連載エッセイ162:田所清克「ブラジル雑感」その10 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ162:田所清克「ブラジル雑感」その10


連載エッセイ159

ブラジル雑感 その10

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

この号では、「ブラジルの食文化について」のその2を紹介する。

「ブラジルの食文化再考 ―宗教的に習合したお祭りFesta dos Meninosの日に食される典型的なバイーア料理:カルル― (その7)」

 間もなく「子供の日」である。もうあちこちの家で鯉のぼりが飾られ、泳いでいる光景を目にすることができる。「子供の日」がブラジルにあろうとは、全く知らなかった。ナゴー (nagô) 族の、IbejiあるいはBêjiと称する神様の日であるが、それはカトリックの聖人であるCosmeとDamiãoとも習合したお祭りがそうで、9月27日に祝われる。ちなみに、双子の神様もしくは聖人は、病気から護り、道を拓き幸運を招くと言われている。この日に食されるのがカルルである。カルルは元来、先住民の食べ物であった。が、料理するアフリカの女奴隷によって変容したもっとも典型的なバイーアのものと言っても過言ではない。

 ブラジルを代表する民俗学者であるカーマラ・カスクード [1898-1986] によれば、カルルとはトゥピー語由来の、オクラなどの野菜、魚、甲殻類からなるシチュー状の料理を言い、「厚い葉」(caruru = folha grosso) から来ているそうだ。

 その料理がサトウキビ農場で変容して、デンデー油、アーモンドなどの食材が加わったらしい。目下、このカルル料理は、先述のカトリックの聖人であるCosmeとDamiãoがナゴー族の双子の神様と習合した日を祝う、Festa dos Meninosにおいて供せられる。であるから、“O caruru dos meninos”あるいは“o caruru de Cosme”とも呼ばれるわけである。

 Caruru dos Meninosの日にはカルルが振る舞われる。といっても、まずこの料理を口にできるのは、むしろに座った一番年少の7人の子供たちである。その後、他の子供にも供せられ、大人がありつけるのは、全ての子供の後になる。

 カンドンブレーとは直接関係はないが、サルヴァドールの住民はこの日を祝う。のみならず、なかんずく下層の婚約者たちは、この日を結婚式の日にするという。個人的に見聞したことはないが、Caruru dos Meninosが祝われるサルヴァドールの街は祭り一色となるみたい。そして、朝に夕にふんだんにカルルが振る舞われるのは必然であるが、その他にも、ヴァタパー (vatapá)、シンシン・デ・ガリーニャ (Xinxim de galinha) といったバイーアのさまざまな料理が登場するそうだ。

 いずれにせよ、カルルという料理が先住民族とアフリカ系、わけてもナゴー族の間の食文化が融合した結晶ものであり、他方において宗教面の習合した祝典の日の食べ物としてみなされているのは、すこぶる興味深い。

[注記]
① caruru = アフリカ原産のオクラを中心に、香味野菜、生のハーブ類を、唐辛子などを加えてバイーア風に煮込んだ料理。アカラジェーと組み合わせて食べられる場合が少なくない。
② xinxim de galinha = アフリカ西海岸のギニア・ビサウに淵源を持つと考えられている、バイーア風に調理された鶏肉料理。干し肉で代用することもある。滝や豊穣を司る神であるOxumに宗教儀礼では供えられる。

[参考文献]
田所清克・大浦智子共著「食彩の世界 ブラジルのローカルカラー豊かな郷土料理」、地中海文化研究会会誌“Mare Nostrum”、研究報告 100回開催特別号、2004年、pp. 1-45.


[カルル (Webより転載)]

「ブラジルの食文化再考 ―コズィーニャ・ド・セルタン― (その8)」

 ブラジルを訪ねて、北東部奥地のセルタンに出向いた日本人はそう多くはないはずだ。これまで私は、自著の中で機会あるごとにこの地域について言及している。屋上屋を架することになるが、この奥地を一ヶ月間訪ねたことに少々触れたい。

 リオデジャネイロに留学していた二年目に、インディオ系の学友に勧められて、当時あまたの問題をかかえるアマゾンや北東部を、学生レベルで調査・研究する内務省企画の「ロンドン計画」( Projeto Rondon) に応募した。幸い面接を含めた数次の選考試験に受かり、軍用機で奥地へ行くことに相成った。といっても、それはセアラー州の都であるフォルタレーザまでで、そこからはアグレステ (agreste) を経由して、舗装されていない石ころだらけのカアチンガ (caatinga) 地帯に位置する目的地に辿り着いたときのことを、今でも鮮明に覚えている。
 
このブラジル政府が主導する「ロンドン計画」に参画したのは、おそらく日本人学生として私が初めてであるように思われ、今では自慢の一つになっている。ともあれ、南東部、南部の人でもあまり訪ねたことのない、セルタンでの貴重な体験は、その後のブラジルをトータルに認識する上ですこぶる有益であった。

