連載エッセイ182:島袋正克「エルネスト・チェ・ゲバラの最後の日々」その2 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ182:島袋正克「エルネスト・チェ・ゲバラの最後の日々」その2


連載エッセイ 179

エルネスト・チェ・ゲバラの最後の日々 その2

執筆者:島袋正克 ㈱伊島代表取締役

「2006年・ラ・イゲーラへ(1)」

翌日も早朝出発しました。バリェ・グランデから先の道路は未舗装で、パイロットは後方に砂埃を巻き上げながら懸命に走ったのですが、悪路で、到着は思ったより遅れました。急いだ理由は今日中にサンタクルスに戻ろうと予定していたからです。
イゲーラに到着すると、先輩はすぐにゲバラが殺された小学校跡に突撃しました。そこは学校の教室というより廃屋でした。ふた部屋の床は土間で、イスが一脚だけ置かれてました。
「そのイスにゲバラが座っていたの」いつの間にか背の低い老女が戸口に立っていました。
「私ね、彼に食事を運んだの。お話し聞きたい?」私は断ろうと思いましたが、その女性カルメンは私を無視して、獲物を見つけたように先輩に説明を始めていました。

イゲーラの小学校

「2006年・ラ・イゲーラへ(2)」

「いやー、良い話を聞いたよ」 しばらくすると先輩が教室から出てきて嬉しそうに笑っていました。そして、何か言いたげで目が落ち着いていないのです。
「どんな話を聞いたのですか?」
「いやね、カルメンの夫がガイドで、チェが捕まった場所まで案内してくれるそうだ」
「私も行くんですか?」
「勿論だよ!」
私はまちがいなくため息をついたに違いありません。
「いや、無理なら良いんだが、こんなところで一人で待つより一緒に行った方が楽しいだろう・・はははは」と、先輩は豪快に笑いました。


イゲラのチェのモニュメント
「そして最終の地、エル・チューロへ」

「2006年・エル・チューロへ(1)」

結局、車を村に置き、フリオ爺さんというガイドを雇って我々はQuebrada del Churo(注、ボリビアで使われている発音を使用)という沢を目指して降りて行きました。道はなく、斜面に植えられたトウモロコシ畑の中を歩き、雑木と雑草の中の細いけもの道を下り、川を渡りました。案内人が先頭で、次が先輩、私は最後尾。先頭のフリオ爺さんは大声で先輩に説明していたが、私は「なんでこんな処で、ゲバラは・・」という疑問を感じながら足を引きずっていました。

2時間半はたっぷり歩かされましたが、澄んだ水の流れるエル・チューロを渡る時には、ゲバラもこの水を飲んだだろうかと想像しました。そして、少し開けた空き地に出ると、もう歩きたくなかった私は「ここだ、ここだ」というフリオ爺さんの声を聞いてほっと安心しました。

「2006年・エル・チューロへ(2)」

そこには大人の背丈ほどの岩があり「HASTA SIEMPRE COMANDANTE CHE」と白いペンキで書かれていました。また、裏には「革命家チェ・ゲバラ降伏の地、1967年10月8日」とありました。「ゲバラはここで、ガーリー・プラド大佐に捕まったんだ」ガイドだというフリオ爺さんは得意そうに説明しました。
人里からも、道路からも離れたエル・チューロは不思議なほど静謐でした。そこは盆地で、その周りを囲むように稜線が見下ろしていました。
「ここでは隠れることも不可能だ・・エルネストはここで捕まったんだ・・」そう思うと、チェ・ゲバラは何故ここを革命の地に選んだのだろう・・と、大きな疑問が湧きました。


