、熱帯フルーツ味わうことができるのも、果実食( frutívoro )の自分としては黙過できない理由だ。知る人ぞ知る、私は大のマグロ[ 刺身 ]好きである。マグロに限ったことではなく、他の魚もそう。であるから、ほぼ毎日、独身生活の身でありながら、手間暇かけて魚を焼いたり煮たりして、食卓には絶対に欠かさない。
魚料理には目がないそんな私だから、アマゾンのロッジでこの地特有の川魚を知ると、たちまち虜になった。そして、昼食や夕食ともなると、食卓を飾る焼いたピラルク、トウクナレ、タンバキ等に舌鼓をうったものだ。アマゾンにはこれまで45回出向いているが、美味な魚料理を堪能することが目的であることも否めない事実である。地元の人に聞くと、上記の魚以外にもあまたの美味な魚が存在らしい。今年も10月にブラジルを訪ねる予定であるが、残念ながらアマゾン行きの計画は目下のところない。よちよち歩きの後期高齢者の身の私ではあるが、是非とも再来年はアマゾンの地を踏んで、白ワイン片手にタンバキかピラルク料理を存分に味わいたい。食べて旅するアマゾン周遊にお供しませんか。!
「ピラルク」
アマゾン河およびその支流では、あまたの美味な川魚がいる。ピラルク、トウクナレ、そしてタンバキはその最たる例で、その料理については先のフェースブックでも簡単に紹介した。補遺の意味で、ピラルクについて言及する。
アロワナ目アロワナ科ヘテロティス亜科に属するピラルク[学名=arapaima gigas ]は周知の通り、淡水魚としては世界最大の一つである。”アマゾンの鱈”( bacalhau de Amazônia )とも呼ばれ、その言葉はトウピ語[ピラ(pirá=魚 )+ウルクン(urucum=赤い )]からきている。”赤い”という形容詞がついているのも、尻尾の部分が赤い理由による。頭部は縦扁、体部は丸太、後部は側扁の格好をしており、アマゾン河流域のみならず、オリノコ川やギアナにも分布する。アマゾン河流域ではとくに、氾濫原であるヴァルゼア近くの澄んだ沼や河川に多くの場合、生息している。しかも、その魚は水流が穏やかで、水温24~37℃のところを好むようだ。
高温で湿度の高い熱帯ゆえに腐りやすいので、すぐさま保存用に塩漬けされる。昨今、美味なことから乱獲が進み、激減している。従って、現在は捕獲が禁じられている。2008年来、養殖計画が進められており、ツアーを通じて流域のそこかしこにピラルクの養殖場を見物できる。私達が口にできるのは大部分、養殖場で育ったものであるが、一部密漁のものもあるかもしれない。ともあれ、この魚は炊いても焼いてもよし。白ワインで食すれば、最高だ。
「トゥクナレ」
トウピ語で[”樹に似た”(tucum=樹)+(are=似た、類似した)]の謂いのトウクナレ。学名はCichala ocellaris で、キクラ属の魚である。この魚も煮てもよし、焼いてもよし、の最良質の美味しい類いのものだろう。普通、tucunaré amarelo(黄色いトウクナレ)として知られている。生息地域はアマゾンに限らず、南部を除く北東部、南東部、中西部にまで及ぶ。河川だけでなく、堰や貯水池などにも住む。肉食で小魚、エビなどを主食としている。であるから、北東部などでは、小魚が増殖するのをコントロール(調整)する意味で、トウクナレが利用されもしている。
昼行性で、獲物を狙うと、捕獲するまで執拗に追い求める性分のようだ。ともあれ、すこぶる味の良い魚の筆頭であることから、釣り人の間では垂涎の的になっているらしい。一年もトウクナレを食べてないと、夢にまで出てくる、トウクナレ狂いの私。再来年こそはアマゾンを訪ねて、思う存分食べてみたい。ブラジルに旅されるときは、皆さんも是非とも味わって戴きたい次第です。
「タンバキ」
