執筆者:設楽知靖 元千代田化工建設(株)、元ユニコインターナショナル(株)
2021年、秋は東西冷戦の片方の大国、ソ連邦が崩壊して30周年に当たり、現在の世界情勢の分析の中で、様々な論調がなされている。同時に30年前は、ベルリンの壁崩壊、東欧諸国の政治改革が続き、その混乱の中で、私が約14年駐在したパナマ共和国においても、運河返還協定という、パナマの悲願が実ったが、そのなかで国家警備軍(Guardia Nacional)の長で、事実上の国家元首の存在の、ノリエガ将軍(マヌエル・アントニオ・ノリエガ MAN)の麻薬問題に絡む米国との対立が起こり、米国にとってパナマは“目の上のたんこぶ”のような存在になった。
当時、パナマにはカナルゾーンの米空軍を中心とする駐留軍がおり、一方では、反ノリエガに対する市民デモが続いていた。市民デモに対して国家警備軍は催涙ガス弾を発することは毎日であり、オフィスビルに打ち込まれたガスはエレべーターに乗って20階以上の事務所にまで到達、窓を開けていないと涙が出て仕事にならない状態だった。反対派には武器はなく、銃撃戦の様な闘争は起こらなかった。そして、夕食時となると、各家庭から鍋たたきがはじめられた。このような中で駐在員は家族を帰国させる者も多く、日常生活においては、米国が紙幣の輸送を止めたために、市内ではドル紙幣がみるみるうちになくなる事態となった。パナマはドル紙幣を活用しており、中央銀行(BNP)は、硬貨の発行はあるが、紙幣は発行していなかった。通貨の単位としてはバルボア(Balboa)があるが、1バルボア=1USドルとしている。このためスーパーではお釣りを出す紙幣がなく、停電も多く、買った食材を冷蔵庫においても腐ってしまって、廃棄することとなった。企業は従業員に給与を小切手で払っていたが、それを銀行で換金することもできず、銀行にも紙幣が無くなって、各企業はドル紙幣(キャッシュ)を調達するのに米国まで行くなど苦労するとともに業務事態も従業員の出勤調整を行うようになった。
最初のレセップス(フランス人)の運河建設の失敗後、米国が建設を行い、その支援により1903年にパナマはコロンビアから分離独立を果たした。その間に、スペイン人、アフリカ人、中国人の融合により、1914年運河が開通したが、パ・米運河条約により、米国はカナルゾーンの主権を取得して、パナマに確固たる影響力を保持することとなった。米国南方軍の駐留などの影響による社会の教育レベルアップ、米国の影響下における白人社会、上流社会のコロンビア社会との結びつき、またパナマ人には、カナルゾーンの中と外という直接的感情からの”反米“と言うことが、他のラテンアメリカ諸国と違うところであった。1964年には米国高校生によるパナマ国旗焼き討ち事件が起こり、これを契機として、米南方軍とパナマ人民の衝突は、反米、すなわち”運河返還“と言う͡国民的悲願達成へと結びつくこととなった。
1968年10月11日、国家警備軍のトリホス将軍(オマール・トリホス・エレーラ)がクーデターを起こし、その後10年間、政権を握り、中道社会民主主義を打ち立て、運河返還実現努力を国民に約束、国家警備軍と政府要人に白人以外を登用して社会構造改革を進展させた。当時、ラテンアメリカ域内のリーダー的存在であった、メキシコのエチェベリア大統領、ベネズエラのペレス大統領、そして、コロンビアのミッケルセン大統領に根回しを行うとともに、OAS(米州機構)の場を介して、米国カーター政権と運河返還の交渉を続けて、1977年9月、ついに悲願を達成させた。この時に米国の交渉相手は、最後の南ベトナム駐在米国大使のバンカー氏であった。この時、ノリエガは国家警備軍のナンバー3であった。
