連載エッセイ144:田所清克「ブラジル雑感」その6 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ144:田所清克「ブラジル雑感」その6


連載エッセイ141

ブラジル雑感 その6

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

今回は、日本におけるブラジル文学の受容の問題とミナスジェライス州の歴史、文化、料理について紹介します。

1.日本におけるブラジル文学の受容状況と課題

 
国の違いはあれ、国民の心理、国民性、思考・行動様式を知ろうとすれば、その国の文学を読むことに尽きる。それにしても、この日本おいて何故にブラジル文学の受容は停滞気味で、寂寥感が漂うのか。サンパウロ大学の教授陣との共著のかたちで公にした拙稿’Problema da aceitação da literatura brasileira no Japão’ [日本におけるブラジル文学の受容の問題] はまさしく、この問題を正面切って論じたものである。ブラジルに関心ある日本の読者にとっても、日系人を含めたブラジル人にとっても、この種の問題は考えさせられるところが少なくないので、原文と久保平亮氏による訳文とを合わせて掲載し、参考に供する。

本題に入る前に、専門としてブラジルの文化および文学を選択した理由を説明しよう。筆者は幼少期の頃からアマゾンの動植物相に魅せられてきた。そうしたアマゾンを識るため、大学でブラジルポルトガル語学科に進むことに決めたのである。またそうして四年間を日本の古都・京都で過ごしたのであった。その京都でジョゼー・デ・アレンカールのインディアニズモ小説『イラセマ』(“Iracema”) に出合えたのは幸運だった。トゥピー・グアラニー語の比喩や語彙の豊かな言い回しにいささか手を焼いたことを未だに覚えている。しかしながら独創的なアレンカールの詩的言語は、あたかもシャトーブリアンの『アタラ』(“Atala”) を読んでいるかのように感じられた。

 筆者が大学生の頃、ブラジル文学の邦訳の数はほんの一握りであった。この意味で、日本のブラジル文学の教員としてこうした状況を変える重大な責任があることを知ったのである。ブラジル文学界に多大な関心を持ち、この国には幾許かの珠玉の文学作品があることはすでに知っていたが、大まかにその全容を解説した、日本語で書かれたブラジル文学の入門書のような本は皆無であった。

これは日本人読者がブラジル文学から相変わらず遠ざかっている原因のひとつであり、ゆえに筆者はブラジル文学の入門書の必要性を感じ、八年前に『ブラジル文学事典』を上木した。ブラジル文学の専門家は明らかに不足していたし、今もなお不足している。かかる状況を打破すべく、ジョルジェ・アマード、グラシリアーノ・ラーモス、ジョゼー・リンス・ド・レーゴ、ジョゼー・デ・アレンカールらの小説を題材に『ブラジル北東部の風土と文学』と命名した文学書を上梓することにした。

また、日本人読者が異なるジャンルの文学に触れることができるように名詩選を訳し、『愛詩てる僕のブラジル抒情歌』(“Seleção dos Meus Poemas Líricos Favoritos”) を編んだ。ロマン主義文学を代表するジョゼー・デ・アレンカールや『流離の曲』[Canção do Exílio] のゴンサルヴェス・ディアスから近代主義者のカルロス・ドゥルモンド・デ・アンドラーデ、またカルトーラの『無言のバラ』[As Rosas não Falam] といった世界的に知られている大衆音楽の詩に、ヴィニシウス・デ・モラエスとトム・ジョビンの『イパネマの娘』[Garota de Ipanema] など、代表的な諸作品を織り込むようにした。また、2008年9月に、ブラジル文学史に関する本の出版を企図し、『社会の鏡としてのブラジル文学―文学史から見たこの国のかたち』を発刊した。

 上述のように、日本におけるブラジル文学の受容は非常に「限定的」である。それにもかかわらず、また出版社の置かれる厳しい状況を前にしても、ブラジル文学の幾つかの古典的作品が日本語に訳されていることは刮目に値する。しかしながら、翻訳の絶対数においてヨーロッパ文学とは依然として到底比肩し得ないものがある。

