連載エッセイ155:田所清克「ブラジル雑感」その9 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ155:田所清克「ブラジル雑感」その9


連載エッセイ152

ブラジル雑感 その9

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

この号では、ブラジルの食文化について2回にわたり特集する。

「ブラジルの食文化再考 (その1)」

ブラジルの食文化については、これまでいくつかの論考があり、その最たるものは、大浦智子さんとの共著のかたちで公にした「食彩の世界 ブラジルのローカルカラー豊かな郷土料理」[Mare Nostrum(研究報告 100回開催記念特別号)地中海文化研究会] である。またその一方で、味の素食の文化センターにて、ブラジルの食文化全般についてパワーポイントを用いて講演もしている。飲酒文化も含めて、その内容は上記センターの研究誌Vestaに、題目は号によって異なるが論述の機会を得た。

次回からは、熱帯ブラジルの料理法を含めた食文化について改めて考察したいと思う。半ば大陸規模のこの国には、さまざまな典型的とも言うべき料理法、食文化が存在するが、地域によって先住民以外でも移民として流入した民族の影響もあって、異なる様相を呈している。その点に光を当てながら、ブラジル人の日常の食卓というかメニュー (cardápio) の有り様について、知見を披露したい。


ムケッカ・バイアーナ [久保平亮氏提供]


フェイジョア―ダ [久保平亮氏提供]


ピカーニャ [久保平亮氏提供]

「ブラジル食文化再考 ―各地域の風土と民族の観点から― (その2)」

 シンプルで美味しく、わけてもエキゾチックなブラジルの料理 (法)。この国を旅した人なら、多くがそう思われるに違いない。もし調味が変わっていると感じるのは、二つの要素、つまり大陸規模の領土の拡がりと多様なレシピ (料理法) にあるからだろう。それがこの国の真の典型的な遺産ともなっている。

 ブラジルを統治することになる初期のポルトガル人植民者は、当初この大地で質素な料理に出遭うことになるが、そのことが逆説的に、先住民の食習慣を取り込み統合する意味で、あまり時を要しなかった。植民地時代の北部での経済的関心はもっぱら、アマゾン地方やマラニャン州で見出される香辛料を中心にしたドローガス・ド・セルタン (drogas do sertão) と呼ばれるものであった。肉桂、胡椒、カカオ、陸ガメの卵黄から作ったバター (ペースト)、マナティー (peixe- boi) などが好例。これらは、先住民が森で採集していたものである。

 ポルトガル人はともかく、先住民から生きる術と“食べる方法”を学ぶ必要があった。かくして、牛肉の欠如は、今日でもアマゾン料理の代表的存在である多様な淡水魚に置き変わり、補うものになった。その典型的なものは、最も伝統的な料理の一つで有名な、干し肉を使ったピラルク・デ・カザカ (pirarucu de casaca) である。陸ガメの狩りも先住民のみならず、ポルトガル人の胃袋を満たした。陸ガメのスープ (sopa de tartaruga) がそれである。今日ではその料理は、オリーブや丁字樹 (cravo-da-Índia) などの食材を混ぜ合わせて洗練されたものになっている。

 他の北部アマゾンのレシピというか調理は、ポルトガルの文化的・宗教的なアスペクトと不可分に結びついているように思われる。その一例はパット・ノ・トゥクピ (pato no tucupi) であろう。マンディオカの汁を煮沸してできた黄色い汁で、先住民の遺産とも言うべきものである。この料理は、18世紀以来、ブラジルの最も伝統的な大ロウソクの宗教行列であるシーリオ・デ・ナザレー (Círio de Nazaré) の祭典の際に供される。

[注記]
① tucupi = 酸性の毒を含んだマンディオカ・ブラーヴァ (mandioca brava) の皮をむき、粗い粉におろして汁を絞る。そして、幾度となく煮立てて解毒する。それから作られるスープ状のものがトゥクピである。さまざまな料理に利用される。

② pato no tucupi = トゥクピで鴨肉を煮込んだ料理。舌がヒリヒリするジャンブ (jambu) という北部アマゾン地域に自生する植物の葉も使われる。本文でも記したように、この料理とマニソバ (maniçoba) [マニオクの新芽から作った食物] は、10月ベレンのナザレ大聖堂で催されるキリスト教のお祭りで食される。

