連載レポート93:富田眞三 「ペルー日本大使公邸占拠事件 その3」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載レポート93:富田眞三 「ペルー日本大使公邸占拠事件 その3」


連載レポート94

「ペルー日本大使公邸占拠事件 その3」

執筆者:富田 眞三(在テキサスブロガー)

「ペルー奇襲部隊の突入開始」


写真:(https://www.caretes.pe/hemeroteca/)

ペルー日本大使公邸占拠から4か月以上経過した1997年4月22日、140名のペルー陸軍士官からなる、チャビン・デ・ワンタールと命名された、極秘奇襲部隊の日本大使公邸への突入準備は整った。チャビン・デ・ワンタールとは数本の地下道があることで有名なペルーの古代遺跡であり、フジモリは1月初旬、この遺跡の夢を見て、トンネル掘削を思いついた、と言う。

15:23 チャビン・デ・ワンタール部隊の作戦が開始された。大使公邸1階の三か所に仕掛けられた、爆発物がほとんど同時に爆発した。最初の爆発はテロリストたちがサッカーをしていた、広間の真ん中で起こった。たちどころに3人のテロリストたちが死亡した。サッカーをしていた者が2名、サイドラインで応援していた少女隊員が1名だった。

爆発で出来たこの穴と他の2か所の爆発で作られた、壁の隙間から30名の奇襲隊員が邸内に突入してきた。彼らは生き残りのMRTAメンバーが人質のいる二階に上がることを阻止する使命を帯びていた。これらの爆発と同時に、他の2か所でも作戦が開始された。第一は20名の奇襲隊員が正面玄関のドアを爆破して待合室に突入後、2階へ通じる階段を封鎖した。その際、正面玄関を警備していた2名のテロリストたちを倒した。


写真:(https://www/caretes.pe)

 第一波の突入に続いて、梯子を持参した別のグループは、公邸の裏側の壁に梯子をかけた。突入は整然と計画とおりに進行していた。最後のグループは、公邸の裏庭に開けられたトンネル出口から現れると、彼らのために壁に立てられた梯子を素早く2階へと昇って行った。彼らの任務は二つあった。一は2階の防弾ドアを爆破して、2階にいる人質を救出すること、二は天井に二つの穴を開けて、天井裏に潜むテロリストたちが人質に発砲することを防ぐことだった。

 チャビン・デ・ワンタール部隊の突入によって、14名のMRTAテロリストたちが殺害され、不幸にも人質だった最高裁判事のカルロス・アクーニャと2名の士官、サンドバル・ルイス中佐およびラウル・ヒメネス中尉が戦死したが、71名の人質は救出された。


写真:(www.larepublica.com)

 米国国防情報局(DIA)によると、MRTAナンバー2のロリ・ロハスは人質たちに紛れ込んで逃走を図ったが発見された。一隊員がロハスを拘束して、公邸の後方に連行すると、半自動小銃の連射によって頭部を吹き飛ばした。DIAの電信によると、奇襲隊員はロハスの頭部に1発だけ発射するつもりだったが、エラーによってこんな結果になったため、隊員はロハスの遺体をネストール・セルパの遺体の下に隠すように放置した。DIAは突入後、他のMRTAメンバーも同様に処刑された、と報じた。

「突入の際のフジモリの命令」


写真:(https://www.caretes.pe/hemeroteca/)

 DIAの報告書によると、アルベルト・フジモリは公邸突入前、直々に急襲部隊員全員に「テロリストたちは捕虜にするな、殺害せよ」と命令していた。人質救出の終了後、公邸の屋上に掲げられていた、MRTA旗が奇襲隊員たちによって降ろされたとき、フジモリは幾人かの人質とともにペルー国歌を歌った。ペルーのTV局はテロリストたちの死体の近くを歩くフジモリを映していた。中には手足が切断されたテロリストたちの遺体があった。


写真:(https://www.elpais.com)

 また、フジモリは公邸の広間の階段わきに置かれたMRTANo.1のセルパとNo.2のロハスの遺体を前で写真を撮らせた。ロハスの頭部は銃の乱射で吹き飛ばされていたので、認知できない状態だった。邸内を一回りしたフジモリは、救出された人質が乗ったバスに同乗して満足げに公邸を後にした。

