連載エッセイ189:田所清克「ブラジル雑感」その15 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ189:田所清克「ブラジル雑感」その15


連載エッセイ 186

ブラジル雑感 その15

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

この号では、「ブラジルの食文化再考について」のその7を紹介する。ブラジル南部の料理をとりあげる。

「ブラジル南部地域(その23)」

他の地域に較べれば南部には数回しか訪ねていない私。従って、地域事情にあまり明るくない。なので、必然的に文献に多くを依拠するかたちで、そこから得た知見を紹介することになる。私が多くの自著の中で引用している、ブラジルの著名な弁護士、ジャーナリスト、小説家、そしてエッセイストであるヴィアーナ・モオグ (Vianna Moog) は、南部の文芸および精神風土に言及している。

 彼曰く、南部、殊にリオ・グランデ・ド・スール州は『ユリシーズ』(“Ulysses”) が描く牧歌的な世界で、そこに住む人間は個人的でナルシストであるらしい。それゆえ、自分たち以外はグリンゴ (gringo:外国人) である他の地域の人に対して、時に優越感を覚え、カウジリズム (caudilhismo:ボス的支配) 的言動もみられるようだ。事実、南部の文学作品を読むにつけそうした感想を抱くのは、私だけであろうか。

 当のヴィアーナ・モオグ自身が南部の出身であるので、著作に吐露された南部に関する言説はきっとそうだろう。次回はまず、南部について地理的、文化的に概観する。その後で、この地の特有の料理を紹介したいと思う。


(webより転載)

「南部の地理的外観(その24)」

 南部はブラジルの5つの地域の中ではもっとも小さく (国土の約6,7%)、およそ2,400万人が住む空間である。3つの州、すなわちパラナー州、サンタ・カタリーナ州およびリオ・グランデ・ド・スール州から構成されている。3つの州とも東部は大西洋に接している。スペイン人が植民地化した近隣のアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイとも国境を接していることもあり、そうした国々の影響も少なくない。

 南部の農牧業、工業、観光面での躍進は目覚ましく、南東部に次いでブラジルでは二番目に重要な経済地域である。ちなみに、この南部の観光業は1970年代以来、躍進し脚光を浴びている。クリチバとポルトアレグレは地域のメトロポリス (metrópoles regionais) 的な存在で、その国に及ぼす経済的影響は少なくない。例えば、ポルト・ドス・カザイス (Porto dos Casais) の名から生まれたポルトアレグレ (Porto Alegre) は、ブラジルの南部の政治・産業・文化の一大中心地となっている。

 他方、パラナー州の州都クリチバは、よく組織化された都市で、世界でも冠たる環境都市として知れわたっている。次回は南部の自然風土について記述したい。


(webより転載)

「南部の自然風土とその景観(その25)」

南部を機上から眺めると、場所によって異なる景観を呈しながらも、概して山地と高原からなっていることが理解できる。
 大西洋林 (Mata Atrântica) が海岸山脈とパラナー州西部地域を覆っている。パラナー松 (pinheiros do Paraná) とも称されるアラウカーリア林 (matas de araucária) が点在するが、もともと植生していたその大半はすでに消滅している。この木材の高い商業的価値から、今では1%ほどしか残存していないそうだ。群生するアラウカーリアを見たければ、サン・ジョアキン国立公園 (Parque Nacional de São Joaquim) やアパラードス・ダ・セーラ国立公園 (Parque Nacional dos Aparados da Serra) に出向くのがよいだろう。

 リオ・グランデ・ド・スールでもアラウカーリアは見かけるが、加速度的に消滅の一途にある。アラウカーリアに代わって最南部のこの地、とりわけ南域の自然景観を際立たせるものは、コシーリャス (coxilhas) と言われる波状の起伏に拡がる草原であろう。通常、パンパスと呼ばれる、匍匐(ほふく)性の植物からなる平原は地平線のはるか彼方まで支配していて、圧巻そのものである。


眼下に拡がるアラウカーリア [Jô Marcondes氏提供]


パラナー松 [Jô Marcondes氏提供]

「南部の地理的景観:気候と自然についての素描(その26)」

前回、アラウカーリアを中心に述べた。パラナー松とも称されるそのアラウカーリアは、以前には多く植生していたが、むやみやたらな開発によって今では数少ない存在になっている。しかしながら、まだパラナー州およびサンタ・カタリーナ州の高地では散見されうる。

 ところで、亜熱帯にもかかわらず、その地理的位置からして平均気温はブラジルではもっとも低く、寒い。摂氏17度以下になることも少なくない。そのためにサンタ・カタリーナ州およびリオ・グランデ・ド・スール州の高地は冬ともなれば霜が降り、雪が散らつくことさえある。霜害でコーヒーが枯れることもままあるので、コーヒー栽培はミナス・ジェライス州やエスピーリト・サント州方面に移行する傾向にある。しかし、パラナー州北部は、南東部と同じくより暑い。気候風土も同じ地域でありながら異なり、ブラジルという国の自然の多様性を痛感させられる。


