執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
「ビッショ」(bicho)というポルトガル語の意味は広範で、地上の生物のうち、小はミミズから大は象、今流行の怪獣も含まれる。街で親しいブラジル人から( Como vai bicho?=やぁ、こんにちは) 」と挨拶された。「ビッショ」の意味が解せぬ。社に戻ってポ和辞典をひいて、くだんの日本商社マンは怒髪天を衝いた。「俺はシラミか!」
しかし、ブラジル俗語では親しい者同士のニ人称、別段ストレスを募らせることもない。ところで表題の宝くじのことだが、この2億450万全ブラジル庶民の血を沸かす一大夢の饗宴の仔細について筆者もきわめて不案内であり。ブラジル通の老畏友に、ダメとは思ったが一応尋ねてみた。日本では三文博打も厳禁するくせに、ギャンブルの中に天皇賞を揚げるやつもあるのは何事か?と、また碩学南方熊楠の説を持ち出して一席弁じ、この宝くじに関するブラジルの文献を貸してくれた。以下これに準ずる。
かつてリオデジャネイロのドゥルモンド男爵なる御仁が一動物園を経営しており、その運用資金の一助にビッショ宝くじを始めた。入場券に25種のビッショを各枚1種書き込んで売った。まずはだちょう、次々に鷲、ラバ、蝶、犬、牡山羊、羊、ラクダ、蛇、兎、馬、象、雄鶏、猫、鰐、ライオン、猿、豚、孔雀、七面鳥、牛、虎、熊、鹿ときておす雄牛で終わる。「豚は?」 と聞けばよどみなく「18」、「20は?」、「七面鳥」と答える。親の年など知らずともビッショの番号は脳髄のひだに刻まれているらしい。
ビッショの絵入り入場券を買ったとて、動物園に入りオカメインコとにらめっこしたり、カバの口にパン屑を放り込んだりして抽選の時間を待つことはない。家の神棚に入場券を安置して、どうぞこの袋の中の券に今日の当たりくじのビッショが書いてありますようにと、ひたすら祈願してもかまわない。ただ、うちにいては抽選の定刻になっても、その日の当たりくじのビッショが動物園の掲示板に張り出されるのが見えぬだけである。神様はお忙しくて人間の賭事などにかまってはおれまい。どこにいようと、掲示板の絵を確認し、自分が持っている券が同じ絵だと、入場料金の20倍の賞金が当たる。
この宝くじは、リオにとどまらず全国に拡大し、闇の大胴元支配の巨大な機構を生じた。抽選予報の新聞記事に大衆が一喜一憂するといった事態の招来を恐れて、当局のビッショ禁止令が出される始末となった。1893(明治25)年のことである。法の忠実な遵守番であるブラジル人のビッショ宝くじ対策ははたしていかに。手元の文献はもはや古文書化し、現況を知る用に立たない。この動物園の宝くじ全盛のある頃、ドゥルモンド男爵が馬に乗り町中を散歩していると、おかみさん連中が集まってきて口々に、「今日のビッショ、何が出ますの?」 。園長はにやにやしながら、「そうじゃのう、今日はわしの股っくらの間のモノでも出すか」。「まあ、いやらしい、園長さんったら!」。その日の午後の動物園の掲示板に張り出された宝くじの絵は、馬であった。
注記 ①現在のブラジルの人口は約2億1400 ②ブラジルでオカマのことをヴェアード( veado= 鹿) と言うが、それは鹿が24番目だからである。従って、24と言えば、ヴェアードを指す。
最初にブラジルを訪ねて、いきなりリオの街で惹きつけられたのが、アフロ系伝来のカポエイラと、その伴奏楽器であった。このカポエイラについては、入門書的な性格の書を近々上梓予定なので、ここではカポエイラを演武する際に不可欠な、いくつかのアフロ・ブラジル的な民族楽器について触れてみたい。
カポエイラは、2人の闘技者と彼らを半円形状に囲む伴奏者たちの囃子や音楽によって始まる。そして、手拍子、ベリンバウ、パンデイロ (pandeiro)、カシシー (caxixi) などに合わせて、時には穏やかな遊戯かダンスのような立ち振る舞いが見られるかとおもえば、スピード感あふれる手足の動きの中で、激しく格闘しながら技を競ったりする。
カポエイラの格闘の際に伴奏楽器として最もありふれているのは、ベリンバウ・デ・バリーガ (berimbau de barriga) だ。このベリンバウには変種もある。口を共鳴箱に使ったベリンバウ・デ・ベイソ (berimbau de beiço) がそうである。が、この楽器は今ではあまり見かけられない。ディアスポラ (強制離散) の憂き目に遭ったアフリカ系のある民族はすでに鉄の使用を知っていたので、アフロ・ブラジル系の楽器には鉄を使用したものが少なくない。アゴゴー (agogô:打楽器の一種)、長い鈴のアディジャー (adjá) などは、その典型である。それにしても、木製の弓に針金の弦と、共鳴箱の機能を果すひさごを半分にしたものが付いたベリンバウは、なかなか演奏が容易ではないように思う。コインか石などで音の高低長短を調節しながら、木製の細棒で弦をたたくように弾く。私にとってそれは、神業以外の何ものでもない。
カポエイラを演舞する男衆
ブラジルを最初に訪れて驚いたことの一つは、擬態語、擬声語が日本語のそれと大きく異なることであった。猫や犬、鶏の鳴き声もそれ故か、早速覚えたものである。さて、毎日曜日に席題を提示する、Grêmio Haicai Veredas を主宰するジョゼー・セヴェリーノ氏が今回は趣向を変えて、春の風物詩とも言えるものを3つに絞ってオノマトペ的な表現から捉えようとして、すこぶる興味深い。
[Sons onomatopaicos e reprodutores de eventos naturais típicos de um ambiente primaveril]
① 岡の裂け目から激しく流れる音 → shuóooo 〔ザアーッ、シャー〕
② 古い家の屋根から受け皿に落ちる雨漏りの音 → plinc! pulinc! pulinc!