トリホス将軍引退後の1988年3月以降のパナマの体制は、その頂点にノリエガ将軍と、その忠実な、約25人の国家警備軍の精鋭が固めて、政府は機能していなかった。反ノリエガ派、十字軍は団結が弱く、米国は1988年5月ごろに、ノリエガ将軍一派と”辞任“を条件に交渉していたようだが決裂し、米国はレーガン政権からブッシュ政権{父}に移行。1989年5月7日、約束通り、パナマで大統領選挙が実施された。米国は選挙監視団と称して、カーターとフォードの元大統領を派遣し,両者は、ブッシュ大統領へ”野党勝利”を報告。しかしながら、パナマ選挙管理委員会は、選挙妨害があったとして、一方的に、大統領選挙の無効を宣言した。米国は、カナルゾーンの南方軍を2000人増強し、15,500人として、第一回目の軍事介入を図ろうとしたが、パナマ側の法令順守との主張に介入理由を見いだせなかった。この時、米国は経済制裁以上に強硬策に出ると、“反米は親ソ”という考え方で、西側の団結はキューバやニカラグアの二の舞いになる危険性を考えた節がある。
1989年12月20日、ついに米国はパナマに対して軍事介入という最後の手段を行使した。添付の図を参照いただきたい。何故、この機会を米国は選択したのか、の世界情勢下の分析である。パナマでは、ソリス・パルマ大統領代行の任期切れに伴い、ノリエガ色の濃い会計検査委員会‣委員長が人民議会において、暫定大統領に指名され、ノリエガ体制を引き継ぎ、人民議会はノリエガ将軍に対して、国家最高の無限の権限を付与するとともに、米国との間に”戦争状態“を宣言した。その間に、米南方軍兵士が、パナマ市内でささいないざこざで、殺害される事件が発生。米国は、パナマに対する経済制裁にも関わらず、麻薬組織問題、西側諸国への支援、また、ラテンアメリカ諸国の民政へのフォローの風の認識を考慮しつつ、ソ連のラテンアメリカへの影響力、世界の東欧諸国改革への衆目、並びに、仏、独、英の動向などを検証して、”この時が最適”と判断して、12月20日となったのだと思われる。特に、世界のマスコミは東欧へ集中していた。この介入は事実として、直ちに米国は、これを正当化する必要があるとともに、ラテンアメリカ諸国の反米感情を早い時期に抑える必要があった。
1985年3月11日、共産党書記長に就任し、ソ連邦の最高指導者となった、ミハイル・ゴルバチョフはソ連の政治・経済改革の抜本的改革を目指して、ペレストロイカ〔改革〕、グラスノスチ(情報公開)を断行したが、ソ連の経済危機に伴って、勢力圏の東欧諸国への影響力は徐々に弱体化してきて、1989年11月、ベルリンの壁崩壊,同12月、ルーマニア革命、同じく、12月チェコスロバキア共産党支配崩壊、1990年9月ポーランドで非共産党内閣誕生と急速に東欧改革が続いた。ついに、1991年12月25日、ゴルバチョフ大統領が辞任、共産党解散を受けて、ソ連邦構成共和国は主権国家として、各々独立した。(ゴルバチョフは米国レーガン大統領と会談を重ねた)
おわりに、旧ソ連の動向を含めて,今日の情勢の専門家の意見を検証してみたい。ロシアのプーチン大統領は、ソ連崩壊は20世紀最大の地政学的惨劇と発言している。米国は、冷戦後、同盟国とNATOを中心に安全保障体制を構築したが、ロシアは90年代初めから、欧米の一員となろうとの試みがあったが、上手くいかなかった。そこで最近のプーチン政権はロシアをソ連や帝政ロシア、その前の歴史的なロシアと結びつけることを重視しているように見える。
また、別のコメントとして、”ソ連“は帝国的な面と多民族的な面を持つ国を、共産党が支配していた。社会主義体制の”計画経済“は後発国の急成長には役立ったが、技術革新にはついていけず、超大国には同盟国の様な、支える存在が必要ではないか。ロシアは、中国の中央アジアへの進出には寛容だが、ウクライナやジョージアには”欧州人意識“をもっているのではないか。中国の経済的影響力がいくら強くても、そこに住む人々は”中国人“になりたいわけではない。冷戦期のような対立より、19世紀の大国関係のような競争しながら共存することが、今後考えられる。これから大国が人口問題を抱えて、縮小していく中で、利益を奪い合う構図が出ると大きな紛争が再び起こる可能性は否定できない 。
以上
<添付::図『1989年12月20日、午前0時の世界情勢』
(参考資料)
=講義『中南米地域研究』、設楽知靖著、DTP出版、2008年7月28日
=(社)日本プラント協会・会報『中南米シリーズ(7)}』
=2021年12月22日、朝日新聞‣朝刊
=Enemy Within,、Focus Publication, Panama、Rep。.of Pan