執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
この号では、「ブラジルの食文化再考について」のその8を紹介する。ブラジル南部の料理とブラジルの代表的な料理のシュラスコ他をとりあげる。
重複するが、南部を構成する3つの州は、一般にイメージされる“熱帯ブラジル”とは異なり、いささか様相を異にする。冬 (通常、5月から8月) には、「ミヌアーノ(minuano)」といわれるアンデス山脈からの冷たい乾風が吹き下ろし、厳しい寒さには暖炉の必要さえもある。場所によっては雪の降るところもある。リンゴ産地として知られる他、針葉樹林のアラウカーリアが自生したりして、とても南国の風景とは思えない印象を覚える。
前にも述べたように、南部の文化の多くは、東欧も含めたヨーロッパに起源を持つ。従って、例えばサンタ・カタリーナ州の町や、ぶどう酒の産地として知られるリオ・グランデ・ド・スール州北部などは、ヨーロッパ人、とりわけドイツ人やイタリア人移民が開拓し発展させた地域である。しかも、南部は一大農牧地帯であり、この国の食糧庫の役割を果たしている。南部は他の地域に較べて圧倒的にヨーロッパ系移民が集住しているために、食文化も必然的にヨーロッパ風ないしはヨーロッパの影響を受けたものが少なくないのである。
ブラジルは、どの地域の食文化も多様性に富んでいる。南部のそれも然り。そこには東欧も含めたヨーロッパ民族の料理法や食文化が再現ないしはその影響を受けたものが多岐に存在している。
[シュラスコの起源]
今やフェイジョアーダ (feijoada) と並んでブラジルの代表する料理になっているシュラスコ (churrasco)。が、元々その発祥地は南部、それも牧童ガウーショの食事と言われる。16世紀、大西洋を渡った牛がまず北東部に持ち込まれた。やがて、リオ・グランデ・ド・スール州の中央部からウルグアイ、アルゼンチン北部にかけて拡がるパンパス (大草原地帯) でも牛の放牧が始まり、家畜の世話が牧童に任された。彼らは馬で移動する生活を送っていたので、栽培された植物を食べる機会が少なく、肉食が習慣となった。木の枝などに肉を刺し、地面におこした直火であぶっていたのが、シュラスコの起源らしい。
1940年頃、イタリア人移住者の影響を受け、伝統的なシュラスコに味がつけられ、現在のようなバイキング形式のレストランであるシュラスカリア (churrascaria) が登場した。そして、豚肉や鶏肉なども食べられるようになった。今でこそブラジル全土で食べられる国民食となっているが、本来は牧童、ガウーショと称されるリオ・グランデ・ド・スール州の人々だけの伝統食であったのである。それが今や、日本も含めて世界の国々で、ブラジルを代表する食べ物として好んで食されている。ちなみに、優秀なガウーショはミヌアーノ系民族の末裔が多いと言われている。
筆者撮影
野外でたき火で肉をあぶって食べる、すこぶるシンプルな食事スタイルのブラジル風バーベキュー。この焼き肉料理は今では、レストランのみならず多くの人が集うパーティーなどでも、サラダ、パスタ、鍋物、果ては寿司さえも合わさったフルコースのかたちで食べられるようになった。とにかく、岩塩をまぶした多彩な種類の肉はどれもこれも美味であることから、世界的な人気を得ているのは承知の通り。
シュラスコの語源はスペイン語で、「グリルで焼いた肉」を意味する言葉のようである。ブラジルでは人が集まるとシュラスコパーティーが始まるのが少なくない。エスペート (espeto) と呼ばれる金串やエスペチーニョ (espetihho) という木の串に肉を刺し、シュラスケイラ (churrasqueira:レンガ造りのシュラスコ専用のグリル) や網の上で炭火焼きにされる。
レストランでは、肉の各部位が大きな金串に突き刺され、直火であぶられる。ロディ―ジオ (rodízio) といわれるバイキング形式のレストランでは、給仕が焼いた肉を串に突き刺したままテーブルに運んできてくれ、食べたい肉を食べたい分だけ切り分けてくれる。ひっきりなしに次から次へと様々な肉を持って来てくれる。であるから、いつの間にか満腹になり食べ過ぎたりもする。
ちなみに、日本人は得てして一気に食べ、すぐにお腹一杯になる傾向があるようだ。沢山の肉を食べる上で肝心なのは、ゆっくり時間をかけて食べるのがコツらしい。通常、各テーブルには裏表が赤色、緑色のカードが置いてある。緑色の状態にしておけば、給仕は次から次へと持って来る。満腹になり赤色にしておけば運ばれることはない。
人によって好みは異なるが、私はピカーニャ (picanha:牛肉の背中の後方部分) が一番美味しいように思う。皆さんのお好みの肉の部位は?
