連載エッセイ191:深沢正雪「身近に起きたアパレシーダの奇跡」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ191:深沢正雪「身近に起きたアパレシーダの奇跡」


連載エッセイ 188

「身近に起きたアパレシーダの奇跡」
=黒いマリア像が守護聖人になるまで

執筆者:深沢正雪(ブラジル日報編集長)

この原稿は、10月18日付けのブラジル日報のWEB版記者コラムに掲載されたものを、同紙の許可を得て転載させていただいたものです。

「両親を連れて聖母大聖堂の観光に」


聖母アパレシーダのイメージ画(reprodução, via Wikimedia Commons)

 先週12日は、ブラジルの守護聖人ノッサ・セニョーラ・アパレシーダの祭日だった。サンパウロ市から東に173キロ、リオ州境にほど近いアパレシーダ・ド・ノルテ市には、聖母マリアを祭ったものとしては世界最大規模と言われるアパレシーダ聖母大聖堂がある。20年ほど前、そこでコラム子に〝奇跡〟が起きた。
 2005年9月、当時まだ70代前半で元気だった静岡の両親が2週間ほど、コラム子の姿を見にブラジルまでやってきてくれた。費用は兄2人が負担してくれ、アマゾン河やイグアスの滝などを観光した。
 その際、「ブラジル最大の教会建築」に興味があるかと思って、同大聖堂にも連れて行った。妻はたまたまその日は体調が悪く、参加しなかった。実際に大聖堂を見た父の感想は「確かにデカイが、レンガむき出しの作りかけみたいな建物で、あんまり有り難みはないな」と率直に言われた。日本の大寺院は500年、1千年の時を経た風格があり、それに比べれば「建てたばっかり」だ。
 食の広場で昼食を食べた際は両親が支払った。さてお土産でも買おうかと物色し始め、自分の財布を取りだそうして真っ青になった。いくらポケットやカバンを探しても財布がないのだ。その中には、旅行費用として大目の現金と、身分証明書、帰りのバスチケットなどが入っていた。
 もしも見つからなければ、わざわざ日本から来てくれた年老いた両親と共に、誰も知り合いがいないブラジルの田舎町で路頭に迷う所だった。まさか、こんな醜態を晒すことになるとはゆめゆめ思っていなかった。
 その時は、両親には恥ずかしくて説明ができず、ただ「ちょっと捜し物があるから、ここで少し待っててね。1時間以内に戻るから」とだけ説明して、食の広場のベンチで待っていてもらった。

「あれ、財布がない…」


アパレシーダ聖母大聖堂(Valter Campanato/ABr, via Wikimedia Commons)

 コラム子は、目を皿のように見開いて今まで通ったコースを全て逆戻りに歩きながら、方々で係員のブラジル人に「財布を見なかったか」と尋ねた。だが「えっ、落としたの。落とした財布は絶対に見つからないよ」と何人にも言われ、「このまま見つからなかったら、どうやって今晩過ごそうか」と、どんどん暗い気持ちになっていった。
 きっと、親を連れて旅行に出て財布をなくすなんて、なんてだらしない息子なんだと、両親も兄二人も呆れるだろう。妻に電話して、体調の悪いのをムリして、サンパウロ市からすぐにお金を持ってきてもらうしかないだろうと暗い気持ちになった。
 1時間以上も歩き回って、最後に今朝到着したバスターミナルまで戻った。財布の中のチケットを見て、もしかしてバス会社の窓口まで届けてくれる良心的な人がいないだろうかと、最後の望みにかけた。
 バス会社の窓口の中年男性職員に事情を話すと、「財布の中に入っているチケットは何時で、何枚だ?」と聞き返してきた。なんでかと思いつつも「午後4時発で3枚だ」と答えた。すると、「お前の財布はさっきここに届けられたばかりだ」と、引き出しの中から目の前に出してくれた。
「えっ、本当か!」
「ああ、貧乏だが真面目そうな奴が持ってきた。良い人に拾われたな」
 その瞬間、天を仰いで「こりゃ、奇跡だ」と思わず口走り、アパレシーダに感謝した。このブラジルで落とした財布が、たまたま良心的な人に拾われる確率は天文学的に小さい。その職員から「財布の現金の10%ぐらいを、拾ったヤツに謝礼として置いていったら。オレが渡しといてやるよ」と言われたので、感謝を込めて大目に置いた。
 たまたま信心深い地元住民に拾われ、財布の中にあるチケットを見て、家族で大聖堂に巡礼にきた信者が落としたと同情してくれ、わざわざバス会社まで届けてくれたのかもしれない。
 急いで両親の元に戻ると、すっかり暇をもてあましていた。事情を説明すると、「急に青い顔して、『ここで待っててくれ』とか言うから心配してたよ。やっぱりそんなことか」と呆れられた。
 だが、父からは「今どき日本でも財布落としたら出てこないよ」と逆に感心された。何とか、帰りのバスの時間にも間に合い、ギリギリ面目は保てた。
 「大事にポケットに入れて置いても、強盗に取られたり、すられたりするご時世なのに、財布を落として戻ってくる」というのは、このブラジルにおいて奇跡といって過言ではない。ふだんは信仰心のカケラもないコラム子だが、その日ばかりは遠ざかるバスの車窓から聖母大聖堂に手を合わせた。