「祖国か死か」と書かれた石の前で

「2006年・エル・チューロへ(3)」

チェ・ゲバラが革命の地に選んだこの地方には、当時も今もわずかな住民しか住んでいません。彼が革命の狼煙を上げても、その煙を見る者も存在しない過疎地です。
「どうしてここで、彼はこの地で政府と対抗できるゲリラ隊員を、あるいは賛同者を得ることができると信じたのだろうか。今も昔もボリビアで革命を起こすには労働者を、特に鉱山労働者を味方につけるしかない。彼は、シエラ・マエストロの勝利をラ・イゲーラに想い重ねたのだろうか」という疑問が膨れました
「いや、そうではあるまい」
そのときノルテ(北)の風が吹き過ぎました。私は風が向かった南の方向を振り返りました。そこを塞いでいる稜線を見上げていると、あることが思い浮かびました。それはチェ・ゲバラという革命のヒーローが、エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナという一人のアルヘンティーノに戻った瞬間でした。

「2006年・エル・チューロへ(4)」

私の結論は突飛かもしれない。しかし、南の稜線とその次の尾根を越えた先に広がるパンパを想像すると、思いつきは確信に変わっていきました。彼が、エルネスト・ゲバラがこの地、ラ・イゲーラを選択した理由はEstrategia(戦略)ではなくNostalgia(郷愁)に違いないと・・だから作戦は失敗に終わったのだと・・。
南の稜線を超え、もうひとつ尾根を越えれば真っすぐで平たんな道が彼の故郷、アルゼンチンへと続いている。キューバで戦い、コンゴで失意し、そして、キューバに帰れなくなった男。ボリビアで戦い疲れたエルネストは故郷に帰る夢を見ていたのではないだろうか。
「だからこそアルゼンチン国境に近いこの地を選んだのではないか」・・と。

これらの峰々の向こうは祖国アルゼンチン

「2006年・エル・チューロへ(5)」

当時のボリビアは貧しく、南米で最貧国だと言われていました。アンデス山脈の荒涼とした作物の育たない土地では、貧困とは食物が無いことでした。しかし、亜熱帯のボリビア東部には果樹や芋、そして穀物もあり、現金が無いことを貧しいというのであれば、確かにサンタクルスも貧しかったでしょう。しかし、少なくとも食は足りていた。そのような地で、己の生命を賭けて革命に参加するだろうか・・。そして革命を起こすのはイデオロギー、思想のつまった頭ではなく、空腹な腹だと思ったのです。1967年にボリビアで起こったことは、それが正鵠を射ているような気がしました。

当時14才だった少年は50才になっていました。そして、遥か南のエルネストが生まれたアルゼンチンの方角を眺めながら、彼の革命と夢、そしてその死に想いを馳せていました。


1960年代のボリビア

「2017年、再びバジェ・グランデへ」

「2017年・チェ。ゲバラ没50周年(1)」

ゲバラが処刑されて50年が過ぎ、ボリビアは左派政権の時代に変わり、ゲバラは反帝国主義のシンボルになっていました。そして、ゲバラ没50周年の記念祭がモラレス大統領臨席のもとに執り行われることになり、バリェ・グランデに行こうと思いました。
あれから50年、14歳の家出少年は64歳になり、同じ道をマツダのCX-9を運転して走っていました。マタラル村の三叉路を左に折れ、ゲバラの描かれた大きな看板の前で停車した。「ボリビアでのチェの50周年世界会議」期日は10月5日から9日までの三日間・・・反帝国主義との戦い。勝利の日まで。看板には勇ましいスローガンが書かれていた。
バリェ・グランデに着くと、すでに大勢の人々が集まっていた。会場にはボリビア国旗だけではなく、ウィパーラと呼ばれる新しい国旗もなびいていた。そういえばボリビアの国名はボリビア共和国からボリビア多民族国家に変わったのだ。会場にはゲバラを讃えるアスタ・シエンプレ・コマンダンテの曲が流れていました。


チェ・ゲバラ没後50周年の看板

「2017年・チェ。ゲバラ没50周年(2)」

会場の飛行場後に着くと。大きな歓声が沸き上がった。エボ・モラレス大統領が到着し、壇上で左手の拳をあげ、右手の掌を左胸(心臓)に当てるMAS党独特のポーズを取っていました。それからマイクを握り大統領は演説を始めました。

