連載エッセイ178:島袋正克「エルネスト・チェ・ゲバラの最後の日々」その1 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ178:島袋正克「エルネスト・チェ・ゲバラの最後の日々」その1


連載エッセイ 175

エルネスト・チェ・ゲバラの最後の日々 その1

執筆者:島袋正克 ㈱伊島代表取締役

本年度「ラテンアメリカなるほどトーク」の第4弾として、島袋正克氏による上記タイトルのオンライン講演会が8月4日(木)に開催されました。参加者も90名を越える盛況で大変好評でした。この原稿は、講演者の島袋氏の講演原稿です。

「ボリビアの風景と印象」

ボリビアの印象と言えば、どなたもアンデス山脈や海抜約4,000メートルにある首都ラパス、あるいはインカ帝国の発祥の地、チチカカ湖に浮かぶ太陽の島。あるいは天空の鏡と呼ばれるウユニ塩湖などではないでしょうか?
それらは、確かにアンデスの山頂に存在します。ですから一般的にボリビアの印象といえば、荒涼としたアンデス山脈で民族衣装を身にまとった先住民が奏でるケーナの音色が描き出すフォルクローレの世界ではないでしょうか。
では、アンデス山脈を東側に降ってみましょう。山脈はサンタクルスの西にたどり着くとそこで高さを失い、裾野となってアンデスの山並みは終わります。
そして、そこから緑に覆われた亜熱帯の密林がブラジルに至るまで続き、南東にはパンパと呼ばれる草原がアルゼンチンやパラグアイへと広がっています。この地方は農牧に適し、温暖な気候は作物を豊かに実らせ、カンバと呼ばれるその地方の人々は陽気で、お祭り好きで、パンだけではなく、ユーカと呼ばれているキャッサバを主食にし、バナナやマンゴーなどの果物も豊富で、当時も現在も飢餓の心配はまったくありません。


ボリビアのイメージ風景

「サンタクルスの昔の風景」

しかし、1960年代当時のサンタクルスは、首都ラパスから約1,000キロ離れ、交通は所々未舗装な一本の道路で繋がっているだけの田舎の町でした。町は一部にしか電気はなく、灯油ランプで生活し、道路は風が吹くと砂埃で顔が汚れ、雨が降ると川になり、雨あがりには、素敵なお嬢さんたちも靴を脱ぎ、スカートが濡れないように裾をからげて川になった道路を渡っているような町でした。

1960年代当時のサンタクルスの風景

「最後の舞台、ボリビア・サンタクルスについて」

基本情報
 ボリビアの面積:110万平方Km(日本の約3倍)
 サンタクルス県の面積:37万平方Km
 サンタクルス県の人口:約、337万人(2020年)
ゲリラのペレーション・ゾーン
 4万平方Km(国土の約4%)
ゲリラの拠点から国境までの距離
 アルゼンチン (ヤクイバ) 330 km.
 ブラジル (ポルト・スワ―レス) 625 km.
 パラグアイ (イト・ビリャソン) 210 km.
 ペルー (デサグアデーロ) 650 km.
 チリ (チャラニャ) 650 km.


サンタクルスから隣接国国境までの距離

「1967年、エルネスト・チェ・ゲバラの死」

エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。
アルヘンティーノ(アルゼンチン人)、フィデル・カストロと共にキューバ革命を戦い、その後、コンゴ、そしてボリビアで最後を遂げた男。
さて、キューバ革命のことはフィデルに説明を譲って端折ってしまう。カストロも死んだ?それは知ったことではない。コンゴ?アフリカのことはラテンアメリカ協会とまったく関係ないので、それもまた端折ります・・ついでにボリビアも端折ろうかと思いましたが、すると、ここでトークが終わってしまいますので、1967年、ラ・イゲーラで死んだチェ・ゲバラ、いや親しみをこめて、エルネストのことをもう少し語りたい。
この物語を始めるには、皆さんにアンデス山脈を海抜1,500メートル辺りまで降りて頂く必要があります。なぜなら、そこにあるラ・イゲーラという小さな村から物語を始めたいと思うからです。1967年、その年、エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナはその村で射殺され生涯を終えたからです。

