連載レポート89:富田眞三 「ペルー日本大使公邸占拠事件 その2」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載レポート89:富田眞三 「ペルー日本大使公邸占拠事件 その2」


連載レポート90

「ペルー日本大使公邸占拠事件 その2」

執筆者:富田 眞三(在テキサスブロガー)


写真:(https:www.rpp.pe.com)

「蛇足的まえがき」

ペルーの日本大使公邸を占拠したテロリストの大部分は、原住民の19か20才の若者たちだった。メキシコは100年以上の昔、原住民出身の大統領が誕生している。この一点だけでもペルーはメキシコに100年遅れている。彼らの政府と外国勢力に抗議したい気持ちは分かるが、公邸占拠はどう見ても暴挙以外の何ものでもなかった。(テキサス無宿記)

フジモリ大統領「非人道的暴挙」と非難

12月21日(1996年)フジモリは日本大使公邸占拠事件に関して、最初の公式声明を発表した。4分間のTV放映を通じて、大統領は先ず襲撃者を強く非難し、MRTA(トゥパク・アマル革命運動)の大使公邸襲撃は、許すことが出来ない非人道的暴挙であるとした。そして、MRTA所属の犯罪者の釈放を含む、彼らの要求をすべて拒否した。MRTA とはMovimiento Revolucionario Túpac Amaruの頭文字

 一方、武力による人質解放も除外しないが、平和的解決は望むところであり、政府の公式交渉係として、ドミンゴ・パレルモ教育大臣を任命したとも語った。

 最後にフジモリは、私の提案は明確である。誘拐犯たちは武装解除を行って、「保証人委員会」に武器を引き渡し、例外なくすべての人質の解放を要求する。以上が実行されれば、政府は武力の使用は行わず、誘拐犯たちの『出国』を検討することも可能である。以上はペルー国と国際共同体(comunidad internacional)に対する我が政府と私自身の約束である」。

このフジモリの声明はMRTAのセルパがペルー政府に属さない人質の解放を段階的に行う、と語った後に発表したものだった。

フジモリへのMRTAの返書


写真:(You Tube)

12月22日、MRTAは人質のサンドロ・フエンテス元労働大臣に大統領への返事を読み上げさせて次のように返答した。

「21日の声明において、アルベルト・フジモリ氏は対決姿勢を保ち、我々に降伏を呼び掛けている。とともに、刑に服している我々の同志は文字通りの刑務所・墓場に隔離されることに忍従し続けろという。これは絶対に受け入れられない。

しかるに我々は、最低限のサービスを制限して、人質に取られた人々の状況を、ますます困難にするペルー政府とは異なる行動を取る。我々は政府関係者ではない、多数の人々を解放することにする。これはクリスマスを迎えるに際しての我々の人道的な意思表示である。ただし、政府の閣僚、次官、司法関係者、議員、軍および警察の高官はMRTAの捕虜として公邸に残る。同じく、日本企業の駐在員および各種日本企業関係者も捕虜として公邸に残る。 MRTA、1996年12月22日」 この日、反乱者たちは225名の人質を解放した。

人質が語る、公邸内の出来事


写真:(https://www.elpais.com)

 テロリストによる、公邸占拠後、国際赤十字が直ちにペルー政府とテロリスト間の仲介者となった。人質に取られた方々の中には、治安関係の高官たち、現職の国家テロリスト対策本部長官のマキシモ・リべーラと同本部の元長官のカルロス・ドミンゲス及び、国家安全保障局(情報機関)のトップ・ギジェルモ・ボビオも含まれていたが、リベーラとボビオの両人は1月2日付けでフジモリから解任された。政治家も後年ペルー大統領になる、アレハンドロ・トレードとフランシスコ・サガスティ並びに左翼のハビエル・ディエス上院議員がいた。

アレハンドロ・トレードは解放後、次のように語った。
「公邸を占拠したテロリストたちは、リーダー格の二人以外は、数名の女性を含む18~20才ほどの若者たちで、『死にたくない』と語っていた。テロリストたちの本音は、彼らの同志たちが政界に進出出来るような『恩赦』を望んでいる。また、武力による人質の救出の企ては危険極まりない。何故なら彼らは爆発物を公邸内の部屋と屋根裏に多数所持しており、対戦車用武器まで所有し、全員が爆発物入りの背嚢を背負っていて、胸につけたひもを引っ張ると、自爆するようになっている」。

 人質にされたイエズス会のフアン・フリオ・ウイッチ神父は、解放者名簿に入っていたが、残留を志願して最後まで人質として公邸に残った。なお、残された72名の人質中、日本人は24名であることが分かり、テロリストのリーダーの名前は、ネストル・セルパ・カルトリーニ(43才)と判明した。

 彼らの要求の詳細も伝わってきた。彼らは国中の刑務所に収容されている、同志たち371名の釈放を求めている。彼らはそのうちMRTAの主要メンバーである、ピーター・カルデナス、米国女性ロリ・ベレンソン、セルパの妻の釈放を強く求めていることが分かった。最終的にMRTAは371名の釈放を断念し、この3名の釈放のみを要望するに至った。事件発生の2日後の12月19日、早くも日本の池田行彦外務大臣が人質の安全を危惧して、ペルーの首都リマに到着した。

平和的解決を目指す


写真:(https//www.elcomercioperu.com)

フジモリは人質解放の平和的解決を目指す、日本大使公邸占拠事件対策本部を結成した。そのメンバーには解放された人質の一人である、駐ペルー・カナダ大使のアンソニー・ヴィンセント、フアン・ルイス・シプリアー二大司教及び国際赤十字の係員が選任され、本部長は教育大臣のドミンゴ・パレルモが就任した。日本政府の代表である、寺田大使は本部の顧問として参加することになった。同時にペルー政府とMRTAの間を仲介する、「保証人委員会」の設立も意図され、寺田大使はこの委員会にもオブザーバーとして参加を求められた。

