連載エッセイ141:田所清克「ブラジル雑感」その5 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ141:田所清克「ブラジル雑感」その5


連載エッセイ125

ブラジル雑感 その5

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

「翻訳者は裏切り者 (tradutor é traidor)」

「翻訳者は裏切り者」(tradutor é traidor) と言われるほどに、翻訳者には誤訳がつきものである。この問題は私にとっても他人事ではない。ブラジル文学作品も含めて、研究上多数の翻訳をこれまでしてきたが、きっと多くの誤訳を犯していることに違いない。

それにしても、Facebookを通じて外国語文の邦訳が付加されるのを参照すると、愕然とした気持ちになる。概して、その翻訳に誤りがあまりにも多いからである。翻訳した本人はまともな日本語にしたと思っているのだろうか。恐らく自身の日本語訳が判っているとは到底思えない。せめて原文を日本語に移しかえる最低条件として、直訳調でも良いから意味の通じるものにして欲しいものだ。洗練された文章に向けて推敲するのは、その後のことであるような気がする。自戒の念も込めて、問題提起した次第。

ところで、ブラジル文学翻訳では私は今でも悪戦苦闘している。が、最低限、誤訳を極力避けるために理解困難な文章なり語彙にぶつかると、その文脈や背景等をも押さえるべくネイティブスピーカーに尋ねたり、場合によっては作品の舞台となる現地に赴いたり、直接作者に説明を乞うたりして完璧を期すようにしている。それでも誤訳の陥穽から逃れられない。悲しい限りである。翻訳は苦労する割には報われず、逆に誤訳が多いだとか文章表現が稚拙だと言われる。それでも文学作品の翻訳が好きだからであろう、懲りもせず辞書を片手に、今日も原文から日本語に置き換える作業をしている自分がいる。誤訳を恐れない勇気を持つことは大事なことではあるが、それにしても自分が訳した文章が日本語として通じないのは、いかがなものだろうか。

「カリオカ (carioca) とフルミネンセ (fluminense)」

フルミネンセ (fluminense) と言えば、サッカーファンの方であれば即座にリオの名門サッカーチームを思い起こされることだろう。私が学んだ国立大学もUniversidade Federal Fluminense (フルミネンセ連邦大学) と言う。

ところで、カリオカ (carioca) とフルミネンセの違いは、前者がリオデジャネイロ「市」に生まれ育った人を称するのに対して、後者はリオデジャネイロ「州」の住民を指す。いわばサンパウロ「市」の住民をパウリスターノ (paulistano) と、またサンパウロ「州」の住民をパウリスタ (paulista) と呼ぶが如きものである。

華やかな芸術文化の都リオデジャネイロに住む人には、カリオカであることにある種の矜持がある。その垢抜けて洗練された瀟洒な“Cidade Maravilhosa”に対して他州の人も強い憧憬の念を抱く。「生粋のリオっ子」をカリオカ・ダ・ジェーマ (carioca da gema) というが、混じりけのないリオっ子であることが彼らにとって何よりも自慢の一つになっていることは寸毫の疑いもない。ちなみに、ジェーマとは本来「卵黄」を意味するが、de gemaとなって「生粋」の謂で使われている。

「ブラジルの姓」(Nome da familia)

 
『日本姓氏語源辞典』(宮本洋一著) によれば、この日本でもっとも多い姓は、佐藤 (以下、鈴木、高橋、田中、伊藤、渡辺、山本、の順) とのこと。この点、私の姓である「田所」は929番目に少ない部類に属し、全国でもその人口は2万人近くしかいない。私は生粋の肥後っ子 (higoense da gema) で九州男児を自負しているが、田所なる姓は、茨城県と高知県に多い。ひょっとしたら私のルーツはそのいずれかにあるかも。田所姓で有名な人といえば、「男はつらいよ」の、今は亡き渥美清である。もし彼の名前に「克」をつけ足せば、私と同姓同名となる。彼ほどの力量も手腕もないが。

 今回の本題に入ろう。

 仄聞するところ、イギリスは世界でも数少ない姓の国らしい。対照的にブラジルは、世界の国々や地域から流入した移民国家であることもあって、多くの民族系のルーツにも根ざしたさまざまな姓が存在する。見かけでだけでは判別できない民族 (性) も、姓を知ることによってどの系統の民族であるか、大方推察可能である。言わずもがな、この熱帯の大国はポルトガルの植民地であった。したがって、当然のことながらスペインを含めたイベリア半島系に一般的な姓が数の上で圧倒する。が、他方において、植民の歴史が相対的に長いドイツ、イタリア、アラブ、とりわけレバノン等からの移民の姓も少なくない。