学名Colossoma macropomum のタンバキ( tambaqui )は、既述のように、カラシン目セルラサルムス科の大型の、扁菱形をし顎の突き出た淡水魚である。パク・ヴェルメーリョ( 「赤いパク」 =Pacu-Vermelho)とも呼ばれ、その生息分布は北部アマゾン、マット・グロッソ州、ゴイアース州、サンパウロ州、パラナー州に及ぶ。河川の水の色にもよるが概して、上部は褐色、下部は黒色をしている。脱色したアルヴィーノの場合は、体の上部に黒い斑が散らばった明灰色を呈している。通常、大水の時期は冠水林に住む。が、乾季になると、若い魚はヴァルゼアの湖沼で植物性プランクトンを食する。一方、成魚は濁った河川に移動して産卵する。一般に言われるピラセーマ( 魚の集団移動=piracema )である。この産卵の時は何も食せず、洪水の時期に蓄えた脂肪で持ちこたえる。
雑食性ではあるが、栗、ナッツ類や椰子の実を好んで食べる。そのために、固いものも噛み砕く鋸歯状の強力な歯を持つ。その他、水中昆虫、小魚、カタツムリ、水生植物の葉や芽なども彼らの餌となる。私自身がそう思うように、ブラジルでも最高に美味しいカテゴリーに入る魚である。昔は45キロ級の大物もいたようであるが、今では40キロどまりのようである。
タンバキはたいそう好まれる美味な魚であるだけに、養殖も盛んに行われている。産卵や受精を促すために、ホルモン注射さえも施される。が、これが魚本体にも人間にも害を及ぼすことはないとのこと。
アフリカ大陸にある五つのポルトガル語を公用とする国の中で最も面積の広い、西海岸に位置するアンゴラ。この国の存在は、1482年から1483年にかけて探検を行った航海士ディオーゴ・カン (Diogo Cão/ Cam) によってもたらされた。アンゴラの料理 (法) の大部分は、トウモロコシもしくはキャッサバの粉 (fuba) で作った一種のピューレと、魚介類、若鶏がベースとなっている。味付け (調味) はデンデー油 (azeite de dendê) とピーナツ油であるジングーバ (jinguba) でなされる。
この国ではさまざまな野菜や植物が食用となるが、その主たるものは豆、カボチャ、キャッサバの葉である。その他に、サツマイモ、オクラ (quiabo)、ジンボア (jimboa = erva [雑草] の一種)、トマト、スベリヒユ (beldroeiga) の葉などが食材となる。こと野菜に関して重用されるのは、オクラ、双方ともかぼちゃの一種であるディタンガ (ditanga) とディニュンゴ (dinhungo) であろう。
貧困層の間では、玉ねぎやニンニクがない時は、マンジェリカン (メボウキ = シソ科の総称)、ゴイアベイラ (バンジロウ) などの葉がその代用となる。首都のルアンダでは、いくつかのご馳走にありつける。猟の獲物を干し肉にしたものや川魚を干したものなどは、その典型。
アフリカの地域のなかでアンゴラは、それが新世界、なかんずくブラジルの料理法もしくは食文化に多大の影響を及ぼした点で、特筆すべきである。コンゴ・アンゴラ地域の奴隷たちが、カルルー (caruru)、ヴァタパー (vatapá) などの伝統料理や、香辛料の胡椒の一種ジンドゥンゴ (jindungo = pimenta-malagueta [マラゲタ胡椒]) をもたらした意味において。
このように、アンゴラ諸地域の民族は食文化や料理法のみならず、ブラジルの社会習慣、宗教、文化全般に亘って多大の貢献をしている。モレッキ (moleque)、サンバ (samba) といったアフリカ言語もそうである。してみると、アンゴラは、「ブラジルの母」と言えなくもない。
4033㎢の面積を持つカーボ・ヴェルデ (Cabo Verde) は、セネガル海岸から500キロの大西洋に浮かぶ大小10の火山性の群島からなる国である。人口47万3000人 (*2004年現在) で、公用語はもちろんポルトガル語であるが、同時にクレオール語も話されている。人種構成からみても従って、クレオールが71%を占め、他は土着の民族集団28%、イベリア系民族1%といった具合。特筆すべきは、ポルトガル系アフリカにおいて最初の中学校がカーボ・ヴェルデに創設されたことだろう。
15世紀にポルトガル人が到来するまでは無人の島で、彼らはアフリカ西海岸から群島に奴隷を導入することに努めた。その奴隷となったアフリカ人たちは熱帯の産物や農業についての知識があった。このことが、この地の食文化に大なり小なり影響を与えた。ポルトガルはヨーロッパ、アジア、南北アメリカから、トウモロコシ、砂糖キビ、マンディオカのごとき農産物や、牛、豚、山羊などの家畜をカーボ・ヴェルデに持ち込んだ。
