連載エッセイ152:田所清克「ブラジル雑感」その8 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ152:田所清克「ブラジル雑感」その8


連載エッセイ149

ブラジル雑感 その8

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

本稿では、サンパウロへの旅行者や出張者に必ず訪問していただきたい2つのスポット、サンパウロ美術館」(MASP)と毒蛇研究所として有名なブタンタン研究所を紹介する。

「サンパウロでは見逃せない「サンパウロ・アシス・シャトーブリアン美術館」(MASP)

サンパウロ州文化局の資料によると、州内には415の美術館ないし博物館があるそうだ。サンパウロ市内だけでも、ここで取り上げるもの以外に、パウリスタ博物館/イピランガ博物館 (Museu Paulista/ Museu do Ipiranga)、移民博物館 (Museu da Imigração)、ピナコテッカ美術館 (Pinacoteca do Estado de São Paulo)、サッカー博物館 (Museu do Futebol)、ブラジルの家博物館 (Museu da Casa Brasileira)、近代美術館 (Museu de Arte Moderna:MAM)、現代美術館 (Museu de Arte Contemporânea:MAC)、映像と音響の博物館 (Museu da Imagem e do Som:MIS)、ラテンアメリカ記念館 (Memorial da América Latina)、アフロ・ブラジル博物館 (Museu Afro Brasil:MAB)、カタヴェント博物館 (Museu Catavento)などつとに知られたものが多数ある。
 カテドラルのあるセー広場 (Praça da Sé) から、南へ約3km行ったパウリスタ大通り (Avenida Paulista) はビジネス街の中心地で、通りの両サイドには所狭しと高層ビルが林立している。そんな場所に、コーヒーで莫大な富を得た生産者たちの、いわゆるコーヒー貴族の邸宅が、風化こそしているものの当時のままの状態でいくつか存在していることに興味をそそられる。

 パウリスタ大通りに面する一角に、モダンな佇まいをみせていることで目に止まるのが、通称「マスピ」の名で知られている、サンパウロ・アシス・シャトーブリアン美術館 (Museu de Arte de São Paulo Assis Chateaubriand:MASP) である。この美術館が所蔵する絵画は1000点以上に及び、とりわけ19世紀後半のフランスの印象派の作品を中心に、西洋美術の収集では南米随一の規模を誇っている。であるから、ルノワールやゴーギャン、目下神戸市立博物館で展示対象となっているゴッホをはじめ、以下に挙げた錚々たるたる画家の名画が堪能できる。

■収蔵作品の一例
ゴーギャン (Gauguin) ー『貧しき漁師』
ゴッホ (Gogh) ー『生徒』
セザンヌ (Cézanne) ー『レスタックの岩』
ドガ (Degas) ー『舞台の4人の踊り子』
ピカソ (Picasso) ー『女の肖像』を含めた4作品
ボッティチェリ (Botticelli) ー『キリストと聖ヨハネを連れた聖母マリア』
マネ (Manet) ー『馬上のマリー・レフェーブル』
モネ (Monet) ー『エプト川のボート』
ラファエロ (Rafael) ー『キリストの復活』
ルーベンス (Rubens) ー『アルブレヒト大公』
ルノワール (Renoir) ー『バラ色と青色の服を着た少女たち』、『右脚を拭く女』、『麦束をもつ少女』
レンブラント (Rembrandt) ー『Retrato de Jovem com Corrente de Ouro』
ヴェラスケス (Velázquez) ー『Retrato do conde-duque de Olivares』

 ことほど左様に多彩で質の高い珠玉の作品を多数所蔵しているので、機会があってサンパウロを訪ねられたら是非ともMASPに出向かれたい。


MASP [久保平亮氏提供]

「サンパウロ・アシス・シャトーブリアン美術館(MASP)-美術館の施設そのものが有する魅力」

前回、MASPが所蔵する西洋美術の一例を、名だたる画家たちの作品に絞って一瞥した。が、それは西洋美術に限ったものではない。自国の芸術はむろん、小規模ながらアジア、アフリカのもの、装飾芸術全般、考古学的な遺物なども収蔵している。