「ブラジルの守護聖人になるまで」


聖母像(© José Luiz Bernardes Ribeiro)

 植民地時代の1717年、3人の漁師がパライバ川で漁をしていたが不漁だった。投げ入れた網から最初は聖母像の胴体部分、次にその頭部が引き上げられた。高さ40センチ弱のものだ。再度、網を投げ入れると魚が大漁となったことからこれを奇跡としてあがめた漁師の1人が聖母像を家に保管し、家族や近隣の人達が聖母像の前で祈るようになった。
 この聖母像は元々黒くなかったが、長い時間、川底に沈んでいたことに加え、信者が灯すロウソクに燻されて黒くなったと言われる。この「黒いマリアさま」は黒人奴隷を含め、多くの市民から信仰を集め、どんどん巡礼が増えた。
 そこから多くの奇跡が伝えられ、1734年、コケロスの丘に最初の礼拝堂が建設され、巡礼者が訪れるようになる。1822年4月20日、サンパウロ州パライバ渓谷を訪問中だったドン・ペドロ摂政王子はこの礼拝堂に立ち寄り、「全てがうまくいって、この像がブラジルの守護聖人になりますように」とこの像に拝んだと言われている。
 その5カ月後、実際に独立宣言をすることになる。だが、きまぐれなペドロ1世は実際に皇帝になった後、別の聖人であるサンペドロ・デ・アルカンタラを守護聖人に選んだ。そんな1834年に現在は「古い聖堂」と呼ばれる教会が建設された。
 イザベル王女はペドロ2世の摂政として、1888年5月13日に奴隷廃止法に署名した。同年11月6日、黒人に所縁のある彼女は同聖堂に2度目の訪問をし、ダイヤモンドとルビーをちりばめた金の王冠と、王族と後援者のシンボルである金と宝石で刺繍された藍色のマントを聖像に贈呈した。
 翌1889年11月15日に軍事クーデターが起きて共和制が宣言され、帝政は廃止された。ブラジルを独立させ、黒人奴隷解放を宣言した皇帝一家はフランスへ亡命した。
 その後1904年9月8日、ローマ法王はこの聖像の宗教的な正当性を高めるために特使を派遣し、大統領らも出席のもと聖像の戴冠式を行った。以後聖像は現在まで続く、イザベル王女から寄贈された王冠と藍色のマントを身に着ける姿を正装とするようになった。
 ゼッツリオ・ヴァルガス大統領が政権を握った1930年前後からサンバ、カポエイラ、フェイジョアーダといった黒人由来の文化が、ブラジルのナショナル・アイデンティティの一部として称揚され始めた。その流れの中で1930年、教皇ピオ11世がこの像を「ブラジルの女王」「ブラジルの守護聖人」と宣言した。もし聖母像が黒くなかったら、守護聖人になっていただろうか。

「世界最大のマリア崇拝の大聖堂」


アパレシーダ聖母大聖堂でロウソクを献納して祈りを捧げる信者(Agência Brasil、Wikimedia Commons)

 1955年、現在の大聖堂の建設が開始され、1980年にブラジル訪問した教皇ヨハネ・パウロ2世により建設中の大聖堂の献堂式が挙行され、1984年にこの大聖堂は「ブラジルの聖地」として宣言された。
 長さ173m、幅168mのギリシャ十字の形をした建物で、40mの身廊と高さ70mのドームが特徴的な建築で、聖母マリアを祭ったものとしては世界最大規模を誇る。マラカナン蹴球場しかり、ブラジル人は世界一が好きなようだ。
 「ノッサ・セニョーラ・アパレシーダ(アパレシーダの聖母)」は正式にはNossa Senhora da Conceição Aparecida(受胎の聖母アパレシーダ)と言う。これはキリストの母マリアのブラジルにおける姿だ。
 これがポルトガルなら「ファティマの聖母」、メキシコなら「グアダルーペの聖母」、フランスなら「ルルドの聖母」と呼ばれる。他にもたくさんの聖母が世界中にいるが、それらはすべて同じ人物を指している。ブラジルの特徴は黒人であることが、メキシコもしかり、意外にあちこちにいる。