「ブラジル食文化再考 ―黒人奴隷の存在が食習慣に与えた影響― (その3)」

 蒸し暑いアマゾンの昼下りに、川エビを塩漬けにして干したものとジャンブの草で風味をつけたスープもしくはポタージュのタカカー (tacacá) に、マンディオカの粉 (farinha de mandioca) で作った葛湯状のものと合わせて、一種のひょうたんのようなクイアと呼ばれる椀ですすることの幸せ。それだけではない。アマゾン河およびその支流で捕れる川魚の水炊き、前回触れたツクピなど、この地方ならではの料理に出遭う。その多くに先住民インディオの影響がうかがわれる。香草類を多用することなどはその一例であろう。

 ともあれ、アマゾンに行けば十中八九、すでにどこかで記しているが、焼いたあるいは炊いたトゥクナレー (tucunaré) かタンバキ (tambaqui) を食べることにしている。ことほど左様に、この魚料理には目がない [Sou louco pela comida de peixes]。これまでアマゾンに数限りなく出向いたのも実は、そうした川魚をあてに白ワインを飲むためであったと言っても過言ではない。従って、そんなアマゾンを離れるのはいつも、後ろ髪を引かれる思い [Foi como se me levassem pelos cabelos] がしていたものだ。

 ところで、ブラジル旅行の際は多くの場合、北部アマゾンから北東部へのルートであった。周知のように、北東部の植民地化は当初、沿岸部のサトウキビ栽培が中心で、その労働力の確保のために多数の黒人が大西洋を隔てて向かい合う大陸から導入された。そのこともあってか、多様化した社会が形成された。サトウキビの耕作地のみならず、主要な都市における黒人奴隷の存在は、食習慣にも大きな影響を及ぼすこととなる。次回はその影響を受けた北東部の料理について述べる予定である。

「ブラジル食文化再考 ―北東部料理― (その4)」

 北東部といえども、風土や民族性の影響もあって州やその州の地域によって料理 (法) も様相も異なる。しかしながら、この地域が砂糖産業の中心であったことから、ポルトガルのケーキや菓子類は土地の果実とも合わさり、“頭で盆を支えた黒人女たち” (negras de tabuleiro) が調理する食べ物と共に、ご馳走として賞味されるようになる。当時の砂糖農場にあっては概して、社会人類学者のジルベルト・フレイレも指摘しているように、祭りごとがある日以外の食事は質素なものであった。

 ところで、国内のどの地と較べてみても、アフリカの食文化なり食習慣の影響を強く受けた州となれば、バイーア州だろう。アフリカの民族集団のなかでも、17世紀前葉に搬入されたアフリカ西岸の、スーダン系およびギニア・スーダン系の集住するところで、当然のことながら彼らの言語、宗教、音楽などを含めて、ブラジルの文化全般に与えた影響は計り知れないものがある。

 先述したように、アフリカの食習慣が根付いたのは、わけてもバイーアであった。その事情については、外国人旅行家や芸術家等の記録が残されている。英国の旅行家であるトーマス・リンドレイは19世紀、黒人女奴隷が作った美味な果実の保存食について、また多くの作品を残している画家のデブレ (Jean-Baptiste Debret, 1768-1848) は、黒人女奴隷が朝食のために作ったスポンジケーキについて綴っている。かくして、黒人のイアイアー (iaiá = 奴隷制時代に用いられた黒人娘に対する呼び名) たちに任された料理は、ブラジルの地において新たな味覚を生み出した。がしかし、国内のみならず世界的に名を馳せた料理となれば、やはりカンドンブレー (Candomblé) の神々 (Orixás) に供えられた料理であることは疑いない。 【次回に続く】

[補記]
ブラジルの黒人の理解に向けては、『ブラジル紀行 バイーア・踊る神々のカーニバル(スペースシャワーネットワーク、2009年)』など多くの著書がある、写真家にして大学で教鞭をとられている板垣真理子さんの文献が役立つ。

[注記]
① スーダン系の下位集団は、ファンティ・アシャンティ、エウエ、ヨルバの三つから成り、特にブラジルに関連する民族はミーナ族、ジェジェ族、ナゴー族である。
② フラーニ、マンディング、ハウサはギニア・スーダン系の下位集団で、マレー族がブラジルとの深い係わりを持つ。


バイア州の首都サルヴァドールのペウリーニョ通り


民族衣装を着たバイアの女性たち

「ブラジルの食文化再考 ―バイーアのアフロ・ブラジル宗教における神に供えられる料理 = アカラジェー (acarajé) ― (その5)」

 アフリカ系文化の影響が強いのは、北東部に限ったことではない。リオデジャネイロやミナスジェライスも然り。しかしながら、それらの地域は同じアフリカ黒人といえども民族性に違いがあり、バントゥー系である。