 さて、肝心の料理に焦点を当てることにしよう。概して、北東部の料理は、これまでみてきたアフリカの影響が色濃いバイーアのものと、インディオやポルトガルの影響を受けた、コズィーニャ・ノルデスチーナ (cozinha nordestina) と称される広範囲に亘るものに大別される。しかしながら、特にセルタン地帯で食される、スタミナのつきそうな料理はコズィーニャ・ド・セルタン (cozinha do sertão) と呼ばれている。

 ペドロ・アルヴァレス・カブラル (Pedro Álvares Cabral) がブラジルを「発見」する以前には、この地には牛はおろか、豚、羊、鶏、ガチョウ、鴨なども存在していなかった。そうした家畜の類いがポルトガル人によって北東部に持ち込まれた結果、この地の料理は新たな様相を帯びるのである。そして半乾燥地帯という気候風土のセルタンでは、特有の料理が生まれる。次回はそのセルタンの典型的な料理に光を当てて紹介したい。

[注記]
caatinga = ブラジル北東部の内奥に拡がる半乾燥の自然地域で、植生の観点からは、マンダカルーなどのサボテンや有棘低木が支配する。棘で怪我をしないように、この地の牧童であるヴァケイロ (vaqueiro) は革製のものを身に着けている。


[北東部地域の地図 (Webより転載)]


[カアチンガ地帯 (Webより転載)]

「ブラジルの食文化再考 ―セルタンの典型的な料理― (その9)」

 料理名を指すこともあるが、carne de solは北東部を代表する食材である。一言でいえば、「干し肉」。大きな牛肉の塊に分けられた後ろ足の腿、股の部位 (coxão-mole, coxão-duro, patinho) を塩水に漬けた後、風にさらしながら陰干しされる。その干し肉は、セアラー州が有名なことからカルネ・デ・セアラー (carne de Ceará) [セアラーの肉]、あるいはカルネ・デ・セルタン (carne de sertão) [奥地の肉]、カルネ・デ・ヴェント (carne de vento) [風の肉] などと呼ばれたりもする。

 カルネ・デ・ソルの起源は「奥地の人」、つまりセルタネージョ (sertanejo) が保存食として作っていたようだ。その昔、セアラー州出身の移住者が南部にまで広めたこともあって、今ではブラジル中で知られている。カルネ・デ・ソルに見慣れるまでは、煮込み料理などの具にされるカルネ・セッカ [塩漬け肉] と見分けがつきにくい。

 北東部では、カルネ・セッカ (carne seca) の中でも、ジャヴァー (javá) と言われる種類がカルネ・デ・ソル同様に好まれてきたようだ。販売している人に尋ねると、カルネ・デ・ソルのほうがどちらかと言えば、新鮮であるとのこと。カルネ・デ・ソルは干し始めから早くても2、3日、通常1週間から食べ頃になるので、どっぷりと塩漬けされたカルネ・セッカに較べて肉が生の状態に近く、塩気も少ない。

 よく見られる調理法としてカルネ・デ・ソルは、ステーキにしたりサイコロ状に切り分けて油で揚げることが多い。ジャヴァーの場合は、肉の繊維を細かく切って調理されるのが普通である。また、北東部特産の強い香りを放つ瓶入りバター (manteiga de garrafa) を溶かし、肉に味付けされる。そして、ご飯、茹でた豆類(例えば、フェイジョン・ヴェルデ (feijão verde) やフェイジョン・デ・コルダなど)、マンディオカで作られたファローファ (farofa) やプューレ、揚げ物等と添えられて供される。北東部地域以外の都市でも、北東部の食材を扱っている食料品店や専門のレストランがある。そうした食料品店では、店頭にカルネ・デ・ソルが吊るされ、独特の香りを漂わせている。

 19世紀から20世紀にかけて、北東部を襲った大旱魃と経済の低迷により、困窮を極めた人たちがセルタンにはいた。そうした状況の中で、過酷な自然とたたかいながら政府に楯突いたランピアン (Lampião) がこの世界で跋扈していたのも思い出される。彼らはピンガをあおりながら、カルネ・デ・ソルを常食にしていたことだろう。ともあれ、セルタンで暮らしたことのある人は、カルネ・デ・ソルを食べると、セルタンの場景が思いだされ、帰郷への想いが募るそうだ。そのセルタンに1ヶ月逗留していた私の場合もそうした心境に駆られる。

[引用文献]
田所清克・大浦智子共著「食彩の世界 ブラジルのローカルカラー豊かな郷土料理」、地中海文化研究会会誌“Mare Nostrum”、研究報告 100回開催特別号、2004年。