「1967年・サンタクルス」

ゲバラがラ・イゲーラで射殺された1967年。つまり56年前、私は14才の少年で、サンタクルスの郊外に家族と暮らしていました。サンタクルスは人口1万人にも満たない小さな町で、バナナやパパイヤなど熱帯果樹が町の至るところに生い茂っているような田舎町でした。ボリビア第8陸軍師団の駐屯地が近くにあり、晴れた日には兵隊たちが砂地の道を踏みしめて行軍していました。行軍といっても先頭で指揮を執っているカピタン(大尉)と行軍の中頃までは軍隊らしく行進していましたが、後方の列は乱れ、最後の兵隊などは道端でもぎったバナナを頬張りながらダラダラと最後尾にくっついて歩いているだけでした。
そして白い砂地の道を通って、農村から市内のシエテ・カーリェ市場やポーソ市場に作物を運ぶのはトラックではなく、牛車の役目でした。この牛車は人の歩く速度とたいして変わらず、ゴムタイヤもベアーリングも付いていない、板の車輪をギィギイと摩擦音を鳴らしながら、早朝4時頃に町の市場に向かい、夕方になるともう一度ギイギイと車輪を鳴らしながら、農村に帰って行くような、のんびりとした町でした。

「1967年・忘れられない出来事(1)」

1967年。その年、忘れられない出来事がふたつ起こりました。ひとつは歴史的なことで、もうひとつは個人的なことでした。
歴史的なことは当然、チェ・ゲバラの死でした。しかし14歳の少年にとって、チェ・ゲバラの死は身近な事件ではなく、彼がどんな理想をもって革命を成そうとしているのか、理解どころか考えたことすらありませんでした。それは私だけではなく、チェ・ゲバラのボリビア革命は、サンタクルスに住む普通の少年たちだけでなく、大人たちにとっても、南米ではよく起こりえる、失敗したクーデターのようなものでした。クーデターも大きな出来事ではないかと思うでしょうが、当時は軍政で、クーデターは社会的な闘争ではなく、軍内部の権力闘争、あるいは内紛で、頻繁に起こっていたからです。


1967年のサンタクルス

「1967年・忘れられない出来事(2)」

ですから、チェ・ゲバラとゲリリェーロ(ゲリラ)たちがサンタクルスで革命を起こそうとしているという風聞を聞いても、それは少年の世界には関わりなく。また、バナナを食いながら行軍しているボリビア兵たちの印象は「役立たず」という表現以外に言葉がなく、米軍払い下げの軍用ジープが砂埃を立てて「ゲリラ討伐」へと遠ざかって行くのを見送りながら「どうせ負けるだろう」としか、少年は思いませんでした。


ゲリラ掃討のボリビア兵たち

「1967年・少年の冒険(1)」

当時のサンタクルスは、社会主義革命のような殺伐とした出来事が起こる町ではなく、南米の田舎にありがちな小さな静かな町で、街並みはプラサ(広場)の正面に古いカテドラルがあり、その脇には県庁舎、向い側には市役所、左脇には当時最大の娯楽であった映画館のシネ・パラセなど、スペイン・コロニアル風の白い建物が立ち並んだ美しい町でした。 
当時の若者の楽しみといえば、週末のパーティで踊ることぐらいで、そのパーティには招かれてない者も紛れ込んで勝手に踊っていました。招かれてない者たちのことをパラカイディスタ、つまり落下傘部隊と呼び、空から降って来た他人が紛れ込んでも気にしないというか、あるいは貧しい者たちの一種の助け合いでしょうか、それを良しとする度量の広さが、古き良き時代のサンタクルスにはありました。

