連載エッセイ130:桜井悌司 「好奇心の勧め」その1 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ130:桜井悌司 「好奇心の勧め」その1


連載エッセイ127

好奇心の勧め その1

執筆者:桜井悌司(ラテンアメリカ協会常務理事)

世界の平均寿命を調べてみると興味深いことがわかる。2021年のWHOの調査によれば、男女平均で日本は堂々1位、84.4歳、4位はスペインで83.2歳、7位がイタリア83.0歳となっている。ラテンの国スペインやイタリアも大いに健闘していることがわかる。私は常々主張しているのだが、ラテンの人々は、「人生を楽しむために長生きする」のに対し、日本人は、「長生きするために長生きする」という気がしてならない。スペイン人やイタリア人がどのようにして高齢化人生を楽しんでいるのかを見ていると、次の6つのキーワードが出て来る。①楽観主義に徹すること、②好奇心旺盛であること、③家族の大切さ、④友人の大切さ、⑤愛の大切さ、⑥ボランテイア精神を持つこと である。

 日本人にとって、楽観主義に徹するのはなかなか難しいが、好奇心旺盛は心がけ次第で可能である。2021年のノーベル物理学賞は真鍋淑郎博士に決定した。地球温暖化の予防に大きな貢献をされたという。彼の言葉によれば、「原動力のすべては好奇心だった」とのことである。好奇心は脳の活性化に繋がるし、人生の生きがいにもなる、知識量の増加にも繋がるし、老若男女の友人作りや孤独からの解放にも役立つ。また1つの知識・体験から他の知識・体験と点から点に繋がることもあるし、それが線になり、面になることもある。ここでは、私の個人的な経験についての7つのエピソードを紹介させていただき、人生を豊かにし、楽しみに繋がったささやかな例についてお伝えしたい。

1) INRIとは

1968年7月から69年7月まで、勤務先のジェトロからスペイン研修を命ぜられた。勉強の合間に、よくプラド美術館に出かけた。宗教画が多いのだが、キリストの磔刑の場面で十字架の上にINRIと書かれた小さな看板に興味を持った。今だとコンピュータやスマートフォンなどで簡単に調べられるが、その当時は、そのような便利なものは無く、人に聞いたり、図書館で調べなければならなかった。要は、「ナザレのイエス、ユダヤの王」のラテン語の頭文字であるが、苦労して調べたこともあり、しっかり覚えていた。その後、1974年から77年まで、メキシコ駐在となった。ある時、日本から要人のグループをメキシコの美術館を案内した。その時、ある要人が「あのINRIというのはどういう意味ですか」と私に聞いて来たのだ。そこで昔、マドリードで調べたことを紹介すると、いたく喜ばれ、「よく勉強していますね」と褒められたのである。自分の好奇心から調べたのであって、特に褒めてもらうために覚えた訳ではないのだが、結果として喜んでいただけたのは良い思い出であった。

2)レオナルド・ダ・ヴィンチの話

チリのサンティアゴに1984年12月から89年6月まで4年半駐在した。ある時、サンティアゴの国立美術館で「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」が開催された、レオナルドの絵画やデッサン、発明したものの模型等相当大規模な展示会であった。家族そろって見に出かけた。もちろん、当時でもレオナルドがルネッサンスの万能の天才であり、ルーブル美術館にある「モナリザ」も見たことがあったので、ある程度の知識はあった。その後、1996年5月から99年9月までイタリアのミラノに駐在となった。ミラノにはかの有名なレオナルドの「最後の晩餐」がサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ寺院内にあるし、レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術館と呼ばれる堂々たる博物館があり、レオナルドのデッサンや実物模型がたくさん展示されている。またトスカナ州には、レオナルドが生まれたヴィンチ村がある。好奇心に駆られて、出張の合間にヴィンチ村に出かけた。その後、家族旅行に出かけた際にも家族にも見せようともう一度出かけた。ヴィンチ村には、レオナルドが住んでいた家が残されており、感無量であった。また、村には小規模ではあるが、レオナルド博物館があり、かなりの実物模型が展示されていた。帰国後、「ダヴィンチになる」という本を読みさらに興味が深まった。こうして、サンテイアゴでの展示会のおかげで、万能天才のレオナルドを身近に感じられるようになった。

