連載エッセイ190:小林志郎「天野芳太郎とパナマ」 | 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ190:小林志郎「天野芳太郎とパナマ」


連載エッセイ 189

天野芳太郎とパナマ

執筆者:小林志郎(パナマ運河研究家)

「初めに」

天野芳太郎は、中南米関係者の間では傑出した人物として広く知られている。ペルーの首都リマにある天野博物館は、第二次大戦後に天野がその後半生(53歳~84歳)を注ぎ込み発掘調査したインカ古代文明の一大精華とされる。しかし、今回は、天野の前半生、つまり第二次大戦までの30歳~50歳頃にスポットを当てて見たい。文字通り、青・壮年期のエネルギッシュで粗削りな野心満々な行動が我々を魅了して止まないからだ。

海外雄飛の夢を中南米で実現しようと、横浜を出港したのは天野が丁度30歳の時(1928年)だった。幼い子供2人と夫人を引き連れシンガポール経由、インド洋に出て、アフリカのモザンビーク、さらに喜望峰を回り、大西洋を横断して南米のウルグアイに到着した。しかし、そこで、父親逝去の報を受け、5人兄弟の長男であった天野は、日本にUターン。片道2か月強の航路だが、別に苦にも感じなかったようだ。

日本で父親の葬儀を済ませ、1か月後には再び横浜を出航。今度は、太平洋航路で、ハワイを経由してアメリカ西海岸を南下、完成10年目を迎えていたパナマ運河を航行、大西洋側のカリブ海に出てベネズエラのカラカスに到着。そこに一旦、居を構えたが、日本からの貨物がパナマに陸揚げされていたため、結局、パナマに居を移すことになった。

時に1929年(昭和4年)、天野はパナマを中心に、中南米全域で“一国一業ビジネス”の展開を始めた。しかし、順風満帆だった生活は12年後の1941年(昭和16年)12月7日の日本海軍によるハワイ真珠湾奇襲攻撃で、突然終わりを告げた。天野はパナマ官憲から、スパイ容疑で拘束され、他の日系人と共にアメリカに強制送還され、翌1942年8月、44歳の時、日本に帰還した。(尾塩尚「天界航路―天野芳太郎とその時代」を参照)

天野のような巨人を語る資格は私にはないが、たまたま、1986年から10年近くパナマに住み、「第二パナマ運河」のFS調査に参加した機会に天野の著作物に触れ、パナマをベースに中南米で活動した天野に強い親近感を覚えたので本メモをまとめて見た。茶目っ気の多い天野は、スパイと言われるのが好きだったらしいが、実際に日本の陸海軍の諜報活動にコミットしていたという確証はない。

天野は日本に戻り、矢継ぎ早に著した著作物で、当時の日本では皆無であったパナマ運河に対する米軍の完全無欠な警備状況に関し詳細な情報分析を行っている。他方、「真珠湾奇襲」を行った日本海軍の山本五十六が構想していた「パナマ運河爆砕作戦」は、太平洋戦争の末期に至り、海軍内で本格的に実施に移された。その準備段階で、天野の現地情報が考慮の対象にされた形跡はゼロだった。この事実からも、天野スパイ説は根拠がないものであったことが分かる。

「パナマの百貨店経営で大成功」

天野が、パナマを拠点として中南米ビジネスを展開した理由の一つは、パナマでは米ドルが正式通貨として流通していたことだろう。米ドルが世界の基軸通貨になるのは、第二次大戦後のことだが、当時も米ドルは英ポンドと並び強い世界通貨であった。天野が、太平洋からカリブ海側のベネズエラに向かった時、パナマ運河を初めて航行した。当時の世界最高水準の土木建設技術で巨大な運河を完成させたアメリカの国力を実感したはずだ。それと同時に、広大な運河周辺地帯に居住していた豊かな生活レベルのアメリカ人を目にして、有効需要を確信したに違いない。

天野は、パナマ市内の目抜き通りに百貨店をオープンした。天野のビジネスセンスは日本にいた頃から磨かれていた。工業高校で機械工学を学び、卒業後は造船所に就職した。しかし、早くから独立を目指し、鋳物工場を経営したり、アメリカの舶用エンジンの輸入代理店をやったり、国際取引も経験していた。関東大地震で壊滅的被害を受けた時は、“饅頭”を作り人気を博し、相当の儲けを得ていた。海外雄飛への船旅の間も、ゆく先々で、珍しい物を仕入れ、次の港で売りさばくなどして商売感覚を磨いていた。