「1967年・少年の冒険(2)」

忘れられない個人的なことは、14才の少年が初めて家出したことでした。

それはエルネストが射殺された年の3月のことでした。家出の原因が何であったか・・よく覚えていません。覚えていないと言うことは、思春期によくありがちな何かを思い詰めて、いたたまれずに家出したという深刻な家出ではなく、その後の少年の行動から判断すると、単にふらっと放浪に出ただけに過ぎないのですが、そのふらっとした放浪は歴史的な出来事と個人的な出来事をクロスさせました。
3月の早朝、サンタクルスは終わったばかりのカーニバルの余熱が残っていました。人々はどことなく浮ついていて仕事に身が入らず、ラマダ市場の道路は普段よりも塵が積もり、歩道だけではなく車道の半ばまで溢れ、人々はその塵を避けながら歩いていました。
少年は荷物を盗られないよう、人ごみに気をつけながら歩き、ラパス行きの一番安いチケットを探していました。ポケットには片道切符がやっと買えるだけの乏しい金しかなく、長距離バス停留所のあったグリゴタ通りを行ったり来たりしながら、やっと出発直前の捨て売りチケットを買いました。今風に言えば直前ディスカウントでしょうか。

「1967年・少年の冒険(3)」

67年当時のラパスへの街道は、ピライー川沿いを上流に向かって西に走らなければなりませんでした。バスは年式の古いフォードで、エンジンの強度を誇示するように、やたら大きなボンネットが前方に突き出て、運転手がアクセルを吹かす度にボンネットはガタガタと震えましたが、エンジンの回転数は逆にしぼむようでした。そして、バスの速度は満員に近い乗客の重量を支えているせいか、それとも疲れ果てた年代物のフォード社のエンジンのせいなのか、道路沿いで草を食む牛馬の数を正確に数えることができるほど、のんびりとした速度でした。それでも出発して数時間走ると、平坦な道の向こうにあった山影が近くなり、だんだんとその高さが高くなり、NHKの朝ドラ風に申しますと、少年はちむ・どんどん(心が躍る)していました。
いままで、遠くから眺めていたアンデス山脈の山影が初めて実像となって目の前に現れたからです。この山脈を海抜四千メートルの高さまでこれから登ると想像しただけで嬉しくなって、ちむ・どんどんしたのです。そして、その山麓にあるアンゴストゥーラ村に着くと、平原を素晴らしいスピードで走り切ったフォード製のエンジンは息切れしたように、停止しました。

「1967年・少年の冒険(4)」

バスは右手にある検問所に誘導されました。これまでも何度か検問がありましたが、アンゴストゥーラの検問所には銃を構えた兵隊が大勢いて、運転手にバスから降りるように身振りで指示しました。運転手がいまいましそうにバスを降りると、兵隊はバスを指差しながら運転手に怒鳴るように話していましたが、数人の武装した兵隊がバスに乗り込んできました。そして、名前と階級を名乗ると、車内を検査するので、荷物を車内に置いてバスから降りるよう命令を下し、軍人特有の乗客の反応など確かめる必要もないという、機械的な動作でバスを降りて行きました。人々は下車すると、不安と不満を口にしました。
「ゲリレェーロのせいだ」
「バルブ―ド(髭面)たちには賞金がかかっているらしい」
「頭目はチェ・ゲバラというガウチョらしい」
少年はそれを聞きながら、また第8陸軍師団の兵隊たちの行軍を思い出していました。

「1967年・少年の冒険(5)」

少年は、ゲバラという男の名を聞いたことはあっても、彼らが成そうとしていることに、まったく関心を持っていませんでした。それは少年だけではなく、大人たちの話題にもゲリリェーロたちことが話されることはあまりなく、まして14歳の少年には別世界で起こっていることで、それが自分に関係してくるなど想像もしませんでした。
だが、現に目の前に銃を構えた兵隊たちが取調べているのです。とても現実とは思えませんでした。しかし、それは現実で、兵隊は少年の身分証明書を鋭い視線で見ましたが、幸い、キューバ革命とは関係のないアジア系の子供であることが幸いしたのか、関心なさそうに身分証明書を返してくれました。