 一方、ポルトガル文学に関しては、ルイース・デ・カモンイスの『ウズ・ルジアダス』(“Os Lusíadas”)、フェルナンド・ペソーア、それからジョゼ・サラマーゴの大部分の小説が翻訳されており、日本語で読むことができる。翻って、ブラジル文学といえば、幾度もノーベル賞にノミネートされたジョルジェ・アマードやギマランイス・ローザ、グラシリアーノ・ラーモス、エリコ・ヴェリッシモらの名作が邦訳された。現在では、およそ50余の諸作品が日本語に翻訳されている。

これらの翻訳版の約四分の一が他言語、特に英語からの重訳であり、このことが翻訳者の力量に関係なく、原文から遠のいたものとなっている。直訳による幾つかの作品は日系ブラジル人によってなされており、その中からはアルイージオ・アゼヴェードの『百軒長屋』(“O Cortiço”) のような翻訳が生まれた。しかしながら、翻訳上の誤植や原文からの逸脱がありがちである。とはいえ、日本人読者はようやくリオデジャネイロの百軒長屋のありのままの現実を知ることができたのであった。文芸誌を通じた翻訳の促進に日系ブラジル人が払った努力は強調されるべきであろう (『コロニア文学』と『日系文学』という素晴らしい好例を参照されたい。

 2008年はブラジル最大の小説家マシャード・デ・アシスの没後百周年を迎え、各地で記念行事が催された。京都外国語大学ブラジルポルトガル語学科のある卒業生と協働でマシャード・デ・アシスの主要三部作のひとつ『ブラス・クーバスの死後の回想』(“Memórias Póstumas de Brás Cubas”) を翻訳し、2009年1月に発刊した。

 2002年にはすでに、彼の主要三部作の別の一作『ドン・カズムーロ』(“Dom Casmurro”) を日本で最も著名な文芸誌のひとつ『論座』に発表し、日本人読者に紹介した [註. 2008年に休刊]。マシャード・デ・アシスの諸作品は (ブラジル文学界の) 最高峰に位置し、文芸評論家から大きな評価を受けている。

 ジョルジェ・アマードについては、2008年10月に彼の有名な作品『丁子と肉桂のガブリエラ』(“Gabriela, Clavo e Canela”) の第二版が刊行された。 日本では稀有の現象であるが、ブラジル文学の関心の高まりを反映していると言えよう。この第二版によって、日本人の評論家がジョルジェ・アマードに対してこれまで以上の注意を払うようになるかもしれない。

 ここで少しばかりの余談を乞う。世界でブラジル人作家について語られるとき、かのパウロ・コエーリョが必ず言及されるが、多くの国々と同じように、彼は日本でも出版市場に絶大な影響力を持っている。彼の主要作品がすべて日本語に訳されること自体、一億二千万人以上の読者を抱える巨大市場であることからすれば、当然のことと言えよう。

 ブラジル文学の最良のものに目を向けると、言及するに相応しいのは、地方主義文学である1930年代小説の他に、ジョゼー・デ・アレンカールのインディアニズモ作品 (ロマン主義時代)、マシャード・デ・アシスおよびアルイージオ・アゼヴェードの作品 (写実主義・自然主義時代) である。これらの古典的作品を通じて、日本の一般読者は、ようやくブラジル文学を至高の世界文学と同水準に位置づけられるようになった。

 ところで、文学研究、とりわけ日本におけるブラジル文学に関してはジョゼー・デ・アレンカール、マシャード・デ・アシス、ジョルジェ・アマードを除けば依然として取り上げられていない。現状を打破するには、日本で文学を教授する教員各人の使命と責務が極めて重要である。「ブラジルを識る最良の鍵はブラジル文学を知ることである」という確信を抱いている。したがって、筆者は高名なブラジル文学の専門家諸氏―アントニオ・カンジド、エルベルト・サレス、アルナルド・ニスキエル、ジルベルト・メンドンサ・テレス、そして2001年亡くなったジョルジェ・アマード等―との交流に努めた。

 十九世紀の明治維新まで、日本における外国文学の受容は中国文学に限定されていた。この点で、「外国文学」または「世界文学」は、日本にとっては「中国文学」と同義であった。中国語翻訳の一方的影響は大正時代にまで及んだ。しかしながら、明治政府は文明開化 (またの名を西欧化とも) に向けて尽力し、その富国強兵政策は西欧世界に目を向けざるを得なかった。そうしてスラブ文学とロシア文学を含むヨーロッパ文学が翻訳され、ヨーロッパ諸国に留学に行った森鴎外や夏目漱石など当時の主たる知識人や文士に紹介されたのである。これが転換点であり、興味関心の中心がヨーロッパ文学を中心に動くようになった。かかる状況は今日でも同様である。しかし、この新たな「基軸の転換」では、日本人読者が西欧以外の世界文学―それがラテンアメリカであれアフリカであれ南西アジアであれ―に触れるのは困難であった。それらが紹介されたのはつい最近のことである。