 民族の集住の度合は、地域ごとに多少の違いがあり、それが民族系統の姓の多寡に反映されている。例えば、南東部のリオやミナスはアラブ (レバノン) 系移民が多く定着したところである。翻って、ヨーロッパ系移民の比較的に集住している地域といえば、南東部および南部であり、その移民の中心はイタリア、ドイツに出自を持つ。であるから、その地に赴けば、そうした民族によくある姓を聞くこととなる。

 以下、ブラジルでよく耳にする姓を、イベリア系とアラブ系に絞って、頻度数に応じて列挙する。
① イベリア(ポルトガル)系
 Silva, Santos, Oliveira, Souza, Pereira, Ferreira, Rodrigues, Lima, Carvalho, Almeida,
etc…

② アラブ (レバノン、シリア) 系
 Cury, Saad, Maluf, Abdala, Farah, etc…

[補記] ブラジルに渡来した「新キリスト教徒」(novo cristão)、「隠れユダヤ教徒」(cripto-judeu)、「マラーノ」(marrano) とよばれたユダヤ人は、宗教裁判所の異端審問から逃れるために植物や動物の名を使った。

「ポルトガル語の語頭のRと語中のRRの発音を巡っては」

留学中、指導教授や同僚のブラジル人学生から、上記の発音 [語頭のRと語中のRR] に関して幾度矯正を受けたことだろうか。音韻論や音声学を一応習った身にもかかわらず、正確な発音は未だできない。語学の才能が無いと言うことなのだろう。

そんな私にも気になることがある。語頭のRと語中のRRは、語中にある一つだけのRとは明らかに発音が異なる。しかしながら、音楽関係の雑誌も含めて、ブラジル音楽関係者、ブラジルに渡航したことのある人の多くは、日本語のハ、ヒ、フ、ヘ、ホの発音をしている。要するに、語頭のRと語中のRRの発音は、強く舌を振動させる (= 震え音 [vibrante]) であることから、語中に一つ出てくるRとは截然と区別する必要がある。しかも、日本人がハ、匕、フ、ヘ、ホと発音する舌の位置もブラジル人とは全く異なる。

従って本来であれば、”Rio” は「ヒーオ] ではなくて「リーオ」と発音すべきである。拙著やフェースブックに投稿している拙文において、例えば”samba de roda” を、「サンバ・デ・ホーダ」ではなく、「サンバ・デ・ローダ」としているのも、上記の事由による。日本人にとって、ポルトガル語はむろん外国語である。発音の表記にいちいちこだわることもないのも事実だが。かく言う私も日頃は、「ヒケーザ」(riqueza)、「フーア」(rua) などと発音しているのだから、始末に負えず自家撞着である。

「RおよびRRのポルトガル語発音について―誤解を生まないために一言―」

先日、ブラジルのポルトガル語のrおよびrrの発音に関して、私を含めて、大半の日本人の発音は間違っている旨の駄文を投稿しました。要は、繰り返しますが、ポルトガルではなくブラジルのポルトガル語の場合、語頭のRおよび語中のRR [honraのごとく例外もあります] は、ハ、ヒ、フ、へ、ホの発音することは、ネイティブが発音する音とは舌の位置の違いから、厳密に言うと間違っていると述べたまでです。

確かに、ネイティブの発音を耳にすると、ハ、ヒ、フ、へ、ホのように聞こえます。が、微妙に私たちの発音と異なっている。このことを言いたかっただけのことです。所詮、ポルトガル語は私たちにとって外国語です。従って、ハ、ヒ、、、の発音をみなさんが発音されても一向に問題はありませんし、ブラジル人には通じます。その微妙な違いを多少なりとも理解していると思っている私が、ruaを一例に挙げますと、発音はともかく、表記では単に「ルーア」としているだけのことです。

「ブラガンサ王家のブラジル移転で綻び始めた文化の花―ドン・ジョアン六世の治績―」

トラファルガー海戦 (1805年) で勝利したイギリスだけがフランスに膝を屈することがなかった状況の中で、ナポレオン・ボナパルトの意に反してポルトガルは、イギリスと秘密協約を結んで「大陸封鎖」には加わらなかった。結果として、ジュノー将軍麾下のフランス大軍の侵攻によって、ブラガンサ王室は植民地ブラジルへの移転を余儀なくされたのである。