3)オペラにはまった話 サンティアゴ→セビリャ→ミラノ→サンパウロ

社会人になってからはまったものが2つある。1つはサッカーであり、もう一つはオペラである。サッカーについては別の機会に執筆したので、ここでは、オペラについて書いてみる。オペラを初めて鑑賞したのは、チリのサンティアゴ駐在時代(1984年~89年)であった。駐在後半になって、遅ればせながらオペラがテアトロ・ムニシパル(市立劇場)で上演されていることを知り、家内と一緒に鑑賞した。出し物は、人気の「トスカ」であった。当時は、何が何だかわからない感じだったが、後でプログラムを見ると、イタリアの有名なソプラノ歌手のミレーニ・フレニがトスカ役を演じていた。欧州のオペラ・シーズンは通常12月から5月頃までである。シーズンオフになると季節が反対となる南米にスター歌手もやって来る。その点、闘牛とよく似ている。翌年の1988年は、5回分のシーズン・チケットを購入し、家内と一緒に出かけた。その年の演目は、「ファルスタッフ」「メフィストフェレス」「フィガロの結婚」「ローエングリン」、「トロバトーレ」であった。チリもヨーロッパの文化的影響で毎回満席であった。最初は、途中で眠くなりウトウトすることもあったが、少しずつオペラの素晴らしさがわかるようになり、オペラも魅力に徐々にとりつかれていった。

その後、1992年に、コロンブスのアメリカ大陸到達を記念してスペインのセビリャで、万国博覧会が開催された。万博に関連して、数多くのオペラ、テアトロ、シンフォニー等が上演され、そこで8回のオペラを鑑賞することができた。スペインのスーパー・テノール歌手のプラシド・ドミンゴが万博の音楽監督をしていたこともあり、出演者も豪華キャストであった。アルフレッド・クラウス主演による「リゴレット」、「ファボリ―タ」、プラシド・ドミンゴとマリア・ユーイン主演の「トスカ」、ホセ・カレーラスとテレサ・ベルガンサ主演の「カルメン」、プラシド・ドミンゴ主演の「仮面舞踏会」、「山猫」、その他メトロポリタン歌劇場の「椿姫」(ラ・トラビアータ)、ドレスデン歌劇場の「さまよえるオランダ人」等々である。それらのオペラの料金は1万円くらいであった。まさに至福の期間であった。1991年には、セビリャで新しいオペラ劇場である「マエストランサ劇場」がオープンになり、こけら落し興業で、「GALA LIRICA」と呼ばれる公演が行われた。この公演にはソフィア王妃も臨席され、スペインの誇るオペラ歌手であるプラシド・ドミンゴ、ホセ・カレラス、アルフレド・クラウス、フアン・ポンス、ハイメ・アラガル、モンセラ・カバジェ、テレサ・ベルがンサ、ピラール・ローレンガルなどそうそうたる出演者であった。この時期、たまたまセビリャに出張しており、博覧会公社に立ち寄ったところ、日ごろの人脈形成努力が功を奏し、博覧会公社の出展課長からチケットを無料で入手した。この公演のCDは今でも大切に持っている。

万博の会期が始まるとオペラの魅力を自分だけで独占するのはどうかと思い、日本館の事務局員やアテンダントも鑑賞できるように、博覧会公社から簡単に予約できるルートを作った。最初の公演であった「カルメン」の時には、30枚(1枚10,000円)を入手し、事務局員やアテンダントに配布し、大いに喜んでもらった。この時代には、オペラ以外にリサイタルが行われ、上記の有名歌手の出演するリサイタルが数多く行われたのでチャンスを見逃さないようにした。

 ミラノ駐在時(1996年~99年)は、スカラ座に通い詰めた感があった。当初、なかなかうまくチケットが取れなかったが、自分の都合ではなく、劇場の空き具合に私の都合を合わせればよいということに気づいた後は、比較的苦労せず入手できるようになった。後半は、取引銀行のカリプロ銀行を通じて予約できるようになり、ほぼ問題なく入手できるようになった。スカラ座のみならず、ベローナの円形劇場、ロンドン、パリ、ブダペスト等を含め、32回鑑賞できたことはラッキーであった。演目もイタリア、フランス、ドイツオペラとバラエテイに富んでいた。当時、スカラ座の常任指揮者は、イタリアの誇る名指揮者のリッカルド‣ムーティであった。スカラ座では1回の平土間席(プラテア)の値段は、当時27万リラ(約2万円)であった。ミラノでは、オペラ以外にもソプラノやテノールのリサイタルがかなり頻繁に行われた。抜かりなく鑑賞した。

 サンパウロでは、オペラ公演が少ないこともあって、なかなか機会がなかったが、それでも公演があれば、必ず出かけることにした。3回、見る機会があった。場所は、テアトロ・ムニシパル(市民劇場)で演目は、「ドン・カルロ」、「ローエングリン」、「ジョアンとマリア」でいずれも2004年に鑑賞したものである。2005年、2006年にはオペラ公演がなかったようであった。しかしミュージカルは問題なく見られた。

