連載エッセイ167:田所清克「ブラジル雑感」その11 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ167:田所清克「ブラジル雑感」その11


連載エッセイ 164

ブラジル雑感 その11

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

この号では、「ブラジルの食文化再考について」のその3を紹介する。

「北東部の”砂糖文明”に結びついた食文化:ラパドゥーラ― (その13)」

ラパドゥーラ (rapadura) は、ブラジルの北東部およびラテンアメリカの典型的な食べ物である。ブラジル以外のラテンアメリカの国々では、多様な名称で呼ばれている。例えば、メキシコ、コロンビアなどではpanelaと。メキシコではpiloncillo という別の名称もある。更に、ボリビア、チリ、ペルーではchancacaと呼ばれるそうだ。

 そもそもこのラパドゥーラは、アソーレス諸島およびカナリア諸島伝来のものらしい。要するに、まだ精製されていない前の段階の砂糖であり、黒砂糖さながらに焦げ茶色をしている。ラパドゥーラは一般には小規模の製糖工場で製造される。レンガの如き形状をしているのは16世紀以来、個人消費用に運搬に好都合であったからのようである。精製後の砂糖に較べると水分を含んでいる。黒砂糖でも白砂糖でもない味覚が特徴のようだ。

 むろん、店でもレンガ状に固められたものが売られているが、砂糖だけをお菓子として食べられるのもあってか、一口サイズに包装されたかたちで売られている。砂糖が贅沢品であった時代、黒人奴隷たちはラパドゥーラを使って自分たちのお菓子を作っていたそうだ。


ラパドゥーラ (webより転載)


市販品のラパドゥーラ (webより転載)

「北東部の”砂糖文明”に結びついた食文化:ゴイアバーダ― (14)」

果実の天国であるブラジル北東部で、果実食い (frutívoro) の私は、さまざまな果実を食べた想い出がある。ゴイアバ (goiaba) もその一つで、鈴生りになったそれを枝からもいで口にしたものだ。北東部に出向かなくとも、リオ滞在中はホテルの朝食時に食べたのが常であった。このフルーツにとって玉にきずは種があることで、小さいながら硬いそれに歯を痛めたこともある。

 ゴイアバーダは、熱帯アメリカ原産の果実であるゴイアバ [日本ではグァバと言う] を砂糖で煮詰めたもので、これもレンガ状あるいはゼリーのかたちで売られ、見た目は赤い羊羹のようだ。田舎の典型的な食べ物であったが、今では国中で食べられる。であるから、スーパーに行けばどこでもその甘いゴイアバーダが目に入る。

 チーズ、それもミナスのチーズ (queijo minas) と共に食べるのが最高のようだ。これを、シェークスピアの作品名にある‘Romeu e Julieta’と呼ぶ。北東部に入植したポルトガル人が、マーマレードの代わりに作ったと言われている。そして今では、ブラジルの代表的な砂糖菓子になっている。ブラジルに限らず、世界にはゴイアバーダを消費する国があるようであるが、筆者は寡聞にして知らない。

 バールやレストランでは伝統的なデザートとしても供されるゴイアバーダ。前述の、チーズと薄切りにした組み合わせで食べられる以外に、クッキーに挟んだり、煮溶かしてソースにしたりと、さまざまなかたちで利用されている。

 ところで、このゴイアバーダの生産の大半はサンパウロ州とのこと。


ゴイアバーダ (webより転載)


ゴイアバーダとチーズ (webより転載)

「北東部の”砂糖文明”に結びついた食文化:菓子― (15)」

サトウキビ開発の過程で、砂糖農場 (engenho) の農園主の邸宅 (casa grande) の洗練された砂糖を使った食べ物は、アフリカとポルトガルとモーロの技法を取り混ぜながら黒人女の手によって作られた。農園主の邸宅において砂糖は富の象徴であったし、祭りや儀式では多くの砂糖を使ったメニューが食卓を飾ったそうである。

前に紹介したゴイアバーダ以外にも、砂糖を使ったフルーツや野菜の食べ物がその一角をなした。例えば、コカーダ (cocada [ココナッツの粉で作った菓子])、ドーセ・デ・バナーナ (doce de banana [バナナ菓子])、ドーセ・デ・アボーボラ (doce de abóbora [かぼちゃ菓子]) などがそうである。

 その一方で、おやつ代わりにケーキも常食であったようだ。そのケーキのレシピのベースになっているのは、卵、砂糖、小麦粉であるが、地域によってあるいは食材が手に入る場合は、他の物も加えられる。ココナッツミルク (leite de coco)、マンディオカのデンプン (goma de mandioca)、トウモロコシ、落花生等がその一例である。

ケーキの名称を巡っては、社会慣習や宗教、歴史上の人物に因んだものも、興味深い。「夫探しのケーキ」(bolo busca-marido)、「福者」(beata)、「サントス・ドゥモン ケーキ」(bolo Santos Dumont) などがその典型。植民地期の北東部では、砂糖は農園主家族にとっての食事のベースであったが、それは奴隷や貧しい白人にとってもそうであった。

ラパドゥーラ、カシャサ、ぺー・デ・モレッケ (pé de moleque [ピーナッツ入りのカルメ焼き]) などは、肉や米、豆類の如き食材がしばしば欠如している時の、黒人や貧者にとっては飢えを癒やす (matar a fome) あるいは飢えを紛らわす (enganar a fome) ための食べ物でもあった。


ドーセ・デ・バナーナ [バナナ菓子] (webより転載)


