連載エッセイ161: 久保平 亮「ブラジル史余話―時速4キロで起きたブラジル初の交通事故―」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ161: 久保平 亮「ブラジル史余話―時速4キロで起きたブラジル初の交通事故―」


連載エッセイ158

ブラジル史余話 ―
時速4キロで起きたブラジル初の交通事故―

執筆者:久保平 亮(ブラジル民族文化研究センター主任研究員)


1897年当時のカリオカ通りの様子 [出典:web]

時は1897年。ブラジルで奴隷制が廃止されてから間もなく十年を迎えようとする頃、当時の首都リオデジャネイロでは、オウヴィドール通りがパリを基調とする欧州文化の一大中心地として殷賑を極めていた。第二次産業革命により重化学工業部門で急速な技術革新が進んだ19世紀後半にあって、その時代の荒波はいよいよブラジルにも及び、ヨーロッパのブランドが進出するようになるなど著しい変化を遂げつつあった“麗しの都”は、「トロピカル・ベル・エポック」(Belle Époque Tropical) の真っ只中にあった。そうした黄金時代のさなか、現在のエンジンの原型が1876年にドイツで完成し、1886年には初のガソリン自動車、ベンツ・パテント・モトールヴァーゲンがドイツ人技術者のカール・ベンツによって開発された。

このガソリン自動車をブラジルに持ち込んだ最初の人物は、アルベルト・サントス・ドゥモンであった。ブラジルの交通手段がまだ荷車中心であった1891年、フランスから一台のプジョー ヴィザヴィ (タイプ3) がサントス港に到着した。のちに「飛行機の父」と称えられる若き日の学徒は、パリでブームになっていたこの文明の利器を、運転のためではなく、純粋な知的好奇心のために輸入したという。翌1892年、父親の落馬事故による不慮の死のために珈琲農園の経営が立ち行かなくなり、当時19歳のドゥモンは一家でフランスに渡った。そしてエッフェル塔が建設されて間もない、刺激に満ちた世界都市パリでドゥモンは航空力学を学ぶ。後年、1942年から1967年にかけて発行された一万クルゼイロ紙幣にその肖像が採用され、リオデジャネイロの国内線専用空港ではサントス・ドゥモン空港としてその名が冠されるなど、今では同国の誰しもがブラジルの偉人として知るところであるが、そんな偉大な「飛行機王」は思いがけずブラジルの自動車史にもその名を留めたのだった。

結局、ドゥモンはそのヴィザヴィを廃車にすることはなかったようだ。ブラジルで記録されている最初の交通事故は、高踏派詩人オラーヴォ・ビラッキ (Olavo Bilac: 1865-1918) が1897年に起こしたからである。その年、元奴隷制廃止論者で当時「ア・シダーデ・ド・リオ」(“A Cidade do Rio”) 紙の社主であったジョゼー・ド・パトロシーニオ (José do Patrocínio: 1853-1905) がパリ旅行中に購入したセルポレー式蒸気動車を持ち帰ってきた。そしてこの名高き元奴隷制廃止論者は友人たちにこう言ったという。

パリから蒸気動車を持ち帰ってきたんだがね…これは未来の乗り物だ、友よ。驚くべきものだ!一時間に数レグアも移動する代物で、坂道だって関係ない。腕の良い機関士がいればコルコバードにだって登れてしまう。保証しよう、コルコバードなんて子ヤギのように登れるのだ。30分でサンフランシスコ広場からアルト・ダ・チジュッカまで行くことだってできる。想像し給え!これは二輪馬車、荷馬車、路面電車、果ては鉄道まで、諸事万端の死なのだ。我々は交通機関の主となることだろう。

ガソリン自動車ではないとはいえ、新たな時代の産物を手に入れたパトロシーニオの欣喜雀躍する姿が想像できよう。その後、彼は友人たちの中から同乗の相手として、自身の新聞に寄稿していた友人のオラーヴォ・ビラッキを誘った。それが運の尽きとも知らずに―。

まだブラジルでは自動車など皆無に等しかった時代である。そのため、道路の舗装はひどく、路面には凹凸が至るところで目立っていたという。道行く人々の注目を集めて気が大きくなったのか、ともかくパトロシーニオはビラッキにセルポレーを運転しないかと持ちかけて、自身は助手席に座った。彼は手早く基本操作をビラッキに教えると、このパルナシアンの詩人は車を発進させ、アルト・ダ・ボア・ヴィスタ地区のヴェーリャ・ダ・チジュッカ街を走り始める。そして悲劇は起こったのだった。時速4キロで走行中、最初のカーブで道路の起伏にハンドルを取られてしまい、木に正面衝突してしまったのだ。この自損事故こそが、ブラジルで初めて記録された交通事故であった。

パトロシーニオはただただ悲嘆に暮れるばかりであった。それに引き換えビラッキは、ブラジルにおける交通事故のパイオニアであることを誇るようになったのであった…。(Nosso Século-1900/1910 (I), 1985, p. 87; Cf. “A Vida Turbulenta de José do Patrocínio”, por R. Magalhães Júnior. Instituto Nacional do Livro, 1972.)