帰国後、日本でも東京の上野の東京文化会館で、「ドンジョバンニ」と「こうもり」、出張時にスカラ座で「ELEGIR D’AMORE」(愛の妙薬)、2008年から大学の関係で、大阪に行くことになり、フェスチバル・ホールで「カルメン」と「シンデレラ」の2本を鑑賞することができた。オペラの良さは、歌唱力もさることながら、オーケストラが伴奏することである。オペラに親しむことによって人生が豊かになった。現在は、オペラのバカバカしい価格についていけず、静かにしている今日この頃である。       

4)サンテイアゴ・デ・コンポステラ巡礼に挑戦

 
1989年から93年まで、4年間にわたり、セビリャ万国博覧会の仕事に従事した。セビリャ万博はコロンブスのアメリカ大陸到達500年を記念したもので、1992年4月20日から、コロンブスが大陸に到着した10月20日まで、6か月間開催された。オープンと同時に人気館を次々と見学した。その中で、スペイン館は人気館だったので、早速優先入場で見学した。スペインの著名な画家であるエル・グレコ、ベラスケス、スルバラン、ムリーリョ、ゴヤの名作がこれでもかとばかり展示されていた。スペイン観光の魅力をアピールする大型画面の映像もあった。その中で強く印象に残ったのは、サンテイアゴ・デ・コンポステラ大聖堂の1シーンだった。大聖堂では、毎日曜日の正午から巡礼者のミサと儀式が行われる。その際にBotafumeiro(巨大振り香炉)が8名の赤いロープを着た男性によって、ロープを引っ張り徐々にふり幅を増していき、天井近くまで達し、ミサに参加した大衆にまで香が届くようにする儀式である。大晦日の知恩院の除夜の鐘を思い出させる。あまりの迫力に圧倒され、いつの日かサンテイアゴ巡礼に行こうと固く誓った。

 時はたち、2008年から2015年まで大阪府枚方市にある関西外国語大学で教鞭をとっていた。最後の年の2014年に、サンテイアゴ行きを決めた。一人では何かと面白くないので、仲間を誘ったところ、図書館職員のF氏とキャリアセンターのN氏が一緒に行きたいという。その後2人がこの話を仲間に話したところ、最終的に60代男性3名、60代女性2名、50代女性1名、20代女性2名の合計8名の大グループになった。みんな多忙な人ばかりなので、サリアと言う町から約120キロを5日間で歩くことにし、計画の立案、準備、宿舎の手配等を行い、2014年8月に、スペインに出かけた。途中紆余曲折はあったがチームの結束も十分で、無事5日間でサンティアゴに到着し、100キロ以上歩いた巡礼者に与えられる「巡礼証明書」も無事ゲットした。前述のミサには出席できなかったが、聖ヤコブが祀られている大聖堂にお参りし、オブラレイロ広場でみんなして巡礼達成を喜んだ。その後、全員の希望であったポルトガルのリスボンに行き、マドリードで解散した。

 巡礼を決行するにあたっては、様々な文献・書籍を読んだ。その中でブラジル人作家パオロ・コエリョによるベストセラー「星の巡礼」によって、ブラジル人の巡礼者が急増し、ラテンアメリカで圧倒的に参加者が多いという話も、実際、巡礼に参加して多くのブラジル人に出会ったことで確認できた。また夢は持ち続ければ適うこともあることがわかった。今はコロナで会う機会はないが、コロナ前には毎年、枚方で巡礼仲間の同窓会を開催し、楽しかった巡礼の旅について語り合うことを常としている。

 その時の旅行記に関心のある方は、NPO法人イスパJPのホームページのブログ欄の連載エッセイ14~17を参照のこと。またブラジル人とサンテイアゴ巡礼について紹介したエッセイは、https://nipo-brasil.org/archives/14677を参照のこと。

5)フェルナンド・ボテロ Fernando Boteroの話

コロンビアの世界的に有名な画家フェルナンド・ボテロの作品を初めてみたのは、イタリアであった。たまたまフィレンツエに出張した時に、シニョーリア広場でボテロの彫刻展をやっていた。彼は人物や動物をふっくらした形で描く画家・彫刻家なので一度見たら決して忘れない作品ばかりである。日本でもかなり有名で、1996年には新潟県立近代美術館で、2004年には東京の恵比寿でも展示会が行われているのでご存じの方も多い。

その後2003年11月から2006年3月まで、ブラジルのジェトロ・サンパウロ勤務が決まった。サンパウロ事務所は、ラテンアメリカを統括する事務所なので、年に1回各事務所を訪問する機会があった。コロンビア出張2度目の時には、首都ボゴタと第2の都市メデジンに出かけることにした。例によって、仕事の合間の時間を見つけ、ボテロを思い出し、行動することにした。ボゴタには、ボテロの絵画や彫刻を収集した「ボテロ博物館」がある。早速出かけ、ボテロの専売特許である「ふっくら」、「ぽっちゃり」、「おデブさん」の作品、「最もコロンビアらしい芸術家」の作品を多数鑑賞することができた。まさに癒しのひと時であった。その後、アンティオキア州の州都メデジンを訪問した。メデジンと言えば、麻薬カルテルで有名な都市だが、ボテロの生まれ故郷である。チャンスを逃さず、彼の作品が多く展示されている「アンティオキア美術館」に出かけ、ここでも幸福な時間を過ごすことができた。ついでに麻薬王パブロ・エスコバルが暗殺されて場所も好奇心から出かけた。