 日本では、1970年代にラテンアメリカ文学が澎湃として起こったが、スペイン語圏文学、なかでもホルヘ・ルイス・ボルヘス、ガブリエル・ガルシア=マルケス、オクタビオ・パス、パブロ・ネルーダなどに限られていた。例外は、文学研究やブラジル文学の邦訳を続けていた日系ブラジル人コミュニティの自発的な活動であった。それにもかかわらず、彼らの優れた労作が多くの日本人読者の許に届くことはめったになかった。

 いま一つ述べておきたいことは、事の真否は別にして、“Bandeirantes e Pioneiros: paraleros entre duas culturas” (邦題:『奥地探検隊員と (米国の) パイオニアたち:二つの間の文化比較』) の著者ヴィアーナ・モウグの言説に従えば、ブラジルの知識人の間には、外国の事物に対する憧れの気持ちがある反面、自国のものに劣等感情を覚える意味の、いわゆるマゾンビズモ (Mazombismo) がみられるということである。また他方において、彼らの間には、歴史家カピストラーノ・デ・アブレウが述べるように、西欧文化に対して抱く強い憧憬、すなわち海外憧憬主義 (Transoceanismo) が存在する。この点において、日本およびブラジルの知識人は、ある意味で西欧文化に対して憧憬の念を抱きながら、劣等感をも感じていると言えよう。その結果、日本の知識人の大多数が欧米中心主義 (Euroamericocentrismo) に冒されており、こうしたヨーロッパを過度に重大視する伝統は、陰に陽に外国文学の受容のあり方に影響を及ぼしている。

 ブラジルが日本移民を受け容れてから一世紀を経たにもかかわらず、ブラジル文学が現在日本に住んでいる30万人 [註. 最新の法務省の在留外国人統計(2019年6月)では20万6886人] を超える日系人に顧みられることはなかった。極めて活気あふれるスペイン語圏のラテンアメリカ文学の有り様と較べると、相も変わらず相当な懸隔があるが、これには幾つかの理由が考えられる。それは第一に日本の知識人や文士の「ヨーロッパ文学への傾倒」、そして第二に、ポルトガル語に長けた翻訳家がいないためであろう。

 今日、日伯間の盛んな人的交流によりポルトガル語を学ぶ日本人の数が増えてきている。しかしながら、能力のある翻訳者が揃っている英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語の学習者と比較すると、未だはるかに少ない。その意味において、ブラジル文学を日本人の間に普及させるには、ポルトガル語の言語運用能力を身につけた学徒を養成するという取り組みを継続することが重要であろう。とどのつまり、ブラジル文学とはブラジル人の国民性を識る最良の鍵であり、多人種社会に観られる多様な価値観を包含したものなのである。
(原題:’Aceitação da Literatura Brasileira no Japão’. In: Araujo, Gabriel Antunes de & Aires, Pedro (orgs.). A língua portuguesa no Japão. São Paulo: Editora Paulistana, 2008, pp. 45-50.)