1929年、パナマの目抜き通りに開店した百貨店(天野商会)は大繁盛で、3年後には、当時パナマでトップにあったフランス系資本の百貨店を抜き去り第一位になった。34歳になっていた天野は、ビジネスで大成功を収め、ペルーで成功を収めていた日系実業家の娘と再婚し、順風満帆の日々を送っていた。

37歳の時、パナマ運河地帯にあるアメリカが運営する図書館に立ち寄った。そこで、天野はペルーのマチュピチ遺跡の発見者でアメリカの考古学者ハイラム・ビンガム著「インカ・ランド」に出会った。即座にペルーのアレキパに飛び、マチュピチュを訪れた。天野は、少年時代から、考古学への関心が強かったが、このパナマで遭遇したビンガムの著作はインカ文明への目を開き、後半生のペルーでの発掘調査を開花させた。

天野はパナマ市内のクレスタという丘陵地の中腹に建てた大邸宅に、11年間住んでいた。そこからは、パナマ運河が眺望でき、通行船舶を観察できた。後日、この場所に住んでいたことが、天野スパイ説の状況証拠の一つともなり、ニューヨークタイムズで報じられることになった。

「マグロ漁船でスパイ活動を疑われる」

豊かな財政状況をバックに、38歳(1936年)の時、日本の造船会社でマグロ漁船(110トン)を発注した。かつて造船会社に勤務していた経験を活かし、漁船の設計は天野自身でやった。今日の漁船と比べれば、小ぶりだが、当時のマグロ船としては、通信機器を完備し、世界最大、最新鋭で海外でも注目された。完成した漁船(「天野丸」)は日本で雇った船員16人を乗せ太平洋を渡った。船の国籍登録をパナマの隣国コスタリカですることになり、天野はコスタリカに滞在した。現地新聞が何と「スパイと語る5分間」という見出しと顔写真入りで大きく報じた。

このマグロ漁船は、百貨店と共に天野商会の収益に大きく寄与した。コスタリカで缶詰め加工し「シーチキン」としてアメリカ市場に輸出した。コスタリカの外貨獲得にも大きく寄与し、現地政府から勲章をもらう程だった。

この最新鋭の漁船に対して、米側の資料(長年、パナマ運河の防衛責任者であったチャールス・ブルックの著書「パナマ運河のセキュリティと防衛」)によれば、「天野の漁船はしばしばパナマ運河の入口付近でエンジントラブルを起こしたが、それは、その周辺水域の水深を測定し、潜水艦の航行の可能性を探っていたのだ」として天野のスパイ活動の状況証拠として特記している。

天野はチリではアンダリエン農場(400ヘクタール)を経営していた。この農場がチリの軍港タルカワノを一望できる場所にあったことから、チリでも天野スパイ説が現地新聞で報じられた。

天野が、世界的に珍しい、淡水湖ニカラグア湖にすむ鱶(フカ)を観察に出かけた時、マナグア市で大統領官邸前を見物して、兵営を写真撮影したということで、カメラを没収され、数日間拘留された。この時も、現地紙は、天野がスパイ容疑で逮捕されたと報じている。

「アメリカによる中南米諸国への防諜協力」

天野がスパイ容疑で、中南米諸国で逮捕されたり、大々的に報道されるケースが増えてきたことの背景には、当時の国際情勢が反映していた。1937年に日本が中国に侵攻し、さらに同年「日独伊三国同盟」を締結したことから、アメリカの対枢軸国戦略が明確になり、米州諸国(中南米21か国)に対しても反枢軸国戦略への同調を迫るようになっていたからだ。

米国を中心とした米州諸国の正式会合は、1889年から始まる「汎米会議」が中心であった。第二次世界大戦が迫る1938年には、第8回「汎米会議」(ペルー・リマ)が開催され、「米州共同連帯主義宣言」が採択された。米州諸国が一致協力して枢軸国に対決していく方針が確認された。(注) この方針により、枢軸国の諜報活動に対する防止策も検討され、アメリカが把握している枢軸国側スパイ容疑者リストも用意され、関係国に配布された。天野がパナマを初めコスタリカ、ニカラグア、チリの現地紙で報道されたのも米州諸国間の連携プレーの一環であった。
(注)外務省アメリカ局第二課長(大野勝巳)は、1942年1月リオデジャネイロで開催された「汎米外相会議」での情報収集をベースにまとめた「アメリカの対南米政策」の中でアメリカと米州諸国の関係の動きを追及し刊行している。日本外務省によるこの種の情報収集は、戦争開始と共に地下ルートに潜ることになった。米州での情報はメキシコに集められ短波でカリブ海に停泊中の中立国スペイン船に送信、そこからドイツの日本大使館経由機密電報で東京に送られた。米国の諜報機関は、これら機密電報は大方解読していた。

