執筆者:富田 眞三(在テキサスブロガー)
写真:(https://www.aniversario.elpais.com/asalto.)
1996年12月19日付、El Pais紙一面記事(翻訳)日本大使公邸を占拠した襲撃者たちは、数百人の人質を殺害すると脅迫
アルベルト・フジモリがペルー大統領選に出馬したとき、日本に住んでいた日系3世のペルー女性が「日系人が選挙に出て負けたりすると、ほら見たことかと、批判されるのが落ちだから、出ないで欲しい」と言ったのには驚いた。古くは、第二次大戦中、ペルー政府が日本移民を排斥したため、多くのペルー日系人は帰国したり、ブラジル等へ再移民して苦労したのである。
米国の隣国である、メキシコでさえ、日本人、日系人であるが故に、国外追放したりはしなかった。そんなペルーでフジモリは大統領選に勝利して、ペルー大統領として、二期も務めたのである。これだけでも彼が並みの男ではないことが分かる。
フジモリと緊密な連絡を取り合っていた、日本大使公邸占拠事件の日本政府代表の寺田大使が語っているように、「フジモリは他人の意見に耳を傾けるようなタイプではない」ようで、すべてにおいて、自分の意思を押し通す、悪く言えば「ワンマン」タイプのリーダーである。そのような強い個性の持ち主である彼だからこそ、ペルーで大統領にまで上り詰めることが出来た、と言えよう。そんなフジモリが遭遇した、最大の試練が、彼の両親の祖国である、日本国の大使公邸が、反政府のゲリラに占拠され、数百人が人質に取られたことだった。いかにして、フジモリがこの大問題を解決したかを、「アメリカ便り」はペルー側の視点からリポートしたい。お付合い頂ければ幸いです。(テキサス無宿記)
先月、ペルー憲法裁判所は、2017年に取り消された、元ペルー大統領のアルベルト・フジモリ氏への恩赦を回復することを決断した、とペルーのメディアが報道した。憲法裁判所は、この決断は人道的見地から行われたものである、と説明している。これにより、近日中にフジモリ氏は自由の身になることになる、と想定されるが確定したわけではない。
写真:(https://www.opendemocracy.net)
1990年から2000年までの10年間、大統領を務めた、日系二世のフジモリ氏は、1984年から国立ラ・モリーナ農科大学の学長を務めていたが、1990年の大統領選に出馬して、後にノーベル文学賞を受賞する、マリオ・バルガス・リヨサ氏を破って大統領に就任したのである。
元大統領は2009年、反政府武装グループ・センデ―ロ・ルミノーソのゲリラと混同して、無実の住人15名を殺害したとの罪で25年の刑に服していた。だが、一時、健康上の理由で、恩赦になっていたが、それがくつがえされて、ふたたび収監されていた。そして、今回この件が再再度恩赦の対象になったのである。
この記事を読んで、私は1996年12月17日に起こった、もう一つの反政府武装グループのMRTA(トゥパク・アマル革命運動)による、ペルー日本大使公邸占拠事件を思い出した。当日大使公邸では天皇誕生日(現上皇様)のレセプションが開催され、600名ほどの招待客が参加していたが、14名のゲリラたちによって招待客全員が人質にされた。反政府武装グループの暗躍はフジモリ政権の前から、ペルー社会のガンだったのである。そして、武装グループの撃滅を公約の一つにしていたのがフジモリだった。
写真:(https://www.peru21/cultura/rehenes/)
日系二世のフジモリ(以下敬称は略させていただく)のペルー大統領選出は、わが国民を歓喜させる大ニュースとなった。1996年12月17日、そのフジモリ政府の首都リマの日本大使公邸占拠事件は、ペルーでは映画、米国ではオペラまで公開されるほどセンセーショナルな事件だった。そこで、「アメリカ便り」は一刻も早いフジモリ元大統領の出所を、祈念して事件を振り返って見ることにした。
ペルー日本大使公邸占拠事件に関する、日本語による出版物は、私の知る限り15冊あるが、このリポートはペルーにおいてスペイン語で書かれた、ペルー側の視点から事件を追ったものである。大筋において日本人とペルー人の記録に差はないが、二、三日本側が書いていない事実もある点が興味深い。なお、この事件で日本政府の代表として大活躍したのは、当時メキシコ大使だった、寺田輝介だった。私は50年前、駐メキシコ日本大使館の二等書記官だった、若き日の寺田大使と毎週末共にテニスをプレイした仲だったため、この事件を特に強い関心を持って見守っていたのだった。