6)カラヴァッジョを求めて

カラヴァッジオと言えば、西洋美術に革新をもたらしたバロック美術の巨匠である。1571年にミラノ近郊で生まれ、1610年に放浪の末、36歳で没す。光と影を駆使し、数々の名画を世に出し、ローマで名声を勝ち得るが、殺人を犯し、ナポリ、シチリア、マルタ等に逃亡するという数奇な人生を送った画家である。

 私が初めてカラヴァッジョの絵画を見たのは、ミラノのアンブロジアナ美術館で「果物籠」という作品である。ぶどう等の果物が描かれた絵画であるが、そのぶどうが本物より本物らしく描かれていた。当時のリラ紙幣の裏面にも採用されていた。ミラノのブレラ美術館にも作品があった。ローマには実にたくさんのカラヴァッジョの作品がある。ボルゲーゼ美術館、カピトリーニ美術館、国立古代美術館、ヴァチカン美術館等々である。美術館のみならず教会にも見逃せない作品がいっぱいである。例えば、サン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会、カプチーニ教会、サン・アゴスティーノ教会である。フィレンツエのウフィッチ美術館やパラッティーナ美術館にもある。出張の合間に時間を見つけ、シチリア島のシラクーサのサンタ・ルチア教会、マルタ共和国のヴァレッタ市にあるカサンジョヴァンニ大聖堂にもわざわざ出かけた。イタリア外では、ルーブル美術館、ナショナル・ギャラリー、ウイーン美術史美術館も訪問した。

日本でもカラヴァッジョは人気を集めており、2001年には、「日本におけるイタリア2001」の一環として、東京都庭園美術館で、2016年には、国立西洋美術館で「カラヴァッジョ展」で開催された。また2016年10月にロンドンを訪問した時に、ちょうどナショナル・ギャラリーで「カラヴァッジオ展」を開催していたので早速見学した。現存する直筆の絵画は、70点強と言われているが、好奇心のおかげで相当数鑑賞することができた。2022年2月から5月まで、東京の国立新美術館で「メトロポリタン美術館展」が開催される、カラヴァッジョの絵画も含まれているよし、早速出かけなくては。

7)カルロス・ステイネンとは、一体何者か?

 ブラジルのサンパウロの滞在は、2003年から06年までの2年5か月と短い期間であった。アパートを見つけるまで長期滞在用のフラットに滞在したが、その内、日本人が多数住んでいるパライソ地区に気に入ったアパートを見つけた。通りの名前はRua Carlos Steinennであった。早速好奇心を出して、Carlos Steinennとは何者かについて片っ端からパウリスタに聞いてみたが、誰も知らない。またパライソ地区に住む日本人に自分の住んでいる通りの由来を聞いたところ、知っている人は数少ないことが分かった。

 そこで、本屋さんに行き、サンパウロの通りや広場の由来について書かれた本を探したところ、「1001 Ruas de Sao Paulo」(Silva Costa Rosa著)という格好の本を見つけることができたので、自分でサンパウロの通りの由来を調べることにした。①誰もが知っている通り、広場、公園、②多くの日本人が住んでいる通り、広場、公園等を選択の対象とした。AからZまでアルファベット順に169ヵ所の通り等の由来を紹介した。その後、帰国後、日本ブラジル中央協会の連載エッセイで「サンパウロの主要通り等から歴史を学ぶ」という記事を執筆し、人名、歴史上の重要な出来事が起こった年月日、宗教関係、インディオの言葉、国名、その他で分類した。さらに、日本企業が集中するパウリスタ通り界隈の通り、広場、公園、主要建物、主要モニュメント、彫刻を解説した。今でも下記をクリックすれば見ることができる。これも好奇心と駐在員のお役に立ちたいという発想から始めたものである。これ等の知識の一端を披露するとブラジル人から大いに評価された。
ちなみにCarlos Steinennとはドイツ生まれの民俗学者ということであった。

サンパウロ市の通り等の由来に関心のある人は下記をクリック下さい。
サンパウロ主要通りの由来
http://jp.ccijb.com.br/brasil-cotidiano/info/dicas/?materia=249
サンパウロの主要通りから歴史を学ぶ
https://nipo-brasil.org/archives/9977
パウリスタ通り界隈ガイド
http://jp.ccijb.com.br/brasil-cotidiano/info/dicas/?materia=250

以   上