連載エッセイ149:田所清克「ブラジル雑感」その7 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ149:田所清克「ブラジル雑感」その7


連載エッセイ146

ブラジル雑感 その7

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

今回は、州民性の違いと再度ミナスジェライスについて取り上げたい。

1)高名なブラジルの文化人ヴィアーナ・モオグが観る県民性ならぬ州民生徒地域性 -カリオカ、パウリスタ、ミネイロを事例に

 私のブラジル民族文化論の基底の多くは、ブラジル翰林院 (Academia Brasileira de Letras:ABL) の会員で名著『奥地探検隊員と(米国の) パイオニアたち』(Bandeirantes e Pioneiros) の著者ヴィアーナ・モオグ (Vianna Moog) に負うところが大きい。事実、彼の言説なり解釈法は多くの自著の骨格をなし、これまで幾度となく引用したり援用したりしてきた。のみならず、自説を展開する上で理論武装する土台にもなっている。

 その作家にしてジャーナリストでもあった文化人が、昭和57 (1982) 年11月17日、当時教鞭をとっていた大学で「ブラジル文化の特質について」なる演題の下に講演された。すでに上記の著書を入手し通読していた私は、書を持参して講演に臨んだ。通訳付きということもあって高度な内容の講義も理解できて、大いに勉強になった。のみならず、モオグ流のブラジル文化および地域性についての理解なり解釈法は、以後の自身におけるこの国の文化を解釈するにあたってすこぶる有効な指針と方法論を与えてくれたような気がする。講演終了後に挨拶に出向くと、一介のブラジル研究者に過ぎない私に対して、ブラジル学に邁進するべく熱い激励の言葉をかけてくださり、私が手にするBandeirantes e Pioneirosを目にしていたく感動され、サインまでしてくださった。

 前置きが長くなったが、以下はヴィアーナ・モオグが前掲書の中で言及している州民性および地域性の研究の一節である。同じ南東部といえども、パウリスタ、カリオカ、ミネイロの各住民にとっては当然のことながら、その歴史の成り立ちや自然・文化風土が異なる。このことが州民性に影響を及ぼしている、とモオグは観ているのである。その三つの州に言及している部分を引用しつつ縷述することにしたい。

 モオグは言う。リオっ子すなわちカリオカ (carioca) の特性とリオという地域性は、アナトール・フランスが言うように、愛によって微笑むのでもなければ、美しさによって微笑むのでもなく、そのエッセンスにおいては甘く温情的であるけれども、怒りを笑いが静めるときのように馬鹿な人々あるいは悪い人々に対して嫌悪感を抱かせ、またそれがなければその人々を憎むというような一つの弱みをみせることもない、と。そして批判主義的な文化、皮肉等によって他人を批判するという特性が、リオの文化の中核をなし、そこでは文字通りカリオカ的なアイロニーが感じられる、とも言う。

 続いてパウリスタ (paulista) についてはこう述べる。全く普遍性に欠けるミナス (ミネイロ) 文化圏と対照的なのがサンパウロ文化圏である。パウリスタはサンパウロを起点として出発したバンデイランテス (奥地探検隊) の精神を文化に反映させている。しかも、サンパウロに生じた精神的な声の代弁者として出発した、このバンデイランテスこそが州の普遍主義、今日でいうところの国際主義であり、地理的、経済的、政治的、文化的、社会的な特性となっている。この点からすれば、パウリスタは開拓者精神にあふれ、それは時に、征服者としての帝国主義的な一つの意味も体している。サンパウロ州の人間は、一つのアイデアを自分のものにするとそれをすぐに他人に伝え、国中に自分のアイデアを吹聴して回る特徴がある、と。

 ミナスはハイネの詩のように一つの耽美的な言葉を持つが如き文化圏である。他の文化圏を論ずる場合は地理的な状況を無視できるが、ミナスにあっては地理的な要素が否定できない。であるから、ミナスを語るに当たっては地理的な状況を第一面において考慮すべきである。山で囲まれた盆地で、さも硬い殻に閉じ込められたがごとき世界のミナスには、外の世界とは全く異なる文化が息づいている。結果として、そこには頑固なまでの封建主義、別の言葉で表現すれば、地域主義が存在する。これがひいては、ハイネが言ったような山間人さながらの、内向的かつ閉鎖的な地域主義の人間を生み出している。そうした気質というか特性は、ミナス生まれの詩人カルロス・ドゥルモンド・デ・アンドゥラーデやシーロドス・アンジョスの作品にも如実に投影されている。