<参考資料(丸カッコ内は原著の作者、作品名、初版年のみを記す)>
アルイージオ・アゼヴェード著、外波近知訳『百軒長屋』、初版年不詳。(Azevedo, Aluísio. “O Cortiço”, 1890.)
伊藤奈希砂・伊藤緑訳『ドン・カズムーロ』、彩流社、2002年。(Assis, Machado de. “Dom Casmurro”, 1900.
『ブラス・クーバスの死後の回想』、国際語学社、2009年。(Assis, Machado de. “Memórias
   Póstumas de Brás Cubas”, 1881.)
シャトーブリアン著、畠中敏郎訳『アタラ/ルネ』、岩波文庫、1989年。(Chateaubriand, François-René de.“Atala,ou Les Amours de deux sauvages dans le désert”, 1801.)
ジョゼー・デ・アレンカール著、田所清克訳『イラセマ―ブラジル・セアラーの伝承―』、彩流社、1998年。 (Alencar, José de. “Iracema:Lenda do Ceará”, 1865.)
ジョルジェ・アマード著、尾河直哉訳『丁子と肉桂のガブリエラ』、彩流社、2008年。(Amado, Jorge. “Gabriela,Clavo e Canela”, 1958.)
田所清克『ブラジル文学事典』、彩流社、2000年。
『愛詩てる僕のブラジル抒情歌』、金壽堂出版、2004年。
『ブラジル北東部の風土と文学』、金壽堂出版、2006年。
『社会の鏡としてのブラジル文学―文学史から見たこの国のかたち』、国際語学社、2008年。
ルイース・デ・カモンイス著、小林英夫・池上岑夫、岡本多希子訳『ウズ・ルジアダス―ルシタ  
ニアの人びと』、岩波書店、1978年。(Camões, Luís Vaz de. “Os Lusíadas”, 1572.)
Moog, Vianna. “Bandeirantes e Pioneiros: paralero entre duas culturas”, 1954.

2.ミナスジェライスさまざま

1)エントラーダとバンデイラたちが発見した金によって発展した18世紀のミナスの街

 16世紀の後葉頃から、金や貴金属の発見と奴隷化のためにエントラーダ (entrada) やバンデイラ (bandeira) が組織されるようになった。前者はポルトガル政府から支援を受けた奥地探検隊、対する後者はサンパウロの農園主や商人によって援助・組織された奥地探検隊を言う。両者とも、ブラジル奥地を開拓する目的も兼ねていたので、それが結果的に領土拡大にもつながった。

 1693年から1695年の間、バンデイランテス (bandeirantes:奥地探検隊員たち) は、ドーセ川渓谷および今日のミナス・ジェライスのサバラー、カエテース市界隈で、金とダイヤモンドを発見する。因みに、発見の地域はミナスに限らず、さらに内奥の中西部地域のマット・グロッソ州やゴイアース州にまで及んでいる。そうした金とダイヤモンドの発見は隠し通せるわけもなく、そのニュースは人から人へと拡散し、またたく間に「ゴールドラッシュ」を引き起こすこととなった。かくして、当時としてはもっとも重要な地域であった北東部からはむろん、他の地域、そしてポルトガルからも一攫千金を夢見た多くの冒険家が大挙として押し寄せる。

 山岳地帯ゆえに人口希薄であった南東部の内陸部のマリアーナ、サバラー、ヴィラ・リカなどの街。18世紀に至るとそれらの街、わけてもヴィラ・リカは一転して、金産出の恩恵を受けて急速に発展し、繁栄の絶頂を極める。そして、政治的に独立した翌年の1823年にはヴィラ・リカは「オウロ・プレットの帝都」(Cidade Imperial de Outro Preto) と呼ばれるようになり、計画都市であるベロ・オリゾンテに州都を取って代わられる1897年までその地位を保ち続けるのである。

 ところで、ミナスの原住民が金の産出で直接の恩恵を被ることはあまりなかった。むしろ逆に、富の大半は植民地本国のポルトガルに収奪され、重税に苦しんだ。しかしながら、年間14トンにも上る金の産出が、このミナス地方にバロック様式を華開かせ、数々の至宝の芸術を生んだのも事実である。次回は、このミナスの金と芸術について素描したい。

[補記] ヴィラ・リカは今日ではオウロ・プレット (Ouro Preto「黒い金」) と名前を変えている。かつて貴金属を探していたバンデイランテが、酸化鉄で被われた黒い石を発見する。これこそが金であり、その「黒い金」にヴィラ・リカなる街の名は由来している。

2)“黄金の街“オウロ・プレットのバロック芸術の至宝に触れる前の、ミナスの典型的な料理を舌鼓できることの幸せ

前回述べたように、ベロ・オリゾンテからオウロ・プレットへは、山間を縫ってのバスの旅だった。州都ベロー (Belô) [ベロ・オリゾンテの愛称] では出発までに時間があったので、オスカー・ニーマイヤーの設計による、パンプーリャにあるサンフランシスコ・デ・アシス教会を訪ね、その壮麗な独創性あふれる流線形の造りに圧倒された。

