1960年に東京外国語大学ポルトガル語学科を卒業し、貿易商社、アンゴラでの仕事をした水産会社勤務を経て1964年に外務省に入り、中南米課を経て1968年からアマゾン河口の在ベレーン総領事館に配属された。その間ギアナ三国とアマゾン沖でエビ漁の操業を行っている日本漁船に対するブラジル海軍の取り締まり当局の感触を伝えるために仏領ギアナ、スリナム、ガイアナへ出張したのだが、それぞれの国の歴史、当時の様子が述べられている。1972年に本省の移住課勤務となり、翌年田中角栄首相の農産物資源外交の一環としてのブラジル訪問の準備、随行に参画して突然の通訳も務めた後、1976年に入省以来の希望であった在ポルトガル大使館に赴任できた。アンゴラ等アフリカ植民地戦争を収束させ40年続いた権威主義政権が倒された後、西欧で最もマルクス主義的と言われた憲法が制定された中で左右勢力が衝突を繰り返す時に、大使以下わずか5名の館員が、大所帯で情報畑の大使を擁する米国、ブラジル大使館からの情報収集は困難を極めた。次第にパイプを構築していた矢先に、ブラジル日本人移住70周年を機に皇太子殿下・妃殿下が翌年ブラジルをご訪問されるからとブラジリアへの転勤が内示され、渋ったものの結局長期出張ということで警備体制担当として行かされ、そのままスペイン語圏ボリビアの在ラパス大使館へ異動させられた。
軍政のバンセル政権下の安定期に急増した日本からのビルビル(サンタクルス)国際空港等の経済技術協力に関わった。高地ゆえ単身で赴任していたボリビアに家族の一時呼び寄せ制度を使って3人の子どもが来訪した後、1979年軍の一部にクーデタが勃発、ラパスのエルアルト国際空港が閉鎖され足止めをくった日本人ビジネスマン等旅行者のため、ドイツ・英国大使館主導で特別機で出国させることになり、クーデタ側の軍の護衛で車列を組んで空港に到着したが、クーデタ軍はいつの間にかいなくなり、夜間外出禁止時間に入った帰路は車の不具合と狙撃の危惧から「こんな所で死んでたまるか」という緊迫したものであったことから、17年勤めた外務省を辞めることにした。その後大阪外国語大学(後に2007年大阪大学に統合)の教官公募で1981年に採用され、ブラジル・ポルトガル語学科で19年、2005年に近畿大学でそれぞれ教授を務めて定年までブラジルやポルトガル語圏アフリカなどにも関わり続けた。外交官の仕事がどういうものかの一端が計り知れる半生の記録。
〔桜井 敏浩〕
(文芸社 2021年5月 188頁 1,200円+税 ISBN978-4-286-22609-5)
〔『ラテンアメリカ時報』 2021/22年冬号(No.1437)より〕