カーボ・ヴェルデが一方で、アフリカ奴隷を新世界に運搬する寄港地であったので、ポルトガルのみならずスペイン、英国、フランス、オランダの奴隷船が立ち寄っていた。そして、乗組員ばかりか奴隷の食料の補給をおこなったのである。因みに、奴隷の食料は、トウモロコシの粉を基調に肉もしくは魚、トウシーニョ (toucinho = 皮付き豚の脂身)、豆、野菜などで作ったカシュッパ (cachupa = catchupa)、であったという。この料理はカーボ・ヴェルデの伝統料理というか国民食であるが、奴隷のそれはずいぶん貧相なものだったらしい。いずれにせよ、カーボ・ヴェルデの料理法は、混成文化の特徴を色濃く反映している。
[はじめに]
799.380㎢の拡がりを持つ熱帯気候のモザンビーク共和国。この国はアフリカ東岸のインド洋に面している。2650万の人口構成の中で46.2%はマクア族 (macuas)、53%が三つの部族、すなわちツォンガ族 (tsongas)、マラヴィ族 (malavis) およびショーナ族 (chonas)、そして残る0.8%が他の部族によって占められている。公用語はポルトガル語であるが、ロンガ語 (Idioma ronga)、シャンガン語 (Idioma changã)、ムショペ語 (Idioma muchope) のような主だった地域言語が存在する。[*2021年の最新のデータに更新済]
旧石器時代から住民が住みつき、アラブなど他の文明との接触もあったようだ。1498年に航海士ヴァスコ・ダ・ガマ (Vasco da Gama) がこの地に到来、16世紀になってポルトガルがほぼ500年にも亘って実効支配する。1951年、モザンビークはこの国の海外領土となる。1950年代に民族主義運動が台頭し、指導者エドゥアルド・モンドゥラーネ (Eduardo Mondlane:1920-1969) の下、1962年には「モザンビーク解放戦線」(Frente de Libertação de Moçambique:FRELIMO) が設立され、1964年にはポルトガル人に対するゲリラ闘争が始まる。1969年にモンドゥラーネが暗殺され、その後をサモーラ・マーシェル (Samora Machel:1933-1986) が継承する。
そして、1975年には独立を勝ち取り、マーシェルをリーダーとする共産主義政権が誕生する。が、1970年代は、南アフリカ共和国の支持を得た反共産主義勢力である「モザンビーク民族抵抗」(Resistência Nacional Moçambicana:RENAMO) によるゲリラ戦が展開する。1980年代には、旱魃と市民戦争が大規模な飢餓の要因となった。1986年にマーシェルが亡くなり、続く政権担当者のジョアキン・アルベルト・シサノ (Joaquim Alberto Chissano:1939-) は、土地の私有を再び認めた。
[モザンビークの食文化]
この国を訪ねた人たちのアンケートによれば、モザンビークで最も良いものはアフロ・ポルトガル・アジア料理なのだそうだ。事実、モザンビークの料理法は土着のもの、インドーわけてもゴア出自のもの―、そしてポルトガル的なもののない混ぜに特徴がある。従って、そうした諸文化による国際性はガストロノミーにも如実に反映している。モザンビークの典型的な料理は結果として、アフリカとゴアとポルトガルの影響を受けた、それらのコンビネーションの料理ということになる。
この国には伝統的な飲み物もあり、それぞれの地域にお気に入りのものが見出せる。最も一般的なものは砂糖キビ、マンゴー、マンディオカ、カシューナッツ、カニュー (canhu:ウルシ科の植物canhueiroの実)、あるいはココナッツミルクなどで作ったものであろう。魚介類をふんだんに使った料理は、モザンビークならではのものである。この国の沿岸で獲れる海老、イセエビ、イカ、カニ、ザルガイ、それにさまざまな魚は、いろいろな方法で料理されるが、最も良いのはやはり炭火で焼いたものかもしれない。よく用いられる油は、オリーブ、ピーナッツ、ヒマワリのそれである。