 オウロ・プレットはベロ・オリゾンテから97,9キロの距離にある。国道356号線でバスならば所要時間1時間半程度。あっと言う間に着いた感じ。到着するや否や、先ずは予約先のGrande Hotel Ouro Pretoに向かいチェックイン。荷物を預けて玄関近くのホテルの室内に目を向けると、何と驚くなかれ、このホテルもオスカー・ニーマイヤーの設計で建造されているではないか。偶然とはいえ、3時間前にベロ・オリゾンテで同建築家の手になる教会を見ていただけに感動はひとしおで、不思議な縁さえ感じたほどである。

 とっくに正午を過ぎている。ポルトガル語で’Saco vazio não fica em pé’という表現がある。[空の袋は立たない] という意味、つまり「腹が減っては戦はできない」ということ。ことほど左様に、お腹ペコペコ (Estou morrendo de fome) の状態の私である。ロココ調およびバロック調の室内装飾、宗教建築等の殿堂で、街全体が歴史都市として1980年にユネスコによって世界文化遺産に登録されているオウロ・プレット。この街をじっくり見学するために、ひとまず腹ごしらえすることにしよう。ミナスは食文化面でも際立っている。であるから、予定を変更して次回は、典型的なこの地の郷土料理について触れてみたい。

3.ミナス特有の料理を味わう

 ミナスジェライス州のものを除いて、南東部の料理としてブラジル国民の間でよく知られているのものを挙げるとすれば、次のものになるだろう。エスピーリト・サント州のモケッカ・カピシャーバ (moqueca capixaba)、サンパウロ州の豆料理であるラード・ア・パウリスタ (virado à paulista)、ファルネル・ドス・バンデイランテス (farnel dos bandeirantes)、クスクス・パウリスタ (cuscuz paulista) などはその典型かもしれない。中でもリオデジャネイロ州のフェイジョアーダ・カリオカ (feijoada carioca) などはその代表例。ちなみにイタリア移民の多いサンパウロ州では、彼らがもたらした食文化の最たるものであるピザが多様なかたちで食卓に供され、本場イタリアよりも美味であるとさえ言われている程である。

 ところで、ミナス地方は食文化の面でも光芒を放っている。したがって、このことに異論を唱えるブラジル人はいないかと思う。ミナス料理といえば真っ先に頭に浮かぶのは、地方名を冠したトゥトゥ・ア・ミネイラ (tutu à mineira)、ケイジョ・ミナス (queijo minas) だが、それ以外にもあまたの料理が存在する。中でも、フランゴ・コン・キアーボ (frango com quiabo)、オーラ・プロ・ノービス (ora-pro-nóbis)、レイタン・ア・プルルカ (leitão à pururuca)、フランゴ・コン・オーラ・プロ・ノービス (frango com ora-pro-nóbis) はその代表例。

 さてさて、本日の昼食は何にしようかと思案する。が、ミナス料理のあまりにも多いのに目移りがする。あれこれ考えた挙句、昼食はフェイジョン・トロペイロ (feijão tropeiro) に決めた。オーロ・プレットには三日間の逗留予定なので、他のミナスの郷土料理を味わう機会はあり、そう心配することもない。そんな思いで今は注文した料理を今か今かと待ちわびて、もはや垂涎さながらの自分が滑稽にさえおもわれる。

 ロバやラバに荷を積んで旅する人を「トロペイロ」(tropeiro) という。彼らは、茹でた豆をマンディオカの粉と炒めて味付けしたものを旅先で食してきた。このフェイジョン・トロペイロの料理はなにもミナスに限定されたものではなく、ブラジル通有のものであるが、ミナス風のそれには炒り卵も加味されている。その点で、他の地域のものとはいささか異なる。
 豚肉のロース、腸詰め、脂身の揚げ物の入った例の料理がテーブルに供されると、美味しさのあまり、一気に平らげた。「空腹にまずいものなし」という諺があるが、ポルトガル語流に表現すれば、”Quem tem fome tudo come”「空腹の者は一切残さず全て食べる」となるだろう。

 腹ぺこの私ではあったが、腹を空かしていなくとも美味しさが五臓六腑に染み渡る最高の料理で、充分に堪能できた。しかも、フェイジョアーダさながらにエネルギーを蓄えることもできた。昼食後間もないのに食いしん坊の私は、もう夕食の料理のことが頭から離れない。恐らく夕食はレイタン・ア・プルルカを食べることになるだろう、コクのある赤ワインと共に。
[補記]
ミナス、ことにトリアングロ・ミネイロ (Triângulo Mineiro) [=ミナスの三角地帯] に位置するウベランディアやウベラーバは、ブラジル有数の牧畜地帯。そこで飼われる牧牛は、美味しい乳となブラキアーリア (braquiária) の如き草を食んでいる。このことが上質のチーズを生んでいるそう。