「真珠湾攻撃の翌日、天野ら日系人一斉逮捕」

1941年12月7日(日本時間8日)、日本海軍の連合艦隊はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。同日、パナマ在住の日系人約300人(男185人、子女子115人)がパナマ官憲の手で全員逮捕、強制収容された。勿論、天野も同様であった。家族は日本に帰国させていたので、逮捕は免れた。この逮捕から日本に帰還するまでの記録は、天野自身が帰国後に書いた「我が囚われの記」(1943年6月刊、汎洋社)に詳しい。

近年公開された米国務省の機密資料によれば、当時、中南米13カ国で逮捕された日系人の数は2,264人に上る。このうち、ペルーが最多で1,799人。これだけの日系人がほぼ1日前後で逮捕されていたという事実の中に、アメリカが中南米諸国との間に周到な戦争準備をしていたことを伺い知ることができる。

「長旅の後、ニューヨークから日本に帰還」

パナマ官憲に拘束された天野を初め日系人は、パナマ運河の太平洋側に築かれた米軍施設の一角バルボアに作られた天幕で116日間の生活を送ることになった。ここには、ドイツ人やイタリア人230名も収容されていた。天野は現地パナマ人のアミーゴからこっそり新聞やフルーツを手に入れ、日系人に最新ニュースを解説したりして、人々の不安を取り除く役割を果たしていた。

翌年4月初め、北米への移送が始まった。収容者一行は、パナマ大西洋側のコロン港から船に乗せられ、北米南部のミシシッピー河口まで移動。そこから汽車に乗せられ、オクラホマ州のフォート・シル収容所に移送され、50日間程留まった。ここでは、ハワイ組(169名)、カリフォルニア組(352名)の日系人とも合流した。この間、天野はアメリカの新聞を自由に読むことができ、日本内地より客観的で広範な戦争情報を把握でき、帰国後の著作、講演活動に反映させた。

その後、全員ニューヨークに移送され、6月18日、交換船「グリップス・ホルム号」(スウゥエーデン船)に乗船することになった。この交換船には、日米交渉に当たった野村大使や中南米諸国の外交官、引揚げ者も乗船し、さらに途中ブラジルのリオデジャネイロでは383名の日系人も乗り合わせ総計1,083名であった。アフリカ喜望峰を回り、7月22日に東アフリカのポルトガル領、ロレンソ・マルケス(現在のモザンビークの首都マプート)に到着。 開戦後、日米の捕虜交換交渉により、双方の中間点として選ばれた場所だ。ここで、日本の横浜を出港し、香港、上海、サイゴン等の日本の占領地から逃れたアメリカ人を乗せた日本郵船の「浅間丸」とイタリア国籍の「コンテ・ヴェルデ号」の乗船者との捕虜交換が行われた。北米組は「浅間丸」に、中南米組は「コンテ・ヴェルデ号」に乗り換え、2隻は1942年8月20日、横浜港に帰着した。

「坂西志保が語る天野の人物像」

「・・・忘れもしない昨年(1942年)6月18日朝、私は交換船で帰国できるとわかった。・・・ペンシルベニアホテルの4階の一室に入れられた。・・・FBIの手で1時間ばかり取り調べられ、やがて廊下に並べた食卓の隅に私は座った。私の正面に、痩せた体にだぶだぶの菜っ葉服を着、眼鏡の下から異様に光る眼をした人がいた。給仕人が投げ出すように置いていく食べ物をせきたてられて食べなければならない私は、その人に通り一辺の挨拶をしただけであったが、この菜っ葉服の紳士が尋常一様の人でないことは、直ぐに感じとられた。これが、私が天野芳太郎氏に会ったはじめである。・・・泣く子もだまるような気概が、天野さんのうちにみなぎっている。しかし、会って何よりも人の心を動かすものは、天野さんの底にある人間らしい心だと、私は思う。・・・大東亜戦争の第二年目、・・・帰られてから、北日本に、関西に、また朝鮮に、席温まる間もないほど忙しく講演旅行をしておられる。・・・しかし私は嫌がる天野さんに、とうとう本を無理に書いてもらった。・・・気骨の人、信念の人に筆をとらして、これから大東亜共栄圏の中に発展していく日本の方々に、天野さんほどの気骨と信念を持っていただきたかった。・・・」と語るのは、元米国議会図書館東洋部長の坂西志保。