モラレス大統領はゲバラの社会主義革命を讃える演説と、彼の4選を正当化する内容の演説を続けていましたが、私は集まった民衆の方に関心を寄せていました。
 会場に集まった民衆の多くは大型バスで乗り付けたアルティプラノに住む先住民で、地元住民が不在だったからです。それは民族衣装やスペイン語の発音ですぐに判別できたので、大多数は政治的な動員だと思いました。

サンタクルスのカンバと呼ばれる住民は白人系で、スペイン語の語尾のSの子音を発音しないなど、言葉の違いはすぐに分かります。彼らはそこに参加していませんでした。

 バリェ・グランデの住民はアラブ系が多いと言われていますが、サンタクルスとコチャバンバの県境に近いせいか発音は中間なので、どの程度の人数が参加しているのか判断できませんでした。

「2017年・チェ。ゲバラ没50周年(3)」

私はこの50周年への同行者をフェイスブックで募りました。車は8人乗りでしたが荷物もありましたので、4人募集し、すぐに参加者は決まりました。全員日本人で、私を含む3名は在ボリビア、後の2人はサンパウロからの参加でした。

私以外は初のバリェ・グランデ訪問で、珍しそうに集会を眺めていましたが「日本人がいるよ」と言って舞台の近くで写真を撮っている男性を指差した。

彼も我々に気づいたようで「朝日新聞の××です」と挨拶してくれましたが、壇上のモラレス大統領の演説が終わって拍手が起こり、御名前は聞こえませんでした。その後、10月17日の朝日新聞にゲバラ没50周年の記事が掲載され、あの時の記者が書いたのだろうと思いながら興味深く読みました。ゲリラ側だけでなく、ゲバラを逮捕したプラド元将軍のコメントもあり、私はその将軍に会いに行こうと思いました。


チェ・ゲバラ没後50周年を祝う聴衆

「2022年、ガーリ―・プラド将軍を訪ねて(1)」

ゲバラ没50周年から5年が過ぎ、14歳の少年は69歳になっていました。いつか将軍に会いに行こうと思いながらも、同じ町に住んでいながらも、その機会はありませんでした。いや、毎年サンタクルスで催される「ブック・フェティバル」で、将軍の本を購入し、立ち話をしたことがありました。また、ボリビア人の友人に「紹介できるよ」と、会うことを勧められましたが、なんとなく日々は過ぎてしまいました。 

今回、ラテンアメリカ協会から「なるほどトーク」の講師を依頼され、すぐに脳裏に浮かんだのは「ガーリー・プラド元将軍に会いに行こう」でした。プラド元将軍に電話を入れると「自宅で待っているよ」と、快く受けて下さいました。

当日、様々な質問を思い浮かべながら、街の西区に住む将軍の自宅を訪ねました。迎えてくれた奥さんのネーグラ(愛称)さんは「待ちかねていますよ」と言って、書斎に案内してくれました。プラド将軍は車椅子に座ったまま、大きな手を差し出し握手を求め「この家ではマスクは外しても構わんよ」と言って椅子を勧めてくれました。

「2022年、ガーリ―・プラド将軍を訪ねて(2)」

1967年にゲバラを逮捕したガーリー・プラド将軍は、当時29才で、階級は大尉だった。彼はその後将軍に昇進し、ダビッ・パディリャ政権では大臣を務め、イギリスやアメリカ、メキシコなどのボリビア大使を歴任して引退した。

83才になった彼は、今年5冊目のゲバラに関する本を出版した。軍人にありがちな威圧的な印象はなく、彼は物静かな老人であったが、言葉は明瞭で、私が持参した質問状はチラっと見ただけで傍らに置き、自書を片手にゆっくりと語り出した。

「私がゲリラ捜索の命令を受けた時、ボリビア兵は訓練不足だった。大体、ボリビアとアメリカでは訓練に使える弾の数が違う、一日の訓練で米軍が100発撃てば、ボリビアは10発しか使えなかった。また、高地出身の兵隊が多かった。彼らは木が2本以上生えている場所を見たこともない連中だ。彼らを見渡す限り緑に覆われたイゲーラに連れて行ってみろ。使える訳がない」

