連載エッセイ143:富田眞三 「100年前メキシコへ渡った日本の歯医者さんたち」(下) - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ143:富田眞三 「100年前メキシコへ渡った日本の歯医者さんたち」(下)


連載エッセイ140

100年前メキシコへ渡った日本の歯医者さんたち(下)

執筆者:富田 眞三(在テキサスブロガー)


写真:(https://mexicoenfotos.com)

【これまでのあらすじ】

メキシコの日系人の職業はブラジル、アメリカ、ハワイの日系人と大きな違いがあります。それはメキシコの日系人には歯医者さんが非常に多いことです。「100年前メキシコへ渡った日本の歯医者さんたち(上)」でその訳を日系歯医者さんのパイオニアだった、北條ドクトルの波乱万丈の生きざまを通じてお伝えしました。

「100年前(中)」では、もう一人の日系歯科医のパイオニアだった、西村ドクトルの、それこそ映画にしたいほどの驚くべきストーリーを語りました。何しろ、ドクトルは初対面の私に「戦争中、僕はスパイ容疑で3年間太平洋上の監獄島に収容されていたんだよ」と自己紹介して私を魂消させたのでした。

 さて、ドクトルは戦争前,名声を欲しいままにしていた絶頂期に日米戦争が勃発。数か月後、メキシコ軍の兵士たちがドクトルの歯科医院に現れた場面から、(下)の巻は始まります。どうぞお付き合いください。(テキサス無宿記) 

タンピコで歯科医院開業


地図:ドクトルのメキシコ到着後の移動順序 (筆者作成)

西村ドクトルが歯科医師免状を獲得して直ぐ、タンピコで開業している日本人歯科医が歯科医院の買い手を探している、という話が舞い込んできた。その歯科医はナガイ・ドクトルだった。先生は老齢のため帰国するので、歯科医院を居抜きで譲りたい、という希望だった。西村ドクトルが「金はありません」と言うと、出世払いで結構という好条件で話はまとまった。1934年のことだった。メキシコ入国から8年の年月が経っていた。そして、ここがドクトルの終の棲家になった。
こうして西村ドクトルはタンピコで独り立ちしたが、ナガイ・ドクトルが残した患者さんも多く腕も良かったので「タンピコにNishimuraあり」と言われるほど有名になった。

1942年5月メキシコ、日独伊へ宣戦布告


写真:(https://eluniversal.com)

 1941年12月の真珠湾攻撃の翌年の5月28日、メキシコは日独伊三国へ宣戦布告した。親独、親日のメキシコは当時中立を保っていた。ところが、1942年5月13日、メキシコ湾を航海中の国有化したばかりのメキシコ石油公社PEMEXのタンカー・ポトレーロ号にドイツ海軍の潜水艦U-564(Uボート、レインハード艦長)の魚雷攻撃が命中、タンカーは沈没こそ免れたが航行不能になった。この報告を受けて、優柔不断な態度をとっていた、メキシコ大統領のアヴィラ・カマーチョは米国の圧力もあって、2週間後に枢軸国側に宣戦を布告したのだった。今ではメキシコ・タンカーへの攻撃は、同国のドイツびいきを危惧したルーズベルトの謀略だった、と信じられている。

 タンピコの西村ドクトルの歯科医院に予告もなくメキシコ陸軍の兵士が現れたのは、7月に入ってからだった。「緊急の話があるので同行して欲しい」と言われて、ドクトルは車に乗せられた。飛行場に着くや、行く先も告げずにいきなり飛行機に押し込められた。嫌な予感はあった。対日宣戦布告後、敵性外国人である日本人が投函した手紙が検閲され、怪しい素振りの日本人のブラックリストの作成が進んでいる、と噂されていた。

 さて、ドクトルが乗った飛行機が着陸したのは、メキシコ中部の大都市・グアダラハラだった。ここでドクトルは数日間にわたって厳しい取調べを受けたので、いやでも「自分が日本のスパイだと疑われている」ことを気づかされた。数日後、再び車で着いた場所は、マサトラン港だった。ここでドクトルと同じように「スパイ」として連行されてきた容疑者たちと合流した。米墨国境地帯の日本人二人、イタリア人一名、中米人二人の計5人だった。ドイツ人はいなかった。