 以上がモオグの観る三州の地域性と州民の気質であり社会的性格である。その三地域の州民とのこれまでの接触・交流と、モオグの著書を通じて私は、彼らが根差す地域の特性と州民性がある程度は分かったような気がしている。

2)ミナス名物人形ナモラディラ

 以前のミナスへの旅では見過ごしていたナモラデイラ (namoradeira) を、三度目の旅でようやくチラデンテス (Tiradentes) の地で見ることができて感動した。チラデンテスにかぎらず、ミナス州の内奥部では、街路に面した窓辺やバルコニーに飾られたナモラデイラの人形をそこかしこで目にすることができる。
 
人形は木材あるいはセラミック、石膏、樹脂などの素材で作られ、サイズも大小さまざま。ナモラデイラの眼差しは例外なく窓外に向けられ、その姿態はさも恋する人を一途に待ち詫びているかのような印象を受ける。それにしても、初めて目にした瞬間はやはり、人形であるからなのか、ドキリとさせられるものがある。窓から目線を向けるその人形は、想像をたくましくすれば、格子戸越しに妖艶な姿で客人を呼び込む赤線地帯、つまり遊郭の売笑婦に想えなくもない。それほどに派手な化粧と襟ぐりの深いドレスをまとっているナモラデイラは官能性に満ちている。

 ところで、ナモラデイラとは「恋多き女」、「浮気女 (flirtatious)」の謂である。ミナス名物でもあるので、私も旅の途次、想い出の品としてお気に入りのものを一つ買い求め、日本に持ち帰っている。それが今、ミネルバの梟 [学問の神様とも言われるので、職業としての学問の道に進んだ私には不可欠な存在] の置き物と共に、居間のテレビの前の空間を飾っている。このナモラデイラの起源や目的などに関して素朴な疑問を抱き、また興味を持った私は、早速その疑問や謎を解き明かすべく、いくつかの文献に当たってみた。が、詳しく解説したものは残念ながら見当たらなかった。従ってここでは、文献等を通じて知り得たことのみを記したい。

 起源は150年前のミナス内奥部とみなされているが、判然としていない。昔、女性は外出もままならず、恋人にも会えず家に引きこもる生活であった。そうした容易ならざる日常において、窓辺に身を乗り出して恋人を待ち侘びたそうな。
 概してナモラデイラの人形は上半身のみで、しかも右手で頬を支えているものが多い。そのうえ、官能性の表徴たる肉感的な黒人女のものが少なくない。こうしたステレオタイプ的な偏見に満ちた黒人女性像の捉え方を、差別的と観る者もいる。サン・ルイースにもミナスに類する人形があるようであるが、私は寡聞にして知らないし、確認するには至っていない。

3) 18世紀のミナスの芸術文化(その1)-バロック様式およびロココ様式の精華

 
周知のように、バロック芸術はグレコローマンのモデルの、均整美と調和に重きを置くルネサンス美術の反動のかたちで発現した。その意味では、ギリシア・ローマ時代に立ち返り、その古典文化の復興に努めながらも教会主導の中世的な世界観からは距離をおき、個我の尊重と人間性の解放を標榜したルネサンスとは対照的であり、一線を画するものと言える。
 
バロック芸術全般の特徴を挙げるとすれば、劇的な描写技法はむろん、宗教的テーマ、二重性、過度の装飾性、矛盾する一瞬の感情や情熱の吐露、強い明暗法による対比、曲線模様の多用、さらには思想面での半宗教改革などであろう。ところで、バロック (barroco) なる言葉が “歪んだ真珠” という謂のポルトガル語から来ていることはよく知られているところである。一世紀前に「発見」されたブラジルにポルトガル人開拓者が居を構え、本格的に定着することとなる1600年頃には、ヨーロッパではすでにバロック様式が花開き、画家、彫刻家、音楽家たちの多くはその美学に沿った作品作りに精励していた。

 ブラジルのバロック様式に根差した芸術を、まず文学のジャンルから展望すると、その嚆矢をなすのは、1601年の詩人ベント・テイシェイラ (Bento Teixeira) の手になる『擬人法』(Prosopopéia) である。が、バロック文学の本質を具現している詩人となれば、やはりグレゴーリオ・デ・マットス (Gregório de Matos) とアントーニオ・ヴィエイラ (Antônio Vieira) の二人になるだろう。前者は、宗教詩以外にも、搾取・収奪するポルトガル本国を風刺 (揶揄) した詩作でつとに有名である。翻って後者は、説教集で知られ、説得力のある雄弁術は現在に到るまでその模範とさえなっている。