かくして、ポルトガル女王ドナ・マリアと摂政ドン・ジョアン以下、王族、貴族、政府要人、使用人などからなる大勢1万5千人はイギリスの護衛艦の護衛の下に、テージョ川を下り大西洋を横断しながら、ブラジルの北部沿岸のそこここに離ればなれになって接岸することになる。

1807年11月29日にポルトガルを出て、バイーアに着いたのは、翌年の1月21日のことであった。バイーアの住民に歓呼の声で迎えられ、この地に留まって欲しい要望があったが、1ヶ月あまり逗留した後はリオに向かう。1万5千人が到着 (3月7日) した当時のリオの人口は4万人そこそこだったので、人口急増によってにわかに住宅難に陥ることになった。ともあれ、このポルトガル王室のブラジル移転が、この国の歴史を大きく塗り変える大事件となったことは言うまでもない。狂乱の女王が1816年に他界すると、ドン・ジョアンは即位してドン・ジョアン六世となった。

彼は側近の三大臣の協力のもと、独立した国家としての大改革に乗り出した。港の開放、新聞、図書、雑誌等の発行の自由、自由貿易の容認などはその最たる功績かもしれない。例えば、『ガゼッタ』(Gazeta) なる新聞がはや王室が到来した年に発行されている。のみならず、王立印刷所、ブラジル銀行、大学、博物館、裁判所、兵器工廠、植物園、さらには、持参した1万5千もの書物や公文書を基に図書館までも設立した。
次稿に取り上げるが、フランスなどから文化使節団 (Missão Artística Francesa) なども積極的に招聘し、文化水準を向上させ民意度を高めたりもした。ブラジルの芸術文化のプロトタイプをなすものは、ある意味でドン・ジョアン六世によって構築されたといっても過言ではないように思う。ブラジルの歴史の中で、この王様の治績がいかに大きかったか、改めて注目する必要があるだろう。

「フランス文化使節団の招聘が生んだブラジルにおける文化面の精華と芸術的発展」

1808年におけるポルトガル王室のリオデジャネイロへの移転は、植民地の状況下にあったブラジルをあらゆる意味において発展・躍進させる契機となった。そして政治的・文化的な事象の中心はおのずと、北東部のバイーア、ペルナンブーコ、南東部のミナス・ジェライスからリオデジャネイロへと移る。前回記したように、ドン・ジョアン六世の治績は並々ならぬものがあった。改築したカルモ修道院に王室は設えられ、その礼拝堂は劇場や音楽堂に変わった。

国王は新たな首都リオデジャネイロを近代化することに全身全霊を傾けることになる。が、近代化を図るにしても、まだブラジルには熟練の専門家が欠けていた。文化領域も然り。そこで1816年、ジャック・ルブルトンを団長とする「フランス文化使節団」を招くことになった。錚々たるその構成メンバーの中には、歴史画家のジャン=バティスト・ドゥブレ、彫刻家のオーギュスト・マリー・トゥネイ、建築家のオーギュスト・H・グランジャン・デュ・モンチニなどがいた。

ドゥブレは使節団にあって中心的な画家で、十八世紀全般のブラジルを展望するような、社会学的な記録になり得るものを絵画を通じて実現した。王家の肖像、貴族やブルジョア、奴隷の日常的な光景の絵などはその最たるものだろう。その一方で、サン・ジョアン劇場の舞台装飾 (cenografia) も行なっている。さらに、1834年から1839年にかけて、パリで刊行された全三巻から成るイラストと文章による『ブラジルへの絵のように美しい歴史的な旅』(Viagem Pitoresca e Histórica ao Brasil) はつとに有名である。

ポルトガルとブラジルとアルガルヴェの王たるドン・ジョアン六世を喝采する記念祭に向けて、彫刻家のトゥネイの場合は、リオに光輝を添える意味で多くの彫刻を残している。「カモンイスの胸像」(Busto de Camões) は彼の代表作と言ってよい。

翻って、新古典主義時代の建築物で名を馳せたモンチニ。彼のクロッキーを私達は国立美術館において見ることができる。リオの植物園にある美術学校のポルチコ (玄関) もそうである。そして、彼は一世紀以上に亘ってブラジルの造形芸術に影響を及ぼしたことも黙過し得ない。同時にまた、未だバロック芸術が根強いブラジルの土壌に新古典主義の様式を根付かせた点は、刮目すべきだろう。フランス芸術使節団の来伯以降、ブラジル(人)は徐々にフランスへの憧憬を強め、今もなおその傾向は顕在である。

以   上