連載エッセイ139:富田眞三 「100年前メキシコへ渡った日本の歯医者さんたち」(中) - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ139:富田眞三 「100年前メキシコへ渡った日本の歯医者さんたち」(中)


連載エッセイ136

100年前メキシコへ渡った日本の歯医者さんたち(中)

執筆者:富田 眞三(在テキサスブロガー)

「スパイ容疑で4年間服役した歯医者さん」


写真:(https://sandiegodigital.info.com)

 100年前メキシコへ渡った歯科医の西村ドクトルを私に紹介してくれたのは、同じく歯科医だった私の義兄の高橋ドクトルだった。その際、西村ドクトルは「僕は大戦中、太平洋のマリアス刑務所島にスパイ容疑で4年間収容されていたんだよ」と自己紹介して私を魂消させた。わざわざ前科を初対面の私に告白したのは、濡れ衣だった、という確固たる自信があったからだろう。それにしてもいかにも京都出身らしい上品な学者タイプのドクトルには「俺はムショ帰り」と私を驚かせた茶目っ気もあったのだ。さて、結論から言うと、西村市之助ドクトルへのスパイ容疑は全くの濡れ衣で同氏は完璧な無罪だった。この項は西村ドクトルの足跡をたどって、ドクトルの冤罪を晴らしたい。

 学生時代、私はアルバイトを通じて、二人の元日本軍の情報機関員らしき方たちと知り合った。一人はブエノスアイレス駐在でもう一人はサンパウロ駐在だった。お二人は完璧なスペイン語、ポルトガル語を話し、現地で情報活動に従事していたことは人づてに聞いた話だった。だが、第二次大戦勃発後、両氏は共に交換船で帰国したので、移住者ではなかった。

メキシコでも、日本軍に協力したという嫌疑をかけられた某氏(後の日本機械センター所長)は、在メキシコ日本大使館員、駐在員とともに交換船で帰国していた。だが、西村ドクトルは駐在員でも情報機関員でもなく、メキシコへ移住した歯科医だったため、日米戦争が勃発しても帰国する気はなかった。そのうえ、ドクトルをスパイと断定するには確定的矛盾があることが、調べれば調べるほど判明してきた。

「タンピコには大油田と日本海軍の秘密基地があった(?)」


写真:(https://wikimapia.com)

 西村ドクトルが開業していた、タンピコ市はメキシコ湾に臨む港町のうえ、港の後背地は当時メキシコ最大の油田地帯で、かつて山本五十六長官が若かりし頃、タンピコの石油を日本へ送ろうと画策し、日本は財界の大物藤原銀次郎氏を団長とする調査団まで送っている。「火の無いところに煙は立たぬ」のである。また近隣の炭坑で働く日本人が多くいた関係でタンピコには100人以上の日本人が常時滞在していた。そんなタンピコの日本人会の会長を務めていたのが、西村ドクトルだった。

 1930年代、米国FBIがタンピコの日本人の動きが怪しいとして、エージェントを派遣して、市内や近くを流れる大河のパヌコ川流域を探索した事実を、私はアメリカ人の通訳を務めたメキシコ人の息子である私の友人から聞いていた。FBIは日本海軍が長大なパヌコ川流域に秘密基地の建設をもくろんでいた、という情報に従って調査したが、何も見つからなかった。だが、このような事情によりタンピコは米国にとって要注意地域だったことは間違いなかった。

「ドクトルがメキシコに残した足跡」


地図:ドクトルのメキシコ到着後の移動順序 (筆者作成)

 この西村ドクトルの記事を書くことが出来たのは、国立国会図書館所蔵の「西村市之助録音資料」のCD-Rのお陰だった。従って、以下の西村ドクトルのメキシコに残した足跡は大方この録音資料に基づいたものである。西村ドクトルは1926年(大正15年)ペルー航路の日本郵船・墨洋丸(8619t)に乗船して横浜を出航後メキシコ・マンサニーヨ港へ上陸した。ドクトルは身重の奥様を同伴しており、長男は入植地のヴェラクルス州オリサバで誕生した。見合い結婚だったが、奥様は海外雄飛を夢見ていたので、念願が叶ったわけだ。だが、日本軍が身重の妻を伴う男性を情報員として外国へ派遣するとは考えられない。しかもドクトルが情報員としての訓練を受けた形跡もなかった。

 オリサバには当時日本移民の入植地があって、日系コロニーが形成されており、前橋出身の歯科医ヤギケンイチロー先生が診療所を開いていた。ドクトル西村はここで助手として働いた。西村ドクトルは北、南米への移民派遣を斡旋する、東京練馬の力行会出身で、同じく会員だった奥様と力行会の仲立ちで見合結婚した。

 ドクトルのメキシコにおける足跡をたどると、力行会出身者の連絡網を活用していたことは明らかだが、日本大使館との接点は見つからなかった。オリサバからメキシコ南部のグアテマラ国境の都市・タパチューラに引っ越した際も、力行会のネットワークによって歯科医助手を求めているとの情報に接して、移動したのだった。ここでも日本からのマツイ歯科医のもとで助手として働いた。

 その後、同地で開業していた歯科医の吉田ドクトルから誘われて、移動歯科医として働く吉田さんの助手として、中部の大都市グアダラハラ近郊のトナラ、更に北のモンテレイまで多くの無医村を廻って治療を施した。歯科の治療器具、薬剤等一切持参しての診察、治療だったが住人から感謝、感激されるので張り合いがあった。そんなとき、グアダラハラから近いコリマにサンフランシスコから医学部教授を招聘して医科大が設立され、歯学部も併設されている、という情報を得た吉田ドクトルは、西村青年に「ぜひコリマで勉強して資格をとれ」と強く勧めてくれた。

「歯科大学に入学、歯科医師国家試験合格」


写真:(https://noticierostelevisa.com)

 西村ドクトルはこのときの気持ちを「がむしゃらにコリマに飛び込んで行った」と表現している。幸い、校長のアメリカ人は日本人に好意的で、歯科医助手の仕事も斡旋してくれ、働きながら勉強できる環境を整えてくれた。土日も働いたので、大変重宝がられた、と語っていた。なお、コリマの大学にはもう一人沖縄出身の日本人も歯学部に在学していたので互いに励ましあって、勉学に励んだ。こうして、4年後西村青年は無事卒業、国家試験にも合格して、晴れて歯科医となれたのだった。ということで、西村ドクトルは日本からの歯科医師ではなく、メキシコで歯科医師免許を取ったことになる。外国で言語のハンディを克服して歯科医になった、ということは「お見事!」の一語につきる。

 ドクトルはスパイ活動とは縁がないどさ回りしていたことから察しても情報員であるはずがなかった。確かにスパイがいても可笑しくないタンピコだったが、ドクトルはタンピコに腰を据える前にオリサバ、タパチューラ、トナラ、モンテレイ、コリマと5か所で道草を食っている。こんな情報員はあり得ない。即ち、西村ドクトルはスパイではなかった。 さて、歯科医師免状獲得後直ぐ、タンピコで開業している日本人歯科医が歯科医院の買手を探している、という話が舞い込んできた。1934年のことだった。(続く)

参考資料:国立国会図書館所蔵 西村市之助録音資料 CD-R VE701-3-1~4