モザンビークには実に多くの種類の豆があり、伝統料理には欠かさず使われる。一方、料理に用いる調理具のなかにはこの国独特の民族性を感じさせるものがある。こうした食文化がバントゥー系の人々によってブラジルの地においてどのように継承されているか、興味が尽きない。
アフリカ西海岸のガボンから200キロの地点の、ギニア湾に位置する列島の国サン・トメー・イ・プリーンシペ (São Tomé e Príncipe、外務省の綴りではサントメ・プリンシペ)。1472年に発見され、1485年にポルトガル人、マデイラ人、そして少数のヨーロッパ人などが、種々の農業、わけてもサトウキビ栽培を試みるために入植し始めた。旧ポルトガル植民地であったこともあり、ポルトガル語を話す国々の共同体の一員である。国民の4分の1が首都サン・トメー (São Tomé) に住んでいる。
国土は国名の由来となる2つの主要な島と、2つの小島からなる。そして、ほぼ赤道近くにあることから熱帯雨林に覆われ、山の多い起伏と、”死”火山の列島に特徴がある。が、それらの一部は海岸線は急斜面や湾でリアス式を呈している。この国の経済の根幹は、1820年にポルトガル人が導入したカカオとコーヒーの生産であるが、発見されたばかりの石油の採掘も始まっている。ことにカカオの場合、今や世界の主要な生産国となった。そうしたプランテーションの労働力として、特にアンゴラの奴隷が使用されたようだ。しかも、奴隷制度が禁じられた後も、ポルトガルの植民地主義によって流布した一種の強制労働、すなわち契約システムの下に、この国にはアンゴラやモサンビークから耕作人が導入され続けたのである。
因みに国土の面積は964平方キロメートルで、人口は15万4千人程度 [*2019年時点では面積1,001平方キロメートル、人口21.5万人]。人種構成では95%がアフリカ人で、4%がヨーロッパ系アフリカ人、残りの1%がポルトガル人などである。統計上ポルトガル人はほとんどいないが、公用語は旧宗主国の言葉を受け継いでいる。ポルトガル語以外に、いくつかの地域言語も存在する。
ところで、肝心のこの国の主たる食料は、米、サツマイモ、トウモロコシである。米はただ単に炊いたかたちあるいはスープにした肉と一緒に食される。サツマイモも蒸かしたりピューレのかたちが一般的。トウモロコシの場合、キャッサバ粥のようにしたり、ミキサーにかけて液状にしながらデザートにされる。大西洋に囲まれていることから、日本人同様にサン・トメー・イ・プリーンシペの国民も魚色民族である。彼らは、ハタ (garoupa)、ニベ (corvina) といった魚および燻製にした魚を良く食べる。貝類やタコ、エビ、カニなどもしかり。肉では豚と鶏が、果実ではパパイアとバナナが嗜好される。ブラジルの食文化との関連では、あまりこの国の影響は認められない。
アマゾンでは決まって私は、カボクロの集落を訪ねている。そこに住む人たちのどの家 [一般には、冠水を避けるために高床式の家の構造] にも、椰子の葉で葺いた小屋にはマンディオカの粉を炒る乾燥鍋や製粉所のごときものがある。そして軒先には、植え付けのために束ねたマンディオカ (キャッサバともタロイモとも) が立てかけてある。
マンディオカは種類、地域によっても名称が異なる。概して、シアン系の猛毒を有するものは、マンディオカ・ブラヴァ (mandioca brava) の名を持つ。おろし器でおろした後、すのこでさらし、デンプン質だけを乾燥させるために焼いて熱を加える。すると、毒性もとれる。無毒のマンディオカは「マンディオカ・マンサ/ ドセ」(mandioca mansa/ doce) ともマカシェイラ (macaxeira) とも呼ばれる。毒性のあるマンディオカが粉 (farinha) 用に対して、毒の無いのは他の料理に用いられる。そもそもマンディオカは、ウアイピ (uaipi)、アイピン (aipim)、マニーヴァ (maniva) などと同義で、トゥピー語起源の言葉である。