 ブラジルにおけるバロック音楽の著しい進展は、ミナスジェライス州での活発な金採掘活動と軌を一にするものであった。音楽自体はバイーア、レシーフェ、ミナスジェライスの各々の学派が実践していた広範なジャンルをも包含するものであったようだ。その音楽は概して、教会と深く結びついたものであり、多くの場合、ムラート (mulato:白人と黒人の混血児) からなるオルガン奏者たちがナポリのオペラやポルトガルの宗教音楽に曲想を得たもののようであったらしい。

 バロック時代の絵画はほとんど彫刻と同じ特徴 —すなわち対比や錯覚を生み出す動きのあるもの、遠近法の使用、明暗の強調などを表現するものであった。したがって、バロック様式が存続していた間の教会の木彫の天井は、そうした特徴を採り入れ、奥行き、浮き彫り、動きを感じさせるような絵画で覆われている。しかも、青い色調のポルトガルのアズレージョ (azulejo) を模倣したような絵画も散見される。当時はまだアーティストと呼ばれることのなかった職人もしくは職工たちではあったが、彼らは多芸に秀で、一人で画家、建築家、彫刻家、掘り師などの役割を果たしていたそうな。

 ミナスにおける《金サイクル》の時期のバロック様式およびロココ様式は、室内装飾から絵画、工芸、彫刻、建築など全般に及ぶ。わけても新古典主義 (Neoclassicismo) に先立つ後者は、ブラジルではバロック末期に発現する。繊細な異国趣味的な優美さを呈し、S字状曲線や螺旋形の表現にその主たる特徴がみられる。そして、バロック様式と共に十八世紀のミナスの芸術文化の要諦をなすに到る。見ればみるほど過剰と思われる華美な装飾。それに、絵画や彫刻では熱帯的な様相を引き出すためなのか、黒人やムラートを題材としているところに私は個人的に引き込まれ、バロック芸術の神髄をみる思いがする。

4)18世紀のミナスの芸術文化(その2)―病との壮絶な闘いの中でバロック様式およびロココ様式の極致に達した名匠アレイジャディーニョ

 私たちは、絵画の世界でのカラヴァッジョ、レンブラント、フェルメール、ルーベンス、ベラスケス、また他方、音楽のジャンルにおけるバッハ、ヘンデル、『四季』の作曲でお馴染みのヴィヴァルディなど、バロック時代の著名な画家や音楽家の存在はある程度は知っている。これがブラジルのバロック時代のアーティストともなると、おそらく大多数の人がご存知ないのではなかろうか。しかしながら、この国のバロック芸術を代表する人物をと問われれば、当のブラジル人なら誰でも即座に返答することだろう。

 その人物とはアレイジャディーニョのことである。少なくとも彫刻、建築などの造形芸術の領域では、彼を超える者は見当たらない。であるから、彼の名は芸術史のみならず、この国の歴史において燦然と輝いている。多才な芸術的天稟もさることながら、アレイジャディーニョ本人が病と闘いながらも必死に創作に打ち込んだことなども、芸術家としての名声を高める要因になっているように思われる。

 「アレイジャディーニョの生涯」

 
本名アントーニオ・フランシスコ・リズボア (Antônio Francisco Lisboa) は1738年、ポルトガルから渡伯し大工としてヴィラ・リカ (Vila Rica) で働く父マヌエル・フランシスコ・リズボアと黒人奴隷女との間に生まれる。抜きんでた技術によりミナス随一の建築師であった父の下で、アレイジャディーニョは20歳の頃から技術を習得し、彼の片腕となって働くようになる。ノッサ・セニョーラ・ド・カルモ教会や、ヴィラ・リカが誇りにするサン・フランシスコ・デ・アシス教会などは、父から技術を学ぶ場ともなった。

 リズボアが29歳の時に父が他界、以後は自らの勤勉さで運命を切り拓くこととなる。彼にとっての僥倖は、当時、彫刻師として名高きフランシスコ・シャヴィエル・デ・ブリトからも、助手として働きながら指導を受けていたことだ。将来、名匠たる存在になり得たのも、自身の素質以外に、そうした師匠たちの教えを乞い修練を重ねたからであろう。が、不幸なことに、アレイジャディーニョがフランシスコ派の教会の美装工事に取りかかり始めた頃からハンセン病の兆候が表れ始め、その病のために身体が次第に腐爛していく。挙げ句、手指を失い、ことごとく歯は抜け落ちて、醜悪極まる人相になる。彼が不具者 (Aleijadinho) と呼ばれるようになった所以である。