〔ポト(タ)リ! ポトリ! ポトリ! 〕
② 啄木鳥が幹をつつく音 → toc, toc, toc 〔コツ、コツ、コツ〕
3つのオノマトペを見る限り、日本語のそれと捉え方に懸隔がある。
冬至にカボチャを食べると風邪をひかない、とまことしやかに言われている。そのカボチャが好きでない訳ではないが(Não que eu não goste da abóbora,)、あまり食べない (mas como um pouco)。それだからではないはずだが、冬の時期になるとしばしば風邪を患う私である。
本日付け (2021年11月9日) の『読売新聞』編集手帳では、そのカボチャに触れている。カボチャの発音がアジアのカンボジアのように聞こえることから、カンボジア産の野菜と思われがちであるが、れっきとしたメキシコ原産と言われる。日本には、天文年間の16世紀に漂着したポルトガル船によって豊後にもたらされたようである。
従って、カボチャの呼称は南京(なんきん)、唐茄子(とうなす)など色々あるが、私が育った熊本では、カボチャとほぼ同じ頻度で「ボウブラ」と呼んでいた。この名称は紛れもなくポルトガル語のアボーボラ (abóbora) から来た言葉である。世界の今のカボチャの一大生産地はインド、中国、アフリカのようだ。少年時代まで過ごした阿蘇の自宅の菜園には、夏ともなると、そこかしこに黄色い花から結実したボウブラがあった。が、私の関心はそのボウブラではなく、黄色の花に惹かれて蜜を吸う蜂であったように思う。
コーヒーを欧米人が飲み始めたのは、ブラジル「発見」後、200年を経てからである。豆という意味の「ロバン」の名で日本人に紹介されたのも、ほぼ同時期。オランダ人が「コッヒ」と呼んで持ち込んだ。西インド諸島のマルティニークという仏領の島の総督に若いガブリエル・ド・クリューが新任された。1722年のこと。はるかなる将来の展望から彼は考えた。アフリカの灼熱に耐えて育たぬ道理はない。一本のコーヒーの幼苗を手に入れ、マルセイユを出発。風が頼りのちっぽけな帆船で2ヶ月の長い航海。一滴の水は血の一滴。食事配給の一口に満たぬ水を苗にかけて湿らせ、いたわり続け、ついにマルティニーク島の大地にたどりつかせた。この一本のコーヒーの苗はやがてこの島を大きく富ませた。が、彼自身はついに富むことなく、後、窮死した。
ブラジル×フランス領ギアナ国境問題処理のため、ギアナの首都カイエンヌの仏総督邸を訪れたブラジル陸軍の若い将校パリェッタは、夫人からすすめられた一杯の飲み物の味に驚いた。名を聞けばコーヒー。ブラジルの皆にこんな素晴らしいものを飲ませられたらなあ! ―やがて総督夫婦は彼を伴い国営コーヒー園に赴いた。折しも収穫期、一望のコーヒー樹海は紅玉の実の炎。茫然として深いため息をつく若者の上衣のポケットにそっと、夫人はいく粒かの実を忍ばせた。国外持ち出しは厳しい国禁。夫の総督は素知らぬ顔で樹海の涯に目を投じていた。1722年のこと。ブラジル人が誇言するO Brasil é o café ! (ブラジルはコーヒー!) の最初の種であった。