シュラスコ [筆者撮影]
シュラスコにおける肉の部位 (webより転載)
クイア(cuia)という瓢箪の容器にたっぷりとマテの茶葉を入れてお湯を注ぎ、ボンバ(bomba)という下部に細かい穴の開いたメタルの管[ストロー]で飲む。南大河州ガウーシヨたちの飲み物には違いないが、もともとルーツは先住民インディオたちの食文化にある。
パンパで牧童たちが回し飲みをする光景を目にするが、今やブラジルの田舎をはじめ、パラグアイなど近隣諸国でも飲まれている。仲間同士で回し飲みしながら、のんびりとおしゃべりして過ごすのが、シマランの贅沢な味わい方。ちょっぴり苦いけれども、肉食の際に飲むと、ビタミンが補給された気になる。ブラジル通のSeiji Yashiro さんも、このシマランにはまって飲んでおられるようだ。
5世紀以上に亘る異文化交流の歴史の中で、ブラジルには多くの食産物が持ち込まれた。それには19世紀以降の、世界の国々や地域のものも含まれる。日本移民が導入した柿などはその一例。
以下、海外からもたらされたあまたの食産物の中で、米、豆、ヤシ(の実)、バナナ、パイナップルの5点に絞って概説したい。5000年前に栽培されていたアジア出自の米は、アラブ系民族に支配されていた時期に、イベリア半島に伝播した。ブラジル原産の米が存在していたどうかについては、論争がある。しかしながら、16世紀以来すでに、北東部のマラニャン州では栽培されていたらしい。
続いて豆であるが、その起源については意見が分かれる。インドに起源を求める者がいる一方で、南米原産を説く者がいる。1500年前にアフリカで栽培され、ブラジルには植民地化の後に多様な種類の豆が持ち込まれたことが知られている。
ブラジルを旅すれば、ヤシの木を見かけないことはないくらい、至るところに植生している。そして、それは熱帯ブラジルの自然には不可欠な要素のように映る。が、そのヤシがもともとブラジルの大地のものでなかったことに驚く。起源については諸説がある。ブラジルにはポルトガル人の手によって1553年に持ち込まれたことが知られている。しかしながら他方において、島崎藤村の「椰子の実」の、故郷を離れて遠き島より流るは汝(なれ)は…の歌詞さながらに、海洋に浮かんで辿り着いたと観るCarlos Lemosような人もいる。日本の柳田邦男的な存在のCâmara Cascudoは、元来、原産地で、10世紀にアフリカにもたらされたものがブラジルにも伝わったという見解を示している。ブラジルに行けば必ずといってよいほど、イパネマもしくはコパカバーナの海岸で、キンキンに冷えたヤシの果汁を飲む。そして生き返った気になる。
バナナは私の食卓には欠かせない代物である。血圧低下の効能があるからだ。果実好きであることから、留学時代は種類が豊富なバナナをどれだけ食べただろうか。多様なバナナの名前も学んだが、今は記憶にない。banana de água, banana de maçã, banana de prataの如きもの。そのバナナが外国産とは。原産地に関しては異論がある。カブラル艦隊がブラジルを発見した折に、バナナの一種のパコヴァ(pacova)がこの国にも存在していたようであるが。30種類ものバナナの大半はアフリカからもたらされたそうである。
パイナップルの原産は南米と見られている。ヨーロッパ人が到来する以前に、グワラニ族( guarani)によって広められたこの食物が、中央アメリカやカリブでも先住民が栽培するようになったという。私はパンタナルの地においても、アナナス科のパイナップルの亜種を何度となく目にしたことがある。