このマンディオカを巡っては、インディオの間で言い伝えがある。族長の娘が処女懐胎して、マニ (Mani) なる女の子が生まれる。が、むなしくもその子は生まれて早々、落命する。しかし、死後一年経つと茅屋 (oca) から木が生えて成長し、その根っこは食料に供されるようになったという。
マンディオカはインディオにとって貴重な食料であるばかりか、いまやブラジルの日常の料理の中にも欠かせないものになっている。わけても、≪森林地帯≫ (Zona da Mata) に位置する北東部地域においては、日常食のベースとなっていた。
1973年から1989年にかけて、ブラジル政府が小麦栽培を奨励したこともあって、1970年以降、マンディオカの消費は伸び悩んではいるものの、依然、アマゾンのみならず他地域の農村部では、料理には必定なものである。
ブラジルの住民が好むピラン (pirão) [キャッサバの粥]、ペー・デ・モレッキ (pé-de-moleque) [キャッサバで作ったケーキ]、タピオカ (tapioca) [ココナッツ入りの菓子]、パソッカ (paçoca) [キャッサバの粉を用いた肉料理] などは、マンディオカを使ったものの一例であろう。
ところで、300kgのマンディオカ粉を取るのに、1トンのマンディオカが必要とされる。加えて、食材となるまでにはおよそ12時間におよぶ製造過程を経なければならない。しかしながら、米よりもカロリーが高く、ビタミンAおよびCが豊富で、とくに後者はレモン以上の含有量だそうだ。10~15cmほどに切ったそのマンディオカの茎を植えるだけで、一年を通して収穫できる。痩せた土壌でも繁殖し、乾燥や病気にも強い。ただ問題なのは、植えつけて6~8ヶ月の間は、二十度以上の気温が必要であることだ。これといった技術もいらず、低い生産コストで収穫できるので、貧しい人たちにとってはこの上ない食料となる。三度の食事ごとに摂る彼らは、通常5人家族の場合、一ヶ月に20kgを消費するという。そのために、一人当たり400平方メートルの栽培面積が要るとのことである。
が、ほとんど労力なくして手に入るマンディオカは、穀物が確実に不足すると予測される将来、究極の食料資源として注目されることになるであろう。ブラジルは食料資源の宝庫である。この国との関係において日本は、食料資源確保の立場から、一刻も早い戦略的パートナーになることが求められている。が、日本の外交は常に欧米のみに視線を向け、世界最大の日系社会が存する意味からも親日的なブラジルに対し、無関心の態度をとり続けているのが実情だ。国家の運命を舵取るといっても過言でない日本の政治家や外交官の方々には、そうした重要な視点がなぜ欠落しているのだろうか。マスメディアとて然りである。
欧米の事情、文化、文学等に関するものなれば、特筆大書する傾向にある。が、それがブラジルを含めた第三世界の事象なら、言及の対象にすらならない。卑近な例で恐縮だが、一昨年 (2003年)、私は日本の夏目漱石に匹敵するブラジルの文豪、マシャード・デ・アシス (Machado de Assis) の最高傑作『ドン・カズムーロ』(Dom Casmurro) を愛弟子と共に上梓したが、「論座」を除くほとんどのマスコミは、悲しいかな取りあげなかった。
個人的なこの問題は別として、今春、ブラジル研究にとって最も重要な基礎文献である、ジルベルト・フレイレ (Gilberto Freyre) の畢生の大作『大農園の邸宅と奴隷小屋』(Casa Grande e Senzala) が、東京外国語大学教授の鈴木茂氏によって翻訳・刊行された。十分に注記の施された労作で、百科全書のごとき様相を呈しており、ブラジル研究者にとっては必携の書である。にもかかわらず、このいわば画期的なブラジル案内書を、紹介したマスメディアがこれまで一社たりともあっただろうか。寡聞にして私は知らない。ことほど左様に、ジャーナリズムや出版・文化活動に身をおく人たちまでが、いたって第三世界に対しては冷淡で、この方面の文化などを紹介しようという姿勢は微塵も感じられない。日頃彼らが臆面もなく主張する多文化主義や文化相対論の考え方などは、どこへいったのやら?