アメリカ在住20数年の坂西は、ミシガン大学で博士号を取得、同大学で教えた後、米議会図書館に勤務。戦後、評論家として活躍。しかし、アメリカ側の情報では、最も注目すべき「二重スパイ」としてマークされていた人物だ。その坂西は、太平洋戦争を戦う日本人を鼓舞する上で、天野の強い精神力と経験が役立つとの思いから著作を勧めたのだ。上記は「我が囚われの記」の巻頭言だ。

「哲学者鶴見俊輔が語る天野」

もう一人、天野の人物像を語るのは、アアメリカのプラグマティズム哲学を日本に紹介したことでも知られる哲学者の鶴見俊輔だ。鶴見は当時東海岸、ボストンのハーバード大学に留学中に拘束され、メリーランド州のフォートミードに抑留されたのち1942年6月、交換船「グリップス・ホルム号」に乗船し、天野とも会っている。

鶴見は回想録「日米交換船」(2006年、新潮社)の中で、天野を次のように評している。
『ひと月も一緒にいると、天野芳太郎は、もう、傑出した人物だということがわかるんだ。(中略)おとなしい、威張らない人だった。これはとってもえらい人なんだというのが周囲から伝わってきた。南米に対する態度が違ったんだよ。ぜんぜん見下していないから、そこで財産をつくれる人だった。』

「パナマからの資金持ち出し」

天野がパナマで蓄えた資産は32万ドルとも550万ドルとも言われる。この大金をどうやってパナマから持ち出せたのか? 天野は、偶然、日米開戦の直前にパナマの米系シティー銀行の自分の預金口座から現金化して、引き出したと述懐している。多分、日常的な情報収集を通じて、日米開戦が近いと感じ、緊急対策をとったものと思われる。しかも、携行荷物のチェックを受けない外交官特権を持つ日本公使館の外交官に資金の日本への持ち出しを依頼していた。そして、ニューヨークで乗船した交換船の中で再会した外交官から資金の受け渡しを受けた可能性がある。天野の日本帰国後の活動資金やその後のペルーでの活動資金はこうして確保された。

勿論、米官憲はスパイ容疑者天野の手回しのよい資金引出しを追及したが、後の祭りだった。日本公使館側の天野に対する信頼の大きさを物語るエピソードだが、天野は帰国後、一時外務省の嘱託となり、中国の現地調査にも協力している。

「真珠湾攻撃とパナマ運河爆砕作戦」

連合艦隊司令長官山本五十六は、若い頃、駐在武官としてアメリカに2回駐在している。日本がアメリカと交戦した時を想定した戦略も考察していた。圧倒的な工業力を持つアメリカの東海岸で建造された米艦隊が日本戦艦と戦うため太平洋側に出るためには、どうしてもパナマ運河を通行せざるを得ない。その運河をたたけば、しばらくの間、日本海軍は持ちこたえることができると着想していた。事実、日米開戦当初、海軍内で山本は「パナマ運河爆砕作戦」を主張していたが、実際に実行できたのは、真珠湾攻撃であった。半年前からアメリカの経済制裁で石油禁輸措置が採られ、日本艦隊は燃料不足に陥りつつあり、ハワイの真珠湾まで往復するのが精一杯だった。

日本海軍が「パナマ運河爆砕作戦」を実行に移したのは、1943年8月以降であった。この時点で、既に「ミッドウエー海戦」(1942年6月)で主要戦艦の大半を失い、ガダルカナルで玉砕(1943年2月)、南方戦線で搭乗した軍用機が襲撃され山本五十六が戦死(1943年4月)。起死回生策として浮上したのが、「パナマ運河爆砕作戦」だった。

「天野の警告」

前述のように天野は日本帰国の半年後に「パナマ及びパナマ運河」を刊行し、全国各地で「パナマを中心とせる中南米事情」という講演活動をやっていた。天野は講演で、アメリカは国内に急所を持っていないが、パナマ運河こそがアメリカの急所であるという話から始めている。真珠湾攻撃の爆撃を受けたとき、ルーズベルトは卒倒したが、すぐに運河地帯の防衛司令官を呼び出し「運河は安全なりや」と質問したほど、パナマ運河はアメリカにとって重要な戦略拠点であると述べている。また、アメリカは日米開戦4か月前から日本船のパナマ運河通行を禁止し、日本は戦略物資の輸入ができなくなっていたとも説明。