幸いにも、二人は無傷で済んだ。だが、パトロシーニオご自慢の愛車は廃車となり、彼は痛嘆した一方、ビラッキは自分こそがブラジル初の交通事故の記録者だと鼻を高くするのであった。そんな当時のパトロシーニオの心境を思うと、同情の念を禁じ得ない。


パトロシーニオ (左) とビラッキ (右) [出典:web]

ところで、このブラジル初の交通事故の発生年度をめぐっては異説もあるようだ。アウグスト・ガジールが指摘するところによると、それはブラジル文学アカデミーの会員でもあったライムンド・マガリャンエス・ジューニオルが主張するもので、1901年に起こったのだという。同年の11月16日に作家のバティスタ・コエーリョが『自動車』(“O Automóvel”) という短編小説を発表した、というのがその論拠であった。オラーヴォ・ビラッキ詩選集を編纂・刊行したサンパウロ大学のイヴァン・テイシェイラもまた、ビラッキが起こした交通事故を同書の年表に収めてはいるが、その年度については明記していない。

1900年になると、道路交通法が定められるとともに、当時のサンパウロ州知事のアントニオ・プラードによって自動車税も設けられた。1903年ともなれば法定点検が義務化され、車両後方にはナンバープレートが取り付けられるようになり、それに伴い速度制限も定められるようになる。

1904年、まさしくビラッキにこそ必要であった運転免許の試験制度がついに創設された。最初の免許交付者は、メノッチ・ファルチというイタリア系のチョコレート工場経営者であった。二十世紀に入り自動車が次第に大衆的になっていく中で、お抱え運転手 (chauffeur) という新たな職業が誕生したが、彼らはその当時において高度な運転技術を有していたことから非常にサラリーの良い、名誉ある職業人とみなされていた。

パトロシーニオがこの世を去った1905年、ビラッキは『ア・ノティーシア』(“A Notícia”) 紙にかつての交通事故を顧みるエッセイを寄せた。そこでは、「故障すると、子どもたちは車を取り囲んでがやがやと囃し立ててきた」と述べられている。得意顔をしていた彼も、事故当時はやはり羞恥を覚えていたのだろうと思わされるくだりである。そんなビラッキであるが、パトロシーニオが奴隷制廃止運動での活躍ぶりで後世に名を残したように、彼もまた、1907年に雑誌『フォン・フォン』(“Fon-Fon”) で「ブラジル詩壇の貴公子」に選出されるなど、ブラジル屈指の詩人としてブラジル文学史にその名を不朽のものとしたのであった。


1891年モデルのセルポレー式蒸気動車 [出典:web]

参考文献

[書籍]

Nosso Século-1900/1910 (I). São Paulo: Abril Cultural, 1985.

Verrumo, Marcel. História Bizarra da Literatura Brasileira. São Paulo: Editora Planeta, 2017.

[ウェブ]

Dyna. ‘História do automóvel: Descubra qual foi o primeiro carro no Brasil’. Disponível em <https://dyna.com.br/historia-do-automovel-descubra-qual-foi-o-primeiro-carro-no-brasil/> (最終アクセス:2022年5月25日)

Gazir, Augusto. Folha de São Paulo especial. ‘Olavo Bilac era motorista no primeiro acidente do RJ’. Disponível em <https://www1.folha.uol.com.br/fsp/especial/fj220116.htm> (最終アクセス:2022年5月25日)

Motor24. ‘O primeiro acidente de automóvel no Brasil aconteceu a 4 km/h’. Disponível em < https://www.motor24.pt/sites/jornal-dos-classicos/o-primeiro-acidente-de-automovel-no-brasil-aconteceu-a-4-km-h/955518/> (最終アクセス:2022年5月25日)

Rodriguez, Henrique. Quatro Rodas. ‘Primeiro acidente de carro do Brasil foi a 4 km/h e envolveu Olavo Bilac’. Disponível em <https://quatrorodas.abril.com.br/noticias/primeiro-acidente-de-carro-do-brasil-foi-a-4-km-h-e-envolveu-olavo-bilac/> (最終アクセス:2022年5月25日)