 重篤な身であるにもかかわらず、敬虔な信仰家であった彼は一時たりとも聖書を手放さず、芸術に精進することで信仰の道を求めたそうである。バロック芸術の至高の作品を数多く生み出したのも、ひょっとしたら彼が不自由な身であったからかもしれない。手指を失ったアレイジャディーニョが奴隷の助力を得ながら、手首にノミとツチを結び付けて仕事に挑む執念とその姿勢には、全くもって感服させられる。生年月日ははっきりしていないようだが、最晩年は極貧で家族からも見捨てられたという。そして、1814年11月18日の早暁、76歳で永眠する時は盲目であったらしい。

 際立った独自性と豊かな表現力に特徴づけられる、彼の手になる宗教建築、祭壇装飾、聖像などのすべてが、最高傑作との誉れ高い。この意味において、アレイジャディーニョの存在なくしてブラジルのバロック芸術は語れないのである。

[参考文献]
CARCEZ, Lucília & OLIVEIRA Jô. Explicando a arte brasileira. Rio de Janeiro, Ediouro, 2003.
佐藤常藏著『ブラジルの風味』、日本出版貿易、1957年。
アルナルド・ニスキエル (編)『ブラジルを識る100キーワード』、Rio, Instituto Antares, 2008年。

5)16世紀のミナスの芸術文化(その3) -名匠アレイジャディーニョ

 病による身体的不自由にもかかわらず、アレイジャディーニョが高齢まで芸術活動を続けたことは、まさに超人的と言える。独立運動 (ミナスの陰謀:Inconfidência Mineira) の舞台となった当時のヴィラ・リカ (現在のオウロ・プレット) には、名匠アレイジャディーニョの作品の大半がそこかしこに存在する。ヴィラ・リカ以外でもこの偉大な芸術家は多くの仕事をしている。サバラーでの代表作といえば、リオ・ポンバ (マトリス) 教会の美装彫刻となろう。サン・ジョアン・デル・レイのサン・フランシスコ・デ・アシス教会、チラデンテスのマトリス・デ・サント・アントーニオ教会などもアレイジャディーニョの手になるものである。翻って、招かれて1777年から赴いたコンゴーニャス・ド・カンポの地では、ボン・ジェズス・デ・マトジーニョス教会堂の築造に関わった。この教会堂は、ポルトガルのボン・ジェズス・デ・ブラーガのそれを模して、1776年に着工され1794年に完成した。

 バロック様式以外にロココ様式の影響のみられる教会堂の、聖壇の美装や等身大の12預言者の石彫像はアレイジャディーニョの大作の一つである。入口の扉から内部の装飾に至るまでのすべてが不具者による彫刻で、わけても神々しい預言者像の見事さには誰しもが納得するだろう。大方のアレイジャディーニョの作品には宗教性が強く感じられる。と同時に、彼の特異性を挙げるとすればそれは、彫刻資材にあるかもしれない。その資材とは、ミナス、中でもオウロ・プレット一帯で採れる白色の石、すなわちペドラ・サボン (pedra-sabão:石鹸石) である。コンゴーニャス・ド・カンポをはじめ、チラデンテス、リオ・プレットなどでの彼による彫刻のほとんどが、この石に刻まれたものだ。

 不治の病 ーハンセン病か梅毒と言われているー で床に伏せたアレイジャディーニョに対して手厚い看護をしたのは、息子の嫁であったという。その献身的な介護もむなしく彼は天上人となった。そして遺体はマトリス・デ・アントーニオ・ディアスにに葬られた。病以外に、混血児であったがゆえにあまり才能を認められることのなかったアレイジャディーニョ。薄幸のままに人生を閉じた彼が、ブラジル芸術史のヒーローとなったのは死後のことである。それだけにいっそう、この不世出の天才芸術家に対する惻隠の情を強くするのは、私だけであろうか。

 類稀にみる才能の持ち主であったアントーニオ・フランシスコ・リズボアの芸術作品は、不朽のミナス文化遺産の目玉として訪れる者を虜にしてきた。フランスの植物学者サンチレールもその一人。1918年にミナスの地を踏んだ彼は、バロック芸術の精華、中でもアレイジャディーニョの作品群に接して感嘆の声をあげたという。ずいぶん前に私は、在リオ日本総領事館の親友と共に、アレイジャディーニョの作品があるミナスのほぼ全ての地域を訪ねたが、その時の作品鑑賞の感動が今も脳裏に焼き付いて離れない。

以    上