「1967年・少年の冒険(6)」

アンゴストゥーラを過ぎるとバスは息切れしたような速度でアンデス山脈をゆっくり登りはしめました。曲がりくねった山道が続き、海抜1,500ⅿ辺りまで登ると、そこはバリェと呼ばれ、峠を越すと道はなだらかになり、熱帯のサンタクルスとは異なり涼し風が吹いていました。しかし、バスは村がある度に停車を命じられ、その度に証明書を提示し、荷物を調べられました。とくにマタラル村の三叉路には大勢の兵隊を乗せた軍用車両が数台停まっていました。後で知ったのですが、その三叉路を左に曲がると、バリェ・グランデ村やラ・イゲーラ村があり、そこがゲリラの拠点になっていたのです。
マタラル村を過ぎると緊張は解け、乗客は何事もなかったかのように日常会話に戻り、コチャバンバに着く頃には、そういう出来事があったことさえ忘れたかのようにゲリラやゲバラの話をする者はいませんでした。

マタマル村の三斜路

「1967年・少年の冒険(最終)」

コチャバンバは快晴でした。それを良く覚えているのは、その晴れた空が、あの軍隊のものものしい緊張感とあまりにもかけ離れた明るい風景だったからです。
がっかりなさるかもしれませんが、私の個人的な少年の頃の体験はたったこれだけです。その後に訪問したラパス、そしてサンタクルスに戻っても、町の雰囲気はまったく変わっていませんでした。あの山道での出来事が夢であったかのように、ゲバラやゲリラの革命闘争は人々の大きな関心事ではなく、人々は日常の生活を続け、革命を起こそうとしているゲリリェーロたちに賛同するでもなく、反対するでもなく、ゲリラ達にとっては一番辛い反応である、まったくの無関心でした。半年後、ゲバラが捕らえられ銃撃戦で死んだというニュースがラジオから流れてきました。
そしてその後、半眼に目を開き、上半身裸の写真が世界中の新聞に掲載されたました。

ゲバラの死

「2006年、チェを訪ねて」

「2006年・バジェ・グランデ(1)」

それから随分と歳月が過ぎました。物語を2006年に進めます。

2006年、私はある先輩に同行し、ゲバラを訪ねる旅に出かけました。車はホンダのパイロットで、3.5Lエンジン搭載の4WD車でした。パイロットは当時の古いフォード製のバスとは比較にならない快適な走りで、1時間ほどでアンゴストゥーラ村に着きました。昔と変わらないのは、この村には相変わらず検問所があり、車を降りて、検問所に行きドライバー・ライセンスを提示する必要があることです。そして、面倒を避けたいなら、多少の小銭を協力金として置くことがコツです。するとムスッとしていた警官が相好を崩して「ブエン・ビアヘ(良い旅を)」と言ってくれます。
アンゴストゥーラを過ぎると、山間部の曲がりくねった渓谷が続きます。そして、ベルメーホの赤い山を左手に見て通り過ぎ、更に1時間も走ればバリェに到達しますが、そこから眺める峰々のパノラマは絶景です。そして、サパイパータ村で休息をかねて昼食し、旅を続けるのことをお勧めしたい。サパイパータの気温は一年を通して涼しく、気持ち良い風が吹き、サンタクルスの裕福層や年金受給者が別荘で暮らしています。

「2006年・バジェ・グランデ(2)」

しかし、まだ先は長いので我々は早々に食事を済ませました。36年の技術の進歩は素晴らしく、その後もホンダ・パイロットは快調に走り、昔、軍用車が停車していたマタラルの三叉路を左に曲がり、午後2時過ぎにはバリェ・グランデに到着しました。荷物を民宿に放り出し、我々は村役場に隣接したチェ・ゲバラ資料館を訪ねました。資料館と言っても12畳間程の部屋にゲバラやゲリラ達の写真が壁に飾られ、その遺品が雑然と展示されているだけに過ぎませんでしたが、先輩は熱心でした。
私は手持無沙汰で写真を眺めていましたが、ある写真に関心を引かれましたそれは、ゲバラたちが殺された67年から数えて30年後の1997年、当時のバンセル大統領が陸軍情報を基に長く不明だったゲリラ達の埋葬場所をアルゼンチンやキューバ人類学者の協力で埋葬場所を探し出し、発掘した時の写真の一枚でした。 