ドーセ・デ・アボーボラ [かぼちゃ菓子] (webより転載)

ブラジルの食文化再考
―南東部の典型的な料理(はじめに)―

北東部を離れて、南東部の食文化と典型的な料理に論を進めたい。その前にまず、南東部(Sudeste) をかいつまんで概観する。国土のおよそ11% (92万㎢) を占める南東部は、広大な北部アマゾン地域の四分の一程度で、南部に次いで二番目に小さい面積の地域である。
1946年に実施されたブラジル地理統計院 (IBGE) による最初の行政区分では、南東部地域は存在しなかった。であるから、サンパウロは南部地域、リオデジャネイロやミナスジェライス、エスピーリト・サントの場合は東部地域に組み入れられた塩梅であった。

現在の四つの州が再編されて南東部を構成するようになったのは、1969年になってからのことである。ちなみに、1960年のブラジリアへの遷都に伴い、それまで連邦府のあったグアナバラ州はリオデジャネイロ州に編入されて現在に至る。17世紀の末期にゴイアース、マットグロッソ州のある中西部も含めて、ミナス地方でサンパウロの奥地探検隊員(bandeirantes: バンデイランテス) によって金鉱が発見されるや南東部は、後のコーヒー産業の殷賑もあって工業化サイクルに突入し、俄然、国の中心的機能を担う地域となった。次回は、四つの州のそれぞれについて述べながら、その食文化の背景を探りたい。


イビラプエラ公園内に佇むバンデイランテス像

ブラジルの食文化再考
―リオデジャネイロ州の典型的な料理(その1)―

前回説明したように、南東部はリオデジャネイロ、サンパウロ、ミナスジェライス並びにエスピーリット・サントの四州から構成されている。各州の住民はそれぞれ、カリオカ (carioca) 、パウリスターノ (paulistano)、ミネイロ (mineiro)、カピシャーバ (capixaba) もしくはエスピーリット・サンテンセ (espírito-santense) と呼ばれ、地域ごとに食文化や料理法を含めた独自の文化を育んできた。

リオデジャネイロ州はかって首都が置かれたところで、もっとも華やかな国際観光都市であるリオをかかえている。そのリオの州都は、フランスのパリを模して都市計画がなされたこともあって、繰り返すが、実に瀟洒で垢抜けしている。芸術や音楽などの文化の中心地で、日本のアーティストにとっては憧れの地である。

ちなみに、大々的な都市改造の際には、市内に点在するファヴェーラの一部を一掃して、映画Cidade de Deusの舞台となったジャカレパグアー (Jacarepaguá) にその住民を強制移住させたほどである。周知のように、州都リオは知名度の高い大都会。豪華絢爛たるカーニバル、イパネマやコパカバーナを闊歩する、小麦色した (morena) 魅力的な女の子 (garota )、街の至るところで耳にするSambaやBossa Novaなど、この麗しきリゾート都市は魅惑に溢れている。もともとは片田舎に過ぎなかったが、ナポレオンの侵攻を逃れて1808年にポルトガル王室が移転して以来、この街は格段に洗練され、ブラジリアに遷都されるまで首都機能を果たしてきた。と言うよりは、今もなおブラジルの表玄関であり続けている。リオにはこの地を代表する料理がある。その料理文化の典型を次に紹介したい。


パン・デ・アスーカル (Pão de Açúcar) からの景色

ブラジルの食文化再考
―リオデジャネイロ州の典型的な料理(その2)―

まさに絶景としか言いようのない、風光明媚な自然景観と、お洒落な雰囲気の漂う街リオ。カリオカたちの言動や立ち振舞いに魅せられたのは、凡人の私のみならず文人墨客もそうであった。

「利甫は酔って酔って酔っ払った天女です」と妖艶なリオを形容した堀口大學。『仮面の告白』の作者である三島由紀夫は、『アポロの杯』(新潮文庫)の中で、「リオはふしぎなほど完全な都会である」と述べた。その一方で、シュテファン・ツヴァイクは『未来の国ブラジル』(河出書房新社)の一節で、「ここで海と山、都会と熱帯の自然の素晴らしい組み合わせという、地球上で最高の風景美に出会ったのみならず、文明の全く新しい様式を見出した(…)」と綴っている。リオの景観を目の当たりにして五木寛之の場合は、優艶なその都市に深く心酔して、さも白日夢を見ているような印象を『異国の街角で』(集英社文庫)において吐露している。

ともあれ、滞在中のリオで彼らは一体何を食したのだろうか? 個人的にはすこぶる興味を引くテーマである。さて、リオの料理といえば、フェイジョアーダ・カリオカ (feijoada carioca) がすぐさま頭に浮かぶ。この料理は従来、北東部の農園で働く黒人奴隷が編み出したものと考えられていた。農園主家族が食べない食材の一部、つまり使い捨てのものをうまく活用して独自の料理に仕上げたのがフェイジョアーダと見做されていた。

ところが、この料理は黒人奴隷小屋 (senzala) で発案された料理ではなく、様々な肉、野菜などを混ぜ合わせた伝統的な地中海料理であることが、歴史家のロドリゴ・エリアス (Rodrigo Elias) 等の研究を通じて判明している。その料理をポルトガル人がブラジルにもたらしたというわけである。白豆 (feijão-branco) の如きいくつかの食材は代用されたものもあるが、19世紀以降すでに、塩漬けの豚肉が使われていたようだ。次回はfeijoada cariocaについて言及する。


フェイジョアーダ [久保平亮氏提供]