 レコンカヴォ・バイアーノ (Recôncavo baiano) [サルヴァドールを囲む17のムニシーピオ=郡からなる広大で肥沃な地域] に旅すれば、他のどの地域よりもエキゾチックな香りのする、伝統的なアフリカ料理に出逢うことができる。胡椒と共に、この地の表徴的なデンデー油が多くの料理に使われているせいかもしれない。従って、バイーアの料理 (cozinha baiana) を デンデーの食べ物 (comida de dendê) と呼んだりもする。

 ちなみに、バイーア料理に欠かせないデンデー油 (azeite de dendê) は、アンゴラ方言の一つであるキンブンド語でいう、椰子の木から来ている。その椰子の木の果肉から抽出したのがそれである。このアフリカ起源の椰子の木については広範な歴史的、植物学的資 (史) 料が残っていて、それによるとブラジルに導入されたのは17世紀の初頭らしい。そして、気候にも順化して北東部全域に広まったそうである。

 とまれ、それから採ったデンデー油が、アフロ・ブラジルの食べ物に色を添え美味なものにしただけでなく、ブラジルの食文化に独自性を与えたのは特筆すべきであろう。
 18世紀来、アフリカ出自の料理は「黒いローマ」と呼ばれるバイーアの庶民の日常食で、街頭で売られ続け、今日に及んでいる。18世紀に最初に引用されたアカラジェーは、盆を頭にバランスよく乗せ、客を惹きつけるために唄う黒人奴隷女によって通りで売られていた。このアカラジェー料理を巡っては、かつて論争があった。神聖を重視して神々にアカラジェーを奉納する以上、その料理人は男ではなく女であるべきである、と伝統主義者は主張したようである。それかあらぬか、今も料理人も街頭の売り子は女性である。
 “acarejé”のacaráはナゴー語で「団子」、jéは「食べる」の意味だそうだ。階層を問わず、バイーア住民にとっては日々、口にする食べ物であることに疑いはない。

 現地住民が食する、そうしたデンデー油で揚げたササゲ (feijão-fradinho) のペーストは通常、風と嵐の女神であるオヤー・イアンサン (Oyá- Iansã) に捧げられる。また、ロザーリオ・ドス・プレットス教会 (Igreja do Rosário dos Pretos) での奉献の儀式では、地区の司祭に対して団子のアカラジェー料理が託されたりもする。アカラジェーは2004年、無形遺産として国の歴史・芸術遺産院に登録された。


[Webより転載]

「ブラジルの食文化再考 ―儀式を通じてアフリカ出自の神々に奉納された食べ物― (その6)」

 バイーアはアフリカ出自の神々が宿る土地でもある。が、厳密に言えばその神々は、カトリック教の神々と習合 (sincretismo) している。といっても、表層上はカトリックの神ではあるものの、内実はアフリカの原始宗教の様相を呈している場合が少なくない。

 アカラジェーが神聖な食べ物として、そうした神々に捧げられることについては前回触れた。オリシャー (Orixás) に供えられるのはアカラジェーのみではない。エフォー (efó) [デンデー油と胡椒で野菜、炒ったアーモンドおよびパラー栗、干し海老、タロイモなどを調味した、バイーアの典型的な郷土料理の一つ] も然り。味付けしたこの食べ物を好まない、出産と収穫の神であるオシャラー (Oxalá) 以外は、カンドンブレーの神々はこの格別に美味な煮込み料理が好物と言われている。
 神に奉納する食べ物や飲み物はそれだけではなさそうである。例えば、ケートゥ (Kêtu) のヨルバ族にとって聖書のごときものには、エシュ (Exu) [神であると同時に、オリシャーたちの伝令] 以下の記述がみられる。

Exu Epo niyi O
Exu Mim niyi O
Exu Oti niyi O
Exu, eis o azeite- de- dendê para você
Exu, eis a água para você
Exu, eis o álcool para você

 このテキストを見るかぎり、デンデー油、水、酒がこの神に奉納されていることが理解できる。

[注記]
エフォー = 細かく切った青タロイモ (taioba) と呼ぶ野菜を、バイーア風に味付けして煮込んだ料理。タイオーバがない場合は、ほうれん草でも代用できる。

(その2)は6月25日前後に掲載予定