私は将軍の「木2本以上・・」という言い回しで笑ったが、彼もその言い回しが気に入ったようで、「2本以上だ・・」と、繰り返した。

カーリ・プラド将軍近影

「2022年、ガーリ―・プラド将軍を訪ねて(3)」

将軍は続けた「私のチームは120人ほどだったが、捜索範囲が4万平方kmだぞ。国土の4%に相応する広さの中に隠れているゲリラをたった120人で探せるはずがないと思った。しかし、ゲバラはヘマをやった。ひとつは拠点のカンパメントの場所を知られてしまい、不用心にも留守中に我々にそこを抑えられ、戻れなくなった」
「また、少ない人数を二つに分けてホアキン隊と連絡が取れなくなった。彼らがすでに全滅したことも分からなかったほどだ。それから十分なバックアップもなかった、兵站も確立してはいなかった。食糧や武器の不足、そして喘息持ちのゲバラは薬が切れて、その薬を求めてゲリラが何度か集落に現れた」
「全てに置いて不十分のまま彼はボリビアに来てしまった」
「彼はアルヘンティーノで、外国人だ。ボリビア共産党のマリオ・モンへも言ったが、外国人がトップでは誰もついて来ない。キューバだってトップはフィデルだったから成功したんだ」

「2022年、ガーリ―・プラド将軍を訪ねて(4)」

「我々も十分な食料がなかった。私はバリェ・グランデ出身で、それで選ばれたのだろう。オペラシオンの最中に小学校の同級生に会ったので、豚6頭を譲ってもらい、それを皆で食べた。またある時は川が増水していると言うので、行ってみると川は魚で溢れていて、それを取って腹いっぱい食べたこともある」
私は催促することなく、彼の言葉を聞いているだけだったが、彼は時計を見て「随分話したな。そろそろゲバラを逮捕したときのことを聞きたいだろう」と言った。
「18人ほどのゲリリェーロがエル・チューロ付近にいるという情報があったのは10月8日だった。我々はすぐにアクションを起こし、エル・チューロでゲバラを待ち伏せて逮捕した。ゲバラは両手を挙げてこう言ったんだ」
「Yo soy Guevara, más vale vivo que muerto」
「イゲーラまで連行する途中、彼は煙草をねだった。私の煙草を咥えさせると「弱い煙草だ」と言うので、兵隊が持っていたアストゥリアの煙草を一本やったらうまそうに吸っていた」
「イゲーラに連行後、彼らの時計を勝手に接収した奴がいたので、取り返すと『預かってくれ、これが俺の時計だ』と言ったので、ゲバラの時計の裏蓋にはナイフで傷をつけた」

「2022年、ガーリ―・プラド将軍を訪ねて(5)」

「それから後のことは私が語る必要はあるまい。多くの本が出版されている。ほら、私も5冊書いた」そう言って将軍は笑った。
そして「Él no tenía dónde ir (彼は行くところがなかったのさ)」と付け加えた。
私は将軍の書いた最新版を4冊買った。一冊には私に贈る言葉が書き添えられていた、一冊は媚を売るようだが、この機会を与えてくれたラテンアメリカ協会に進呈しよう。もう一冊は・・昔、ゲバラの旅にご一緒した、懐かしい先輩に贈ろう・・今日もこの「なるほどトーク」を聞いて腹を立てているかもしれない・・勝手に登場させたお詫びになるだろう。
私はゲバラを脇役にして「樹影の下で」という小説を執筆している。1ページは67年のゲバラの死、そして73年のペロンの帰国、同年のチリで起こったクーデター、最後のページは1982年のフォークランド紛争。30年近い南米の歴史を描いた長編小説です。最終章を除けば執筆は終わっている。奇しくも今年はビーナスから40周年。まだ行ったことのないマルビーナスを訪問する良い機会でしたが、行けませんでした・・本題から逸れてしまいました。しかし、今日の物語はもう終了しています。
皆様、ご清聴ありがとうございました。(終わり)


ガーリ―・プラド将軍の近著「犠牲になったゲリラ ある主人公の証言と分析」