天野はパナマ運河の脆弱性は閘門にあり、一発の爆弾が投下され破壊されればパナマ運河の機能が停止し、アメリカの両洋作戦は不可能となり、中南米というアメリカの生命線をばらばらに切り離す結果となる。このため、パナマ運河の防備は「三段構へ」になっている点にも触れた。

第一段は運河地帯の現地防備、第二段がパナマ国内の外郭防備、第三段がそのまた外郭の遠地区防備である。第一の運河地帯の防備は、アメリカは1939年から真剣に取り組んでおり、常備兵はそれまでの1.2万程度から1940年には、4万強に増加されている。運河周辺には飛行場も建設され、運河上空には哨戒の飛行機が秋の赤とんぼの如く乱舞している。また高射砲も雨後の竹の子の如く至るところに設置されている。

第三段の防備として、パナマ運河を中心として半径約1千マイル(1.6万キロ)の範囲は航空機による哨戒エリアとして運河防衛領域に設定されたとしている。

「日本海軍の作戦の前提」

天野の講演を聞けば、「パナマ運河爆砕作戦」は無謀な作戦であることが理解できる。
しかし、日本海軍の作戦参謀は、たまたま神奈川県大船の捕虜収容所に拘禁されていたパナマ運河防衛に従事していた米軍人を尋問し、「運河防衛は、現在は手薄になっている」との証言を得て作戦実行へ動き出したとされる。米国人捕虜の言葉をそのまま信じるというのも、情報音痴の典型パターンに見えるが、日本海軍で同作戦に従事した海軍士官佐藤次男の「幻の潜水空母」(光人社、2001年)の中の記述だ。パナマ運河の構造物に関する情報は、かつてパナマ運河建設に携わった唯一の日本人技師・青山士(アキラ)から入手していた。

日本海軍はパナマ運河攻撃用の潜水空母の建造に極秘裏に着手。物資が不足し、B29の空爆も激しくなる中、「伊―400、401号」の2隻と少し小型の「伊-13、14」2隻が2年程で完成した。当時、世界最大の潜水艦(排水量5千トン)で、艦上には攻撃機「晴嵐」3機を収納、発艦用カタパルトを備えていた。戦艦大和と同様、世界最高水準の潜水艦だった。

しかし瀬戸内海はB29が投下した機雷で潜行が難しくなり、攻撃機「晴嵐」を含めた実戦訓練は1945年6月から能登半島の八尾湾で行われた。パナマ運河の攻撃目標物である大西洋側のガツン閘門(この閘門を破壊すれば運河操作用の貯水池ガツン湖の水が流れ落ち運河操作が不能になる)を模した木製の構造物に対し、800トン機雷を抱えた「晴嵐」10機が一斉に体当たり(特攻)するという必死の作戦であった。しかし、既に太平洋戦争も末期状況を迎え、「パナマ運河爆砕作戦」は中止された。

戦後、日本の経済復興を支えた海上貿易の主要航海ルートであったパナマ運河、アメリカに次いで日本が長い間、第二位の利用国であった。既に100年余を経たパナマ運河も容量不足の問題に直面し、1990年代、日・米・パ三か国による「パナマ運河代替案調査」が実施された。それをベースに2016年、古い運河と平行する形で「第二運河」が建造された。(了)

(参考資料)
・大野勝巳「アメリカの対中南米政策」、(朝日新聞社1942年(昭和17年)
・天野芳太郎「パナマ及びパナマ運河」、(朝日新聞社、1943年(昭和18年)1月)
・天野芳太郎「我が囚われの記」、(汎洋社1943年6月)
・天野芳太郎「パナマを中心とせる中南米事情」、(東洋経済新報社1943年)
・尾塩尚「天界航路―天野芳太郎とその時代」、(筑摩書房,1984年)
・春名幹雄「秘密のファイル、CIAの対日工作、The Secret Files」(共同通信社、2000年)
・佐藤次男「幻の潜水空母―帝国海軍最後の作戦パナマ運河爆砕」(光人社、2001年)
・Charles Morris Brooks,” Guarding the Crossroads, Security and Defense of the Panama Canal”, Nov. 2003, Imprelibros, Colombia.