明けて1月12日、パレルモはセルパにヴァチカン、赤十字、その他の機関を交えて、事件関係者の安全を見守る、保証人委員会を立ち上げようと提案し、セルパは後日賛成している。しかし、政府とMRTAとの交渉は委員会発足早々すでに行き詰まっていた。

1997年

1月22日
フジモリはMRTAが収監中の同志の釈放要求を続けるならば、会談を中止する、と通告。一方、警察のヘリコプターが公邸上空を飛行し、装甲車を公邸前に駐車させてMRTAを威嚇した。これに反発したテロリスト達は空中に発砲した。

1月27日
警官たちがテロリストたちに対し、みだらな侮辱的な仕草をして挑発。これに対し、テロリストたちは警察車両に向け発砲。この出来事を知った橋本総理はペルー側にもっと慎重になって欲しい、と要望。

2月1日
フジモリ、外国訪問を開始。カナダで橋本総理と、ワシントンでクリントンと、燃料補給を行ったドミニカで同国のフェルナンデス大統領と、それぞれ会談を行った。リーダーたちは異口同音にフジモリ大統領への支持を約束するとともに、この重大な危機に対する対処に賛辞を送った。

2月10日
フジモリ大統領はロンドンでメイジャー英国首相と会談。フジモリはMRTAのメンバーを乗せる飛行機は準備出来た。身代金は払わないし、収監中のテロリストたちの釈放は交渉の余地はない、と言明した。ロンドンでフジモリはMRTAメンバーの亡命先になってもらいたいと要望した、とされる。

3月2日      
 フジモリ、外国訪問を再開。ドミニカのフェルナンデス大統領と会談後、キューバのカストロを訪問、テロリストたちのキューバへの亡命受入れ方を打診。

3月6日
セルパはペルー軍の公邸へのトンネル掘削に抗議して、政府との対話の中止を発表。このようにフジモリは当初から和戦両様の構えをとっていた。

3月18日
高村外務次官が再びペルー訪問。日本政府は事件の平和的解決のための会談の加速を要望する、とフジモリに伝え、3日後ドミニカ国に渡り、MRTAのメンバーの同国への亡命受け入れ方を公式に要請。

4月20日
セルパは今後公邸への医師の訪問を週一回土曜のみに制限する、と通告。

人質奪還作戦に米軍が参加?とマスコミ 

 1997年2月、ペルーのラ・レプブリカ紙は「日本大使公邸への武力による人質奪還秘密プランが存在する」との記事を掲載した。作戦には米軍の直接参加もあり得る、としていた。このプランはペルー陸軍情報機関が立案してフジモリに提出したものだと報じていた。

 2月17日、ニューヨーク・タイムズ紙は、こう書いた。「急襲に際して、米軍の関与が極めて重要である。プランによると、奇襲部隊はペルー陸軍とパナマに本拠地を持つ、米軍南方奇襲部隊の混合部隊となる」。

 先にも書いたが、3月6日、MRTAのセルパは公邸へのトンネル掘削が進んでいる、として政府との会談を中止している。警察と軍は大音響の音楽を掛けたり、タンクを走らせて轟音を立てたりしたが、トンネル掘削はテロリストたちに気づかれていたのだ。同じニューヨーク・タイムズ紙は、「保証人委員会」のメンバーであり、釈放された人質の駐ペルー・ヴィンセント・カナダ大使は、「保証人委員会」は公邸急襲準備のための時間稼ぎのために立ち上げたものと考える、と主張したとも報じた。

 人質だった、ペルー海軍提督のルイス・ジアンピエトリ(後の副大統領)はミニ通信機を持ち込んでおり、これを使って邸内の情報を奇襲部隊に伝えていた。犯人たちはペルー軍の突入は夜間になると予想し、毎日午後3時から1時間、1階の大広間でリーダーを含む10名がサッカーに興じ、女性隊員たちは見物していることも彼が報告していた。この時間帯、警備は忘れられた。テロリストたちは黒っぽい服装だったため、人質は明るい色の服を着用して、突入の際、奇襲隊員が区別出来るようにしたのもジアンピエトリの案だった。そして、突入10分前に連絡することを要望した。サッカー試合中、人質は2階の部屋に隠れることも打ち合わせていた。

 寺田輝介大使の外交回想録の「ペルー日本大使公邸占拠事件」の項に興味深いことが書かれている。2月1日の橋本総理とフジモリ大統領の会談の際、橋本が「MRTA側が人質に危害を加えないかぎり武力行使はしないというのが、フジモリ大統領の方針である」と述べたのに対して、フジモリ大統領は、「平和的解決に向けて不可欠かつ重要なことは、人質が病気でないことも含め、体のどこにも具合の悪いところがないということである」と語ったとある。(同書281、282ページ)そして、1997年4月20日、セルパは「人質たちへの医師の訪問を週一回土曜に制限する」と通知した。フジモリはこのセルパの失言を奇貨として、これを公邸突入の大義名分にしたのではないか。二日後のペルー軍による公邸突入は日本側には通知されなかった。(続く)

参考資料:Wikipedia: La toma de la residencia del embajador japones en Lima
Peru,una crisis con amplias repercusiones, Paz Veronica Millet
寺田輝介他編 「竹下外交・ペルー日本大使公邸占拠事件・朝鮮半島問題 (吉田書店)
ウイキペディア:在ペルー日本大使公邸占拠事件