 マスメディアの世界で八面六臂の活躍をした以外に、作家、弁護士、法学部教授として1940年代から1960年代にかけてもっとも影響力のあったパライーバ州出身のフランシスコ・デ・アシス・シャトーブリアン・バンデイラ・デ・メロ (Francisco de Assis Chateaubriand Bandeira de Mello:1892-1968)。普通アシス・シャトーブリアンの名で知られている彼こそ、メセナ (mécénat) の先駆者ではなかったか。文化に深い理解のあったこの人物の存在無くして、ブラジルでもっとも重要な文化機関の一つであるMASP自体あり得なかったであろう。彼の身を粉にする尽力で、非営利目的のMASPは1947年に創設された。本部の機能を果たすためにそれは、1968年に現在のパウリスタ大通りに移転することとなる。

 イタリア系ブラジル人建築家のリナ・ボ・バルディ (Lina Bo Bardi:1914-1992) による奇抜な発想から生み出された新たなMASPは評判となり、またたく間にサンパウロ市を代表するイコンとなり有名スポットとなった。ひときわ目立つ真っ赤な四つの支柱に支えられた館と、70mあまりの開かれた、いわゆる開口部はとりわけ目を引く。のみならず、セメントにガラス張りのシンプルな構造物はまことに印象的である。

 私はこれまで二回この美術館を訪ねているが、残念ながらどちらの場合も駆け足の鑑賞であった。今度訪ねる時はじっくり時間をかけて、あまたの至宝の作品を堪能したいと思っている。

「世界に名だたる有毒生物研究のメッカ=ブタンタン研究所」

サンパウロを訪ねられたら是非とも出向いて欲しい観光スポットの一つに、ブタンタン研究所 (Instituto Butantan) を挙げたい。この研究所はサンパウロ市西部の大学都市 (Cidade Universitária) と接したところにある。

 教鞭をとっていた本務校がサンパウロ大学 (USP) と交流協定を結んでいたこともあって、大学を訪ねた際には、ついでとは言いながらいつも訪ねていた。他方、かれこれ40年余りに亘って、個人的に実施していたブラジル研修旅行を通じて引率した中には、ブタンタン研究所を見学された社会人の方や学生さんもおありであろう。

 ところで、そもそも私がブラジルに惹かれ、この国を研究対象として選んだ最初の主たる事由といえば、アマゾンやパンタナルの動物相、なかんずくその地域の爬虫類の生態を、動物地理学の視座から観察したかったことにある。これと実際に歩んだ学問研究の領域とは違ったものにはなったが、動物生態学関連の分野への関心は失われることなく、今も続いている。動物の聖域である上述の二地域にかれこれ40回以上訪ね、毎回、一週間近く逗留して朝から晩まで巡検・観察してきたのもそうした所以である。

 留学時にブタンタン研究所の存在はを知ってからというものは、渡伯ごとに訪ねるのが習わしになっている。実のところ私は、爬虫類、中でも蛇が文字通り蛇蝎の如く嫌いで、怖い。不思議にもそれがかえって、蛇への興味をそそられるのである。いわば「怖いもの見たさ」とでも言えようか。であるから、ブタンタン研究所で展示してあるものに限らず、アマゾンやパンタナルでジャララカ、スクリ (=アナコンダ) などを目にする時の私は、さながら高所から谷底をのぞき込むように恐る恐る眺める、実に情けない有り様。

 ところで、ブタンタン研究所内ではゆるやかな坂を上がると、右手に爬虫類の展示館、左正面に研究所、そして左側には露天のコンクリートで囲った深さ2メートル内外の底辺の窪地がある。そこでは、有毒無毒も含めて、多様な種類の蛇が放し飼いにされている。あるものは生えている樹木に巻き付いていたり、あるものは地面をにょろにょろ蛇行していたり、あるいは鍋上の石の巣穴に潜んでいたり。従って、その生態を観察することに夢中になり、飽きるどころか時の過ぎるのもつい忘れてしまう。