留学時にパラナー州の、とあるコーヒー園で撮ったもの [筆者撮影]

「南部の地理的景観:気候と自然についての素描 [補記](その27)」

前回、南部の気候について略述したが、言及すべき点を失念したので補記する。

 パラナー州北部には南回帰線 (Trópico de Capricórnio) が横断しているので、南部の大半の地域は熱帯の域外である。夏は暑熱で湿潤の南東貿易風の影響を受けて、高温になりしばしば雨をもたらす。対して冬は、南からの極風が吹き、南部高原 (Planalto Meridional) では雪も降る。年平均気温は、南の方向に緯度が高まるにしたがって下がっていく。

 南部のもっとも特徴的な植生は、過去2回にわたって言及したアラウカーリアである。学名は‘Araucaria angustifolia’で、パラナー松ともブラジル松 (pinheiro-brasileiro) とも呼ばれる。セルロースの原料、建築資材、ボール紙などその有用性は高く、伐採・消失の要因となっている。アラウカーリアとともに南部の自然景観を特色づけるのは、マテ茶 (chá mate) だろう。南部の住民、とりわけガウーショ (Gaúcho) にとっては日常の飲み物であるシマラン (chimarrão) となる。私も幾度も瓢箪状のものに入ったこのマテ茶を飲んだことがある。マテ茶と言えば、南部の牧童たちがシマランを回し飲みしている光景が目に浮かぶ。

 南部の植生を語る上では、カンポス (Campos) を無視することはできない。実はカンポスには二つのタイプ、すなわちカンパーニャ・ガウーシャ (Campanha Gaúcha) とカンポス・ド・プラナルト (Campos do Planalto) がある。

 前者はリオ・グランデ・ド・スール州の南部および西部に見られる。カンピーナスと呼ばれるそれは、自然景観の主たる要素であり、最良の天然牧場となっている。波状の丘陵を覆う草原の絨毯の拡がりはまさにパンパスであり、この地域が牧畜の中心地であることを思い知らされる。他方、カンポス・ド・プラナルトは概して砂質状で土地が痩せている。前者には質の面で劣るが、牧畜には良好だそうだ。


シマハンでマテ茶を飲む男たち (webより転載)

「ヨーロッパ的な文化景観を呈するヨーロッパからの移民が集住する南部(その28)」

ブラジルの南部3州は他の地域と照らしても気候のみならず、住民も様相を異にしている。それは次の点に起因しているからであろう。

・そこに住む住民の多くがヨーロッパの出自であること。それが顕著なのはリオ・グランデ・ド・スール州かもしれない。そこで営まれる農業はヨーロッパで実践されているものに近いからだ。

・概して、南部地域の文化がヨーロッパ移民の習慣や慣習の影響を強く受けていること。その好例は、話し方や食文化であろう。特定の地域では、とくに高齢の農民は未だに母国語を話す。例えば、カシアス・ド・スール (Caxias do Sul) の農村地帯ではイタリア語が、またイタジャイー (Itajaí) 川渓谷沿いではドイツ語が話されているのである。

・住民の多くは小中都市に住んでいること。
南部の土地の占有は実質的に、この国が政治的に独立した1822年以後に始まったと言ってよい。ブラジル政府の奨励で、ドイツ、イタリアおよびスラブ諸国から移民が到来することになる。南部地域がヨーロッパ的な文化景観を呈するのも当然といえば当然なのである。


(webより転載)

「ブラジル南部の概略史(その29)」

展開する順序が前後したが、このブラジル南部の歴史を簡単に押さえておきたい。
 最初のイエズス会神父たちが布教目的のために到来する1619年以前の南部は、先住民のインディオのみが居住していた。彼らはその先住民グアラニー族 (guaranis) をキリスト教に改宗させるべく、布教村 (missões) を建設したりその教理の布教活動の拠点となる場所を設けたりした。もっとも知られた布教の中心地は、‘Sete Povos das Missões’と呼ばれた布教村である。そこで神父と先住民たちは、生活のために家畜を飼い小麦を栽培していたそう。

 ブラジルの植民地化の過程で、都市は北東部ペルナンブーコや南東部サン・ヴィセンテのカピタニアのように、沿岸部に近いところで発達した。その点南部は、長いあいだ忘れ去られた存在であり続けた。かろうじて沿岸部のデステーロ (Desterro:現在のフロリアノーポリス) やポルト・ドス・カザイス (Porto dos Casais:現在のポルトアレグレ) の集落や、内陸部のイエズス会の神父たちの布教村、それから畜産農園などがあったに過ぎなかった。1824年を起点とするヨーロッパ移民の到来によってはじめて、南部は今日の経済的・文化的様相を帯びるのである。


筆者撮影