店先で販売されている干し肉

「ブラジルの食文化再考 ―セルタンの典型的な料理:ブッシャーダおよびバイアン・デ・ドイス― (その10)

 ブッシャーダ (Buchada) とは「胃詰め料理」のこと。羊や山羊の胃袋に、肝臓、心臓、腎臓などの臓器が刻んで包まれ、香味野菜やスパイス入りのスープで煮込まれる。膨らんだ胃袋の表面は、ヒダ状や網の目模様をしている。日本ではパクチーとも中国パセリとも言われるコエントロ [coentro:英語ではコリアンダー] を添えると、特有の臭みも気にならない。ルーラ元大統もこの料理が好物のようである。

転じて、もう一つのバイアン・デ・ドイス (Baião de dois) はいわば、セルタン風の炊き込みご飯。ご飯やフェイジョン・デ・コルダ (Feijão de corda) という種類の豆、カルネ・セッカ (carne seca:干し肉)、北東部地域オリジナルのチーズであるケイジョ・コアーリョ (queijo coalho)、玉ねぎなどを刻んだものが一緒に炊きこまれる。

◼ イラストは、大浦智子さんのご友人である、デザイナーの本澤夕佳さんの提供のもの。


ブッシャーダのイラスト


バイアン・デ・ドイスのイラスト

「ブラジルの食文化再考  ―北東部の”砂糖文明”に結びついた食文化:砂糖を使った食べ物 ①― (その11)」

今日では、砂糖やエタノールの原料となるサトウキビの最大の生産地域はサンパウロ州で、実に全生産量の55%を占める。そのサトウキビの苗は、マルティン・アフォンソ・デ・ソウザ (Martim Afonso de Sousa: 1500-1564) によって、1532年にブラジルに持ち込まれた。そして1540年の時点ではすでに、サン・ヴィセンテからペルナンブーコまでの全てのカピタニア (capitania) において栽培され始め、エンジェーニョ (engenho:砂糖農場) が存在していたと言われる。金、ダイヤモンドの発見によるブームで、産業の中心地が南東部のミナスジェライスに移り斜陽期を迎えたものの、砂糖は植民地ブラジルの主要な輸出産物であり続けた。

 冒頭に述べたように、今ではサンパウロ州が最大のサトウキビ生産地域である。しかしながら、1535年から1695年の間の、いわゆるサトウキビ・サイクル (Cíclo de Cana-de-Açúcar) と称される、殷賑を極めた栽培地域は北東部である。北東部には、サトウキビの生育に適したマサペー (massapê) 土壌が存在していることも、この地域で砂糖文明が生まれた一大要因だろう。

 余談ながら、私は奴隷逃亡集落キロンボ (quilombo) で有名なパルマーレス (União dos Palmares) を関西テレビの取材班と訪ねた折に、延々と拡がるサトウキビ畑のあるところで下車して、マサペーを採取、小瓶に詰めたことがある。それを大学のブラジル文化関連の授業で、いつも学生諸君に見せていたものだ。バイーアとペルナンブーコはそうした砂糖文明の拠点で、両都市からはブラジル文化のプロトタイプと思われるものも創り出された。砂糖を使った食べ物が生まれたのも然り。

 次回は、その砂糖を使ったいくつかの食べ物を紹介したい。


地図:Região Nordeste (北東部地域)


奴隷制に抗する象徴的存在であったズンビー像

「ブラジルの食文化再考 ―北東部の”砂糖文明”に結びついた食文化:砂糖を使った食べ物 ②― (その12)」

北東部沿岸部、すなわちゾーナ・ダ・マッタ (Zona da Mata) では、17世紀半ばからサトウキビ栽培をベースにした植民地化が行われたが、それは多様化した社会を生み出す要因となった。ところで、サトウキビ栽培が発展・拡大するにつれて、例えばシスターが修道院で作るお菓子の類には、砂糖がたっぷり使われるようになった。今日でも食べられるアホイス・ドーセ (arroz doce)、キンジン (quindim)、セキーリョ (sequilho) などはその時代に現れた食べ物と言ってよい。

 大農園主の邸宅では概して、黒人女性が調理を担い、果実を加えた砂糖菓子が作られた。中でもブラジルを代表する砂糖菓子であるゴイアバーダ (goiabada) はその典型。このようにブラジル風のお菓子は、砂糖農場の園主が精製した砂糖を使って女奴隷に作らせたのが淵源となっている。

 とにかく甘いブラジルのお菓子。世界中で砂糖が薬同様に高価で貴重であった時代に、砂糖をたっぷり加えたレシピがみられたこと自体、北東部が如何に豊かであったかを物語っている。ちなみに、甘い物を食するポルトガルの伝統は、アラブ系民族の影響であり、それがポルトガル人を介してブラジルにも伝播した。