 爬虫類館に入る前に、腹ごしらえをすることにしよう。そう思いながら、ふと爬虫類館の反対側の木立に目を向けると、何とそこにブラジルの国名となった一本のブラジルの木 (Pau Brasil) を発見して、いたく感動した。ブタンタン研究所がヴィタル・ブラジル (Vital Brazil:1865-1950) によって設立されたことがふと頭をよぎった。ブラジルの北里柴三郎もしくは野口英世に当たる人物と言えば、ヴィタル・ブラジルとオズワルド・クルース (Oswaldo Cruz:1872-1917) であろう。

注記:Butantã (Butantan) はトゥピー・グワラニー語が起源で、複合語のmbu (場所、土地) + tã-tã (非常に固い) から成っている。要するに「非常に固いところ;土地」の意味。


ブタンタン研究所 (Webより転載)

「ブタンタン研究所を設立した、ブラジルが誇る学者ヴィタル・ブラジル」

前回、オズワルド・クルースと並んでヴィタル・ブラジルは、日本の北里柴三郎や野口英世に当たることを述べた。その彼が設立したのがブタンタン研究所である。リオデジャネイロにあるオズワルド・クルース研究所 (Fundação Oswaldo Cruz:Fiocruz) と共に、国内のみならず、世界でもその道の人にはよく知られている存在である。が、一体どれだけの日本人がこの二人の人物を知っておられることであろうか。

 ミナスジェライス州南部のカンパーニャに生まれたこともあって、ヴィタル・ブラジルは、ヴィタル・ブラジル・ミネイロ・ダ・カンパーニャ (Vital Brazil Mineiro da Campanha) が恰も本名となっている。生家が貧しかったので、学費を稼ぐために家庭教師をしたり、鉄道建設の日雇いをしたりして文字通り苦学を強いられたが、リオデジャネイロ医科大学を首席で卒え、ブラジル有数の科学者となった人である。

 そして、この国でも指折りの医学部のあるサンパウロのボトゥカツ (Botucatu) で開業医として働き始める。しかし、程なくして彼は臨床医を断念して流行病や毒蛇の研究の道に進むことになる。これには当時、チフスをはじめ黄熱病、ペストなどの悪疫が猖獗を極め、また一方において、有毒生物の被害で命を落とす人を見ていたのが背景にあったようだ。

 研究推進に向けてヴィタル・ブラジルは、著名な細菌学者アドルフォ・ルッツ (Adolfo Lutz:1855-1940) が主導する、サンパウロにある彼の名を冠した研究所 (Instituto Adolfo Lutz) に出向く。偶然ながらそこには、少壮の科学者オズワルド・クルースがいた。

 その研究所でヴィタル・ブラジルが最初に行なった仕事は、サントスでの衛生状態の実態調査であったそうだ。将来、医学界で令名を二分することになるオズワルド・クルースとは、リオデジャネイロの悪疫防禦ために尽力している。その彼が、毒蛇の血清とペスト、チフスの予防の目的で、当時のサンパウロ郊外に設けたのがブタンタン研究所。御年33歳、1897年のことである。そして、毒蛇以外に毒クモ、サソリの血清や、ペスト、コレラの予防注射薬研究で成果をあげた。

 後にヴィタル・ブラジルはサンパウロの研究所を去り、私が学んだニテロイの地に細菌学研究のヴィタル・ブラジル研究所 (Instituto Vital Brazil) を設立する。しかし最後は、元の巣であるブタンタン研究所に招かれて、1924年には重ねて同研究所所長に就任する。

注記:パリのパスツール研究所で三年間学んだオズワルド・クルースは、リオ市近郊のマンギーニョに後に自身の名のつく研究所を設け、細菌学および悪疫予防の研究、血清や注射薬の調製に挺身した。44歳の若さで他界したが、彼がブラジル学界に残した業績と貢献度は絶大なものがある。留学時に一度研究所を訪ねたことがあるが、当時の記憶は消え失せている。


ヴィタル・ブラジル


オズワルド・クルース