[主たる参考文献]
Fernandes, Caloca. Viagem gastronômica através do Brasil. São Paulo: Senac, 2017.
田所清克・大浦智子著「食彩の世界ーブラジルのローカルカラー豊かな郷土料理」(100回開催記念特別号)。In: Mare Nostrum、地中海文化研究会、2004年。

4)言葉で言い表せないほど絶妙の、ミナス風の子豚料理レイトン・ア・プルルカ

 前回、昼食ではレストランが集まっている、それも客が多そうなところをわざわざ択んで、ミナスの代表料理の一つであるフェイジオン・トロペイロを堪能したことを述べた。その名物料理を味わった後、中心部の由緒ある18世紀の歴史事跡、教会を主とするバロックおよびロココ様式の宗教建築物等の見学と洒落こんだ。これらについては後日、詳述することにして、ここでは名だたるミナスの食文化を中心に筆を執りたい。

 メニューには目を通さず今日の夕食でオーダーしたのはやはり、レイトン・ア・プルルカであった。プルルカ (pururuca) とはインディオの言葉で「豚の皮」を意味することのようであるが、トゥピー語辞典で当たってみても分からず終い。この豚の皮をカリカリに揚げた田舎料理の典型は、ミナスジェイラス州ばかりかサンパウロ州やパラナー州などでも存在するらしい。しかしながら、個人的に私はそれを検証するに至っていない。とはいえ、昔、私がブラジルの田舎語法の研究を展開していた頃に愛読していたアマデウ・アマラウ (Amadeu Amaral) の手になる『田舎方言』(O Dialeto Caipira) の書のなかにも、プルルカについての言及があったような気がする。

 ともあれ、フェイジョン・トロペイロと並んでレイトン・ア・プルルカが、他の地域のそれとは一味違うものであることは確かである。冷酷無情にも子豚を食べることへの後ろめたい気はあるが、そのレイトン・ア・プルルカ料理の旨さと言ったら―。そういえば、2012年に学生を引率してコインブラ大学で研修していた折に、ポルトガル人留学生の御宅に招かれて、本場バイラーダのレイトン料理を味わったことがある。これまた最高の料理で、美味しさのあまり、顎が落ちるほどであった。

 ブラジルと違い今の時季のポルトガルは、辺り一面に真っ黄色のミモーザの花が咲き誇っているに違いない。そうした牧歌的な雰囲気を醸し出している点では、ミナス地方も同様である。そんな土地で食文化に直に接することができるのは、何にもまして幸せなことだ。

5)豚肉がよく使われるミナス料理

 18世紀以前のミナス料理は概して、ブラジルの文化の基底をなすポルトガル、インディオおよびアフリカ的要素が融合し、とくにインディオのそれを基調としたものであった。したがって、他のどの地域よりもその三つの民族の料理 [法] と食文化が反映され、多様性を帯びている。マンディオカとトウモロコシをベースにした、インディオ出自の料理が主流であったのは言うまでもない。

 その後、厳密には18世紀以降、マンディオカとその派生物ばかりか、豚肉、牛肉、ミルク、トウモロコシ、根茎、植物の葉などの多様で独自な食材も使われるようになった点で、今やミナス料理は国民料理のなかでも際立った存在になっている。しかしながら、ゴイアース、バイーア、リオ、サンパウロ、エスピーリト・サント諸州の食文化も、ある意味でミナスのそれを踏襲したものと観る食文化研究家がいることは黙過し得ない。