 チャビン・デ・ワンタール部隊の軍事的勝利は政治的偉業として報道され、大統領のテロリストに対する厳しい姿勢を補強するのに役立った。フジモリの支持率は倍増して70%に迫り、彼は一躍国民的英雄となり、批判するものはいなかった。勝利の熱狂が落ち着いたころ、詩人のアントニオ・シスネーロスは、この大成功は、ペルー国民の自尊心を少し高めた、と書いた。とにかく、誰もこの作戦の見事さ、スピードを予想したものはいなかった。軍隊用語で言えば、この作戦は第一世界の仕事であり、絶対にペルーのような第三世界の国が出来る仕事ではなかった。

 フジモリは人質救出作戦の成功を一人占めした感があった。ペルー日本大使公邸占拠事件が起きた直後の1996年12月17日付けのエル・コメルシオ紙記者の行ったフジモリのインタービューで、大統領は人質奪還作戦についてペルー情報機関のトップである、フリオ・サラサール、大統領顧問のモンテシーノ及びペルー軍統合参謀本部のニコラス・エルモサたちと公邸占拠直後に相談した、と語っているように、平和的解決は彼のプランには入っていなかった。とにかく、フジモリ、モンテシーノとエルモサによる、軍主導のトロイカ体制が当時のペルー政治を牛耳っていたので、この事件は三人にとって屈辱以外の何ものでもなかった。

「外国の関与と内外の反応」


救出作戦の一部始終、右上はトンネルの出口   写真:(www.larepublica.com)

 米国とイスラエルがペルー軍に対して、日本大使公邸突入作戦への援助を行ったという情報が伝わってきた。米国国務省のスポークスマン・ニコラス・バンは、突入に関して米政府は一切関与していない、と主張した。だが、1997年4月23日、元FBI情報員のボブ・タウベルはCNNの記者に「ペルー軍は昨年の12月から米国内某所において、突入に関する訓練を受けた」と証言した。タウベルは更に「ペルー奇襲部隊隊員たちは、訓練されたとおりに作戦を実行した。私は彼らを大変誇りに思う」ともコメントした。

 一方、米国のCIAは「公邸突入作戦を実行した、ペルー軍に何らかの援助をしたか?」とのマスコミの質問に「ノーコメント」だった。しかし、ペルーの消息筋によると、CIA及び他の米国情報機関はペルー軍の対反乱分子作戦に深く関与している、と語る。例えば、CIAは1992年にペルー秘密警察が行った、極左ゲリラ組織センデーロ・ルミノーソのリーダーだった、アビマエル・グスマンの捜索、逮捕にじきじき参加していた、例があると語っている。

 では、外国政府、特に同じ南米大陸の政府は、この救出作戦をどう見ているか、見てみよう。総じて軍事作戦は好意的に見られている。コロンビア、ボリビア、チリー、ヴェネスエラの大統領たちはフジモリの決断を支持している。彼らにとって、ペルーの事件は対岸の火事と見過ごすことが出来ない現実なのだ。

「隠された占拠事件の真相」

 以上、占拠事件をペルー側の視点から見てきた。次に日本の記者が現場で見聞きした情報をお届けしたい。記者の名は青山繁晴(共同通信)であり、現在は自民党所属の参議院議員である。同氏はペルーで120日以上、報道に携わった唯一の記者でもある。この情報は青山の番組である、チャンネル桜の「ペルー日本大使公邸占拠事件の隠された事実(2012/6/14)https://www.nicovideo.jp/watch/sm18096826内で青山が語った、ある筋から得た、隠された事件の真相である。彼がこれらの真相を公に出来たのは、事件の15年後のことだった。

① 日本大使公邸が占拠された、1996年12月17日の2日後、早くも池田外務大臣はペルーの首府リマに到着した。20日、MRTAのリーダー・セルパから日本側に連絡が入った。「池田大臣に公邸に来て欲しい。我々は池田と他の人質との交換をしたい。彼が残れば、他の人質は解放する」と提案してきた。ところが、東大法卒の大蔵官僚で池田勇人の婿養子の池田行彦は直ちにNOと拒絶、「ぼく帰る」と言って、翌日帰国してしまった。日本は千載一遇の「平和的解決」の機会を失ったのだ。この件は、池田の通訳をした、寺田大使の「外交回想録」には書かれていない。

