『疫病の世界史 上 -黒死病・ナポレオン戦争・顕微鏡』 第8章「戦争と疫病 1-ナポレオンと黄熱とハイチ革命」フランク・M・スノーデン - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

『疫病の世界史 上 -黒死病・ナポレオン戦争・顕微鏡』 第8章「戦争と疫病 1-ナポレオンと黄熱とハイチ革命」フランク・M・スノーデン


新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の大流行はたまたま発生した現象ではなく、かかる疫病は人間と環境、他の生物種、さらに人間同士の関係によって生み出された微生物・ウィルスは、社会の脆弱性を突いて人類の歴史を揺るがせてきた。541年から1950年の間に3度のパンデミックを引き起こし、やっと公衆衛生の重要性を気づかせたペスト、ジェンナーの牛痘によって人類が唯一根絶した天然痘、ナポレオンのハイチ独立阻止のためのフランス兵派兵を失敗させた黄熱病とロシア侵略戦争の敗退の主因となった赤痢と発疹チフス、コレラ、さらに下巻では植民地主義とグローバリゼーションの時代に世界各地を席巻したペスト、マラリア、ポリオ、HIV(エイズ)と、本新版では最新のCOVID-19感染拡大の章を加えている。

うち第8章「戦争と疫病Ⅰ-ナポレオンと黄熱とハイチ革命」(161~240頁)では、奴隷によって成り立っていた砂糖生産によって世界で最も富をもたらす植民地と言われたサン・ドマング(現在のハイチ)での黄熱病を取り上げている。砂糖プランテーション拡大により西・中部アフリカから奴隷船とともに到来した黄熱病を媒介するネッタイシマカの生息地を拡大し、免疫を持たない欧州人を脅かした。砂糖農園での過酷な環境で奴隷による抵抗運動が高まり反乱が頻発し、1789年に始まったフランス革命以後の国民議会下で奴隷制と解放策が錯綜したものの、サン・ドマングの状況は改善されることのないまま1791年から13年間戦乱状態が続いたが、反乱軍を指導したのがトゥーサン・ルヴェルチューであった。奴隷の反乱が自国の植民地に波及することを恐れたスペインと英国がサン・ドマングに武力干渉しようとしたことから、フランス国民議会はフランス共和制を支持する奴隷を呼び集める策を採り、奴隷を解放し市民権を与えると布告したので、反乱軍は忠誠を誓いトゥーサン・ルヴェルチューは流れで植民地下の総督に就いていた。彼は奴隷出身ではあったが冷酷で実利主義者で農園主となっており、裕福な白人とエリート黒人を共同で従順な労働者を使うことで、フランスの支配なしにプランテーションの生産性を回復させることを考えていた。一方,共和制下の政変で第一統領になったナポレオン将軍はトゥーサン・ルヴェルチューの統治を苦々しく思っていたばかりでなく、奴隷制の復活、さらにサン・ドマングを拠点に北米のルイジアナ植民地からミシシッピにまで勢力圏を拡大する野心から、義弟のルクレールを司令官に1801年に本国から遠征軍を派遣した。

容易に勝利出来ると信じていたナポレオンの派遣軍の兵士たちを待ち受けていたのは、予期せぬ敗北だった。元奴隷たちの熱帯地での地の利を得た戦闘方法、士気を高揚するブードゥー教の信仰心、奴隷解放の政治的理想とともに、風土病となった黄熱病のフランス兵たちの罹患が大きな障碍となった。本国から送り込まれた6万5,000人の兵のうち5万から5万5,000人が命を落としたが、うち3万5,000人から4万5,000人の死因は黄熱病であったと見られる。肺炎とマラリアの合併症もあって黄熱病の致死率は15~50%と推定されたが、その原因、治療法が判らないまま瀉血と下剤という誤った治療法が衰弱した患者に行われ、ついにルクレールも黄熱病に罹り、1万2,000人の援軍も瞬く間に病に倒れ、フランスと英国の戦争が再開されて英国海軍がフランス港湾を封鎖することで増援の望みを絶ったことから、1803年に最後の戦闘に敗れた遠征軍は反乱軍に降伏した結果、フランス軍の奸計で捕らわれフランスで獄死したトゥーサン・ルヴェルチューの後に反乱軍を指導したデサリーヌが1804年に史上初の自由黒人による国家ハイチの独立を宣言した。

ナポレオンのカリブ海・北米にフランス支配を蘇らせようとした野心を頓挫させ、カリブ海域には病気という危険があることを思い知らせたにもかかわらず、その後もナポレオンは英国支配下のインドを奪取する壮大な野望を抱き、その前途に立ちはだかるロシア帝国を破るべくモスクワまで遠征軍を率いたものの、またしてもその夢を冬の寒さと赤痢、発疹チフスが打ち砕かれたということが次の9章「戦争と疫病 2 -1812年のロシア、ナポレオンと赤痢と発疹チフス」で詳述されているが、人類の歴史で感染症がもたらしたインパクトが大きなことを俯瞰するなかで、感染症の禍を前に無益な政策指導者たちの行動、民衆の不信と抵抗が何度も繰り返されることを、本書によってあらためて知ることが出来る。著者はイェール大学歴史・医学史名誉教授であり、単にハイチでの黄熱病事情だけにとどまらず、ハイチの植民地化の歴史、砂糖プランテーションと奴隷の置かれた境遇の実態、英西等列強とフランスの競合の中でのナポレオンの戦略発想も詳述されていて、歴史書としても極めて興味深い。

〔桜井 敏浩〕

(桃井綠美子・塩原通緒訳 明石書店 2021年11月 384頁 3,000円+税 ISBN978-4-7503-5267-1 )