マリアス諸島刑務所に収監


写真:(www.https://bbc.com)

6人は夜遅くマサトラン港から船に乗せられ、翌朝着いたのはマリアス諸島という刑務所島だった。マサトランから180㌔の距離に浮かぶ太平洋上のマリアス4諸島のうち、最大の母島に刑務所があり、ドクトルが収監されたころは300人ほどだったが、最盛期には3000人以上の受刑者がいた。最短の陸地まで100㌔の離島にある刑務所なので、主に長期刑の凶悪犯、政治犯が収容されていた。正にメキシコ版アルカトラスだった。なお、ドクトルは島到着後、独房入りさせられ、他の5人と話す機会はなかったため、二人の日本人の名前も知らなかった。刑務所島でドクトルは歯科医として働きたいと志願したため、診察所が作られ、3年間にわたって歯科医として働き、看守、受刑者たちから大いに感謝された。

 ここでマリアス諸島刑務所について簡単に説明しよう。創設は1905年で、2019年に閉鎖され、584名の受刑者は本土の刑務所へ移送された。刑務所を閉鎖したロペス・オブラドール大統領は、景観の美しさと生物の多様性で知られるマリアス諸島は、刑罰と拷問と抑圧の場であるべきではない、とコメントした。なお、本土から船で8時間の距離にある、刑務所島から泳いで脱獄した剛の者がいたが、本土の海岸で逮捕された、との記録が残っている。1930年代のことだった。


写真:(https://tecnm.com)

 なお、刑務所は現在ホセ・レブエルタス文化センターと命名され、子供たちのキャンプ場になっている。レブエルタスは1930年代、この島に二度収監された政治活動家、詩人だった。2005年、マリアス諸島は生物の多様性が認められてユネスコ自然遺産に登録された。マリアス諸島は亜熱帯性気候が快適なので、同島の看守、収容者は一生住み続けたいと言うそうである。何しろ、素行良好の受刑者であれば、妻子を呼び寄せることも可能だった。

終戦後の西村一家

 当時、西村家には三人の子供たちがいたが、三人とも日本内地の小学校に「留学」していたので、敵性外国人集結命令に従った奥様は一人でメキシコ・シティーに向かった。タンピコは米墨国境から400㌔も離れていたため、貨車に乗せられた国境地帯の同胞とは異なり、車で移動できたのは幸運だった。戦争中、西村夫人はドクトルに面会どころか、夫の生死の確認すらできなかった。

 終戦後無罪放免となったドクトルは3年ぶりに愛する妻との再会を果たした。戦争中、京都の学校に通っていた三人の子供たちとの再会はその数年後だった。占領下の日本人の海外渡航は禁止されていたからだ。ドクトルたちは知る由もなかったが、西村家の子供たちの帰墨手続きを担当したのは、ブラジルから帰国した、元情報員K氏の経営する旅行社だった。

第二次大戦中、西村家の子供たちのように両親の生まれ故郷で教育を受けた二世たちが多くいた。戦後、両親の移住先へ戻った(帰国した)子供たちは、メキシコの場合は帰墨2世、米国の場合は帰米2世、ブラジルの場合は帰伯2世と呼ばれた。彼らは10年以上日本語だけの生活をしていたため、母国語を忘れてしまい、帰国するや言葉の練習から始めなければならなかった。


写真:(https://seitokan.worldpress.com)

もう引退されたが、チャボの愛称で親しまれた、ご長男も歯科医の道に入ったが、彼はドクトルとしてもだが、空手のマエストロ(師範)としても知らぬ人はいないほどの有名人である。

 今回、ネットでタンピコ市の日系歯科医師を探したところ、二人の西村歯科医が見つかった。ドクトル・アルベルト・タダシ・ニシムラさんとドクト-ラ・アナ・ルミ・ニシムラさんのお二人である。100年前メキシコへ渡った西村ドクトルのお孫さんたちに違いない。西村市之助先生がメキシコの大地に蒔いた種が見事に根付き、ファミリーの伝統が脈々と息づいていることを知り、「ドクトル、良かったね」とつぶやいたのだった。(終わり)

参考資料:国立国会図書館所蔵 西村市之助録音資料 CD-R VE701-3-1~4