ペルー日本大使公邸占拠事件は1996年12月17日、ペルーの首都リマ市のサン・イシドロで午後8時半発生した。ゲリラ組織MRTA(テュパック・アマル革命運動)所属の重武装した14名のゲリラが隣接した空家から、塀と公邸の壁を爆破して大使公邸に突入、青木日本大使が主催した、明仁天皇誕生日祝賀会に参列していた、600名を人質に取った。人質にされた600名の大部分は遠からずして段階的に釈放された。ただし、フジモリ大統領の母堂を含む女性と高齢者90名はその夜、釈放された。幸いなことに襲撃者たちは、大統領の母堂のいたことに気付いていなかった。
写真:(https://www.gestion.pe)
この日から126日後の翌年の1997年4月22日に最後まで囚われの身となっていた、71名は、ペルー陸軍の特殊部隊チャビン・デ・ワンタールによって救出された。救出作戦において、人質1名、特殊部隊員2名が犠牲になった。また、占拠に関わった14名のMRTAゲリラは全員死亡した。この救出作戦は大成功と称えられ、世界的ニュースとなった。なお、チャビン・デ・ワンタールとはペルー中部の世界遺産であり、フジモリはこの地下に張り巡らされたトンネルから、公邸へのトンネル掘削を思いついたことから、この救出部隊にこの遺跡名が付けられた。
当初、当時の大統領アルベルト・フジモリは71名の人質の命を救ったとして、賞賛されたが、間もなく数名のMRTAゲリラは捕虜になった後、即刻処刑された、との情報が出回ったため、犠牲者の家族から軍関係者が起訴され、ペルー検察庁が調査を命じた。だが、2015年、米州人権裁判所は、「即刻処刑」であったとの確証は得られなかった、と結論づけた。
天皇誕生日のレセプション当夜、大使公邸は300名以上の警官及び政府高官、各国大使等の武装ボディーガードたちが警備にあたっていた。公邸の周囲は3.5㍍の塀があり、建物のすべての窓は鉄格子が備わり、窓ガラスは防弾ガラスだった。入口のドアは手りゅう弾にも耐える強固なものだった。従って、公邸は外部からの襲撃に耐え得る建造物だった。だが、ゲリラは塀を爆破して侵入してきた後、公邸の建物も爆薬によって侵入口を作った。
日本大使公邸占拠事件発生を受け、リマの株式市場は大暴落に見舞われた。
ペルー国民の気持ちは、ペルー最大の新聞の社説が上手く要約している。「ペルーは少なくとも4年後退した。ペルーはフジモリ政権下、平和になったが、今再び恐怖に晒される国に戻ってしまった。フジモリの支持率は事件前の75%から40%に下落したことから分かるように、フジモリは反政府テロ活動を阻止して、国民に平和をもたらしていたのだ。
写真:(https.//marxistas.internet.com)
事件発生の数時間後、大使公邸を占拠したMRTA(テュパック・アマル革命運動)は次のような声明を発表した。「我々はこの軍事占拠を日本政府の我が祖国の政治への介入に抗議するために行ったものである。祖国の政治、即ちフジモリ政権は常常人権無視の手法で政治を行い、特に経済政策は大部分のペルー国民に極貧と空腹をもたらすだけのものである。MRTA 1996年12月17日」。
同時にテロリストは彼らの要求を政府が認めれば人質の生命は保証する、として以下の4か条の要求を提示した。
1. 大部分の国民の幸福を目指すモデルに経済政策を変更することを約束すること。
2. MRTAに所属するすべての受刑者及び我々の組織に所属するとして告発された仲間の釈放。
3. 大使公邸を占拠した攻撃部隊員とすべてのMRTA所属の受刑者のペルー内陸の密林地帯への移動。また、保証人として、適切に選考された人質(複数)が我々と同行すること。人質は我々の無事ゲリラ行動地区に到着後解放するものとする。
4. 戦争税の支払。
MRTAはいかなる時でも、対話を重視する組織だった。だが、我々は常に政府側の拒絶と嘲笑を受けるだけだった。本日、我々は固い決心を持って、この場に臨んでいる。我々が人質に取っている、重要人物たちの生命が危険にさらされる軍事行動を政府が取った場合、その責任はすべて政府にある。もし、政府が我々の要求を受け入れない場合に、我々が実行に移さざるを得なくなる、いかなる行動もこれまた政府の責任である。
MRTA 1996年12月17日
以上のMRTAの声明と4か条の要求に対し、フジモリが公式の声明を発表したのは、12月21日の4分間のTV放映によってであった。テロリストの要求へのフジモリの反応と声明は次回、お伝えすることにしたい。(続く)
参考資料:
Wikipedia: La toma de la residencia del embajador japones en Lima Peru,una crisis con amplias repercusiones, Paz Veronica Millet
寺田輝介他編 「竹下外交・ペルー日本大使公邸占拠事件・朝鮮半島問題 (吉田書店)
ウイキペディア:在ペルー日本大使公邸占拠事件