 この事実を知ったフジモリは「今や日本の武士道精神は廃れたのか」と嘆き、これ以降度胸のない腰抜けの日本人をすっかりなめてしまった。何よりの証拠は、公邸突入に際し、フジモリは日本側に公邸突入の許可どころか、事前通告さえしなかったことだ。フジモリは日本が主張する平和的解決を隠れ蓑にして時間を稼ぎ、強行突入のためのトンネルの掘削を開始した。

事件解決後、「日本は平和ボケして、いざ鎌倉へのとき、尻込みする弱虫だ」との国際的評価が確立されてしまった。私はよど号事件の際、当時運輸政務次官だった、山村新治郎がただ一人100名の日本人人質の身代わりになったエピソードを思い出していた。

② 強行突入決行の午後、日本人人質は二階の一室に集まっていた。入口には14,5才の少年テロリストが半自動小銃を構えて見張っていた。すると、階下で爆発が起こり、怒声が聞こえたので、少年はペルー軍が突入したことを知った。彼が引き金を引けば、人質全員が殺害されただろう。だが、少年は引き金を引くどころか、銃を持って後ずさりし始めた。

 この4か月の間、日本人たちはジャングル育ちで親から50ドルでテロリストに売られた少年を「人間として扱ってくれ、囲碁を教え、ギターを弾いて一緒に歌を唄う仲になっていた」。そんなアミーゴになった日本人を彼は撃てなかった。やがて、二階に駆け上がってきた、ペルー軍に少年は射殺された。人質は一人を除き全員生き長らえた。少年のおかげで奇跡が起こったのだ。フジモリにとって、突入による人質の犠牲は想定内だったからだ。

③ テロリストのリーダーとサブリーダーの死体の喉は、十文字に切断されていた。これはインカの習慣で、政府に逆らうと、こうなるぞ、という見せしめだった。この映像はTVにしっかり放映させた。占拠していたテロリストの中に14,5才の少女が二人いた。サッカー試合を応援していた少女は、爆発で死亡したが、もう一人の子(この子も50ドルでMRTAに売られた)は両手を挙げて投降してきたところを、隊員に逮捕された。隊員は少女を戸外に出して、TV、記者たちに顔を見せた後、室内に連れ戻り、両手を切断して、血まみれの少女は強姦された。その後、少女は両足も切断された。これも政府に反抗するとこうなるぞ、という見せしめだった。

「公邸占拠事件の教訓」


写真:(https://www.es.academic.com)

 さて、以下は、ラテンアメリカ政治の専門家・パス・ベロニカ・ミレ教授による、ペルー日本大使公邸占拠事件の総括である。

「ペルー日本大使公邸占拠事件は三名の犠牲者を出したが、大多数の人質の救出に成功した。しかしながら、今回のMRTAの公邸占拠事件が示したように、武力によってペルーの反政府勢力を根絶して、平和と秩序を取り戻すことは容易いことではないと分かってきた。なぜならば、これらの反政府運動の温床になる、ペルーにおける経済的格差、高い文盲率、人種差別等の問題は簡単に解決出来ないからだ。だが、これらの問題を根本から改革しなければ、反政府闘争は終わらないのだ。

 政治分野における、フジモリの評判は公邸占拠事件後まもなく下落し始めた。国民はフジモリと奇襲部隊員たちが執った、救出時の強権的行動に拒否反応を示し始め、政府の著しい権力主義と大統領への極端な権力の集中にペルー国民は批判的になってきた。

 ペルー日本大使公邸占拠事件を経験して、ペルー国民は経済的繁栄以上に、民主主義的かつ組織的な政治体制の確立と平和で安全なペルーの出現を欲するようになってきた」。(終わり)

参考資料:
Wikipedia: La toma de la residencia del embajador japones en Lima
Peru,una crisis con amplias repercusiones, Paz Veronica Millet
La toma de la Embajada (escribe Fernando Rospigliosi y Jimmy Torres)
ペルー日本大使公邸占拠事件の隠された事実(2012/6/14) 青山繁晴https://www.nicovideo.jp/watch/sm18096826