「2006年・バジェ・グランデ(3)」

発掘作業の写真は、ゲリラ達の遺骨が横たわっている写真が多かった。遺骨が男性なのか女性かの判別できませんでしたが、その写真の遺骨はすぐに女性だと分かりました。遺骨の胸はボロボロに千切れた古いブラジャーらしき布で覆われていたからです。それは彼女が女性だったことを生々しく伝えていました。写真に近づいて説明文を読むと「タニア・グティエレス(ハイデ・タマラ・ブンケ、東ドイツ系アルヘンティーナ)」という、名前と出身地と生前の美しい女性の写真が添えられていた。
「よし、ここはもう良い。次はチェ・ゲバラの死体が公開された場所に行こう」先輩は張り切って次の目的地を告げました。その場所、セニョール・デ・マルタ病院は町の南外れにありました。意外だったのはその病院が現在も病院として普通に診療しており、診察を待つ患者たちが廊下に並んでいたことでした。


ゲバラの死体が公開された病院の洗濯所

「2006年・バジェ・グランデ(4)」

その中で幾分か元気そうな患者に「チェ・ゲバラの死体が公開された場所を知りませんか?」と訊くと「この廊下を左に曲がって、病院の裏手に洗濯干し場があるから、そこを抜けたところだよ」と教えてくれました。その通りに行くと、大きなシーツが何枚も干されていて、その先は腰丈ほどの雑草が生い茂っている空き地でした。
「本当にここだろうか・・」と、迷っていると、草むらの中に小さな建物が埋もれていました。
「すごいな」先輩の第一声はそれでした。もともと病院の洗濯場だった小屋は、三方が壁で、正面は壁もドアも無く、その真ん中にセメントの洗濯台がまるで教会の司教座のように鎮座していました。しかし、先輩の感嘆は壁の内側に書かれていた無数の文字に向けられていました。「ビーバ、チェ!Viva Che, 」「祖国か死か!Patria o Muerte」
ゲバラを称え、革命を賛美する叫びが聞こえてくるような、大小の落書きで壁や天井、床に至るまで、ぎっしりと言葉で埋め尽くされていました。
1967年10月10日。射殺された翌日、ゲバラの遺体はここに横たえられ、写真を撮られ、全世界に公開されたのです。それから39年、落書きとセメントの洗濯台以外、何もない空間はまるで時計が止まったように、そのまま残されていました。


完成したゲバラ博物館

「2006年・バジェ・グランデ(5)」

「なあ、島ちゃん。ここまで来たんだ。どうせならチェ・ゲバラが殺されたイゲーラ村まで行こうか」先輩はマルタ病院を出ると、すかさず次の要望を出して来ました。「これからですと夜になりますから、今日はバリェ・グランデに泊まって明日行きましょう」と返答すると「やっぱり島ちゃんも、ゲバラに興味があったんだな」先輩は嬉しそうに頷きましたが、それに反論せず、その日はゲリラ達が密葬され、そして発掘された町はずれの発掘現場に行くことにしました。そこは飛行場と呼ばれていましたが、草っぱらの中に赤土の轍があるだけの空き地でしかなく、発掘現場には建物が建設中で、作業員たちが働いていました。
その作業員に「何を建てているの?」と訊くと「ゲバラ没後40周年までに、この遺体発見現場にゲバラ博物館を建てるんだ。これから観光客が増えるぞ」と作業員は汗を拭いながら返答した。
私は言葉に詰まった。社会主義革命に殉じたゲバラという男。村人は革命の対極にある金銭に変えようとしている思ったからです。人々の逞しさに驚嘆するとともに、その欲望に辟易したことを記憶しています・・・余談ですが、1968年、ゲバラのポスターをデザインしたアイルランド人アーティストのジム・フィッツパトリック氏が、Tシャツやタバコなどに、彼のデザインが使用されていることに「私はこの種の商業利用が大嫌いだ」と、述べた感情にそれは似ていました。  (続く)