 ところで、前回のレイトン・ア・プルルカ料理が好例のように、ミナス料理では豚肉がよく使われる。豚の腰肉もしくはリブの入ったトゥトゥ (tutu) [フェイジョン豆を煮つぶして、マンディオカの粉を混ぜたもの。腸詰めやゆで卵で盛り付けられる] もその一例であろう。さらに、ミナス料理の典型を挙げるとすれば、腸詰め (linguiça)、トウモロコシ、キャベツなどと牛もしくは豚肉で作ったカンジキーニャ (canjiquinha) [一種のお粥]、フランゴ・コン・オーラ・プロ・ノービス (frango com ora-pro-nóbis:オーラ・プロ・ノービスとは匍匐 [ほふく] 植物のことで、その葉が料理に使われる。ツヤのある濃緑色をしており、その成分がネバネバしていることから “陸のワカメ” といった感じ。語源はラテン語に由来し、お祈りの言葉に因んだもの。料理そのものは、その植物の葉を鶏肉とミナス風に煮込んだものである) などもそうである。フランゴ・コン・キアーボ (frango com quiabo) もミナスの伝統料理であるが、これはただオーロ・プロ・ノービスがキアーボ、すなわちオクラに替わっただけのもの。

 以上の他にも、ミナス料理は山ほどある。文量がかさむのでこの辺りで終止符を打ちたい。残りは次回に回し、この地方の名物である菓子類と合わせて言及する。

6)それ以外の典型的なミナス料理とお菓子類

ミナスは自然地理学的に、京都のように盆地に囲まれ、しかも、ブラジル高原に位置していることもあって日較差が激しく、日没後の夜ともなれば冷え込む。そうした気候を反映してか、レシピには温かい煮込み料理が少なくない。

 「鉱山」や「鉱脈」を意味するミナス (minas) の州名を冠している土地柄ということもあって、伝統的な料理に黒い鉄鍋が使われることが多い。前回、ミナス地方は上質のカシャサ (cachaça) を産出する屈指の地域であることに触れた。それかあらぬか、カシャサが食事の際によく飲まれることも付言しておく。

 ミナス料理はシンプルで、「家庭料理」(comida caseira) という言葉がぴったりだ。前にも述べたが、フェイジョン豆、マンディオカ、トウモロコシ、豚肉、鶏肉、牛肉、葉野菜、オクラ、ミナス産チーズなどが主たる食材になっている。ミナス特有の料理といえば、これまで取り上げたもの以外に、ヴァッカ・アトラーダ (vaca atolada) [リブロース (牛のアバラ肉) とマンディオカを、ニンニク、唐幸子、塩などでミナス風に煮込んだ料理] がある。「泥の中にはまった」という謂のアトラーダさながらに、肉の浸かったスープはドロッとしている。
 サイズも味も地方によって異なるが、パン・デ・ケイジョ (pão de queijo) はブラジル中で食べられる。しかしながら、モチのような食感の、マンディオカの澱粉であるポルヴィーリョ (polvilho) から作られたミナスのそれは格別だ。

 スパイスの一種であるエルヴァ・ドーセ [日本語でいうところのフェンネル] で風味をつけた、フバーを材料にした焼きケーキのボーロ・デ・フバー (bolo de fubá) もミナス料理の一つである。

 ミナス料理は枚挙にいとまがない。これぐらいにして、菓子類の典型のものを紹介しよう。その最たるものはやはり、ドーセ・デ・レイテ (doce de leite) かもしれない。キャラメルのような見た目の、牛乳と砂糖で作ったお菓子である。クリーム状のものもあり、カスタードクリームのように様々なお菓子に利用される。パン・デ・ケイジョもそうであるが、牧畜の盛んな土地であることがこうしたお菓子を作り出しているのかもしれない。お菓子の類で挙げるとしたら、ブローア・ミネイラ (broa mineira) もそうだ。フバーで作られた一種のビスケットで、これにもエルヴァ・ドーセが練り込まれている。

7)引き出しのある食卓でなされる ミナスの奇妙な食習慣

ミナスの地では、食卓での食物の中味の良し悪しは家長の沽券に関わる、重要度を示す証でもあったらしい。であるから、来客に見られぬようにと、食事している家族は質素な食べ物を隠すのが習わしになっていたそうだ。そうした習慣の下、予期せず来客があるとすぐさま、家への印象を悪く思われないために、食膳の料理は机の下にある引き出しにしまわれた次第。
 この種の習慣は長い間、ミナスのみならずサンパウロ奥地でもみられたそうな。またこの手の習慣は、昔の日本、わけても村落社会でもあったような気がする。
[補記] 本文はその大半が、サンパウロ大学の親友 Vera Vilhena de Toledo先生の書O Brasil põe a mesa, São Paulo, Moderna, 2009, p. 48. に依拠している。