1978年に破壊された時のアパレシーダの聖像の無残な姿(Maria Helena Chartuni, CC0, via Wikimedia Commons)

 実はこの聖像はカトリックとプロテスタントの宗教的衝突の原因となったことが過去に何度もある。例えば1978年5月16日、その日の最後のミサの後、福音主義者が聖像を大聖堂の祭壇から勝手に持ち出した。彼は警備員と何人かの崇拝者に追われ、捕まると聖像を地面に叩き付けて、粉々に壊した。
 300年前に作られた素焼き粘土細工であり、長い間川に沈んでいたこともあって、劣化していたため復元は困難を極めた。だがMASPのアーティストのグループが断片を接着することに成功してなんとか復元した。
 その後も福音派による聖母レプリカ像破壊は頻繁に起き、動画上げたり、侮蔑発言をしたりと宗教対立の原因となっている。

「さらに伝統的なもう一つの聖母マリア像」


シリオ・デ・ナザレ2012公式ポスター(Roberto de Vasconcelos M., via Wikimedia Commons)

 実はブラジルにはもうもう一つ聖母マリアの聖像があり、植民地時代から続く伝統的な祝典がパラー州都ベレンで行われている。なんと1793年以来、毎年10月の第2日曜日に祝われている「シリオ・デ・ナザレの(Círio de Nazaré)」だ。
 すべての巡礼と行進を合わせれば毎年200万人以上が参加するというブラジル最大のカトリック行事であると同時に、世界最大のイベントの一つだ。2004年には国立歴史美術遺産院(Iphan)によって連邦無形文化遺産に認められ、2013年12月にユネスコによって世界遺産にも登録された。
 1700年に、ポルトガル人とインド人の混血子孫プラシドが、ベレン市の当時のアマゾン川支流ムルトゥク周辺を歩いていた時、ポルトガルで古くから信奉されているノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ聖像を発見した。泥だらけの岩間に高さ28センチほどの壊れかけた木製聖像だった。
 プラシドはその聖像を自宅に持ち帰ってきれいにし、即席の祭壇を作った。地元の伝承によるとその像は知らない間に発見された場所に何度か戻った。その事実を神のしるしと解釈して、プラシドは発見場所に小さな礼拝堂を建てた。
 その話が奇跡として住民に広まり、聖像を礼拝する信者が増え有名になった。当時パラー地区植民地総督の耳にも入り、総督官邸への移転を決めた。しかし官邸で厳重な管理下にあったにも関わらず、聖像は再び姿を消し、プラシドが建てた礼拝堂に再び姿を現した。この奇跡から聖像はバチカンにも認められるようになり、発見場所に現在のナザレ大聖堂が建てられた。
 1773年、当時のパラー大司教がベレンの守護聖人をノッサ・セニョーラ・デ・ナザレに決め、翌74年の初めに聖像をポルトガルに送って修復した。その返還が同年10月に行われ、巡礼中の信者によって市の港から聖堂に像が運ばれ、知事、司教、市民および教会当局が同行した。これが最初の「シリオ」と見なされ、以来毎年10月の第2日曜日に開催されている。つまり、こちらの方がアパレシーダよりも古く、大規模だ。

「〝暴れん坊〟を優しく見守る聖母」


2005年、シリオ・デ・ナザレの川巡礼中の様子(Brazillian Navy, via Wikimedia Commons)

 ボルソナロ大統領はプロテスタントの福音派からは圧倒的な支持を得ているが、カトリックの大部分はルーラ支持という状況がある。それをひっくり返すべく、大統領は10月8日、招待もされていないのにシリオ・デ・ナザレに勝手に参加して、カトリック教会から「神聖な宗教行事を選挙運動に利用しようとした」と不評を買った。
 しかもボルソナロは自慢げにSNSに、スペルを間違えて「Sírio de Nazaréに参加した」と動画付きで投稿したため、地元から「それじゃあシリア人だ。だから分かっていない」とけなされた。
 さらに先週10月12日、ボルソナロがアパレシーダ聖母大聖堂のミサに参加し、その支持者らがミサ中の神父に野次を飛ばすなどの横暴を働いたことから、カトリック教会や信者から批判が集まった。福音派の支持者が多い大統領からすれば、この成り行きは予想できたことだ。
 ただし歴史的に懐の深いカトリック教会からすれば、かつて聖像が粉々にされたことに比べれば、勝手に参加とか、野次程度では何とも思わないだろう。二人の聖母は、どんな〝暴れん坊〟でも国民の一人として温かく見守っているに違いない。(深)