連載エッセイ208:富田眞三「ボランテイア活動を通してみた榎本植民団の末裔」上 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ208:富田眞三「ボランテイア活動を通してみた榎本植民団の末裔」上


連載エッセイ205

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>ボランテイア活動を通してみた榎本植民団の末裔(上)(2005年春)
タパチュラ(メキシコ)の日系社会

執筆者:富田 眞三(在テキサスブロガー)

執筆者:白戸 東子(しらとはるこ)(元JICA日系社会シニアボランテイア)


写真:(https://www.discovernikkei.org)

【富田氏による蛇足的まえがき】

>昭和30年代の日本は海外移住が盛んな時代だった。50もの大学に「海外移住研究会」が結成され、日本学生海外移住連盟が発足、昭和34年同連盟は,時の総理大臣岸信介氏を招いて、神田の共立講堂において、「南米事情講演会」と題する講演会を開催できたほど各界から信頼される組織になっていた。

海外移住研究会メンバーは男子学生がほとんどだったが、まれには女子学生も入会してきた。このシリーズの筆者である、白戸東子さんはその一人だった。海外進出を夢見る女子学生の中には奈良女子大を出て、大阪商船の移民船のスチュワーデスとして活躍した人もいた。白戸さんは拓大在学中、南米諸国訪問団の一員として南米を親しく知ると、海外日系人の三、四世に日本語を教えることを志すようになった。そして彼女の夢は、40年後にJICA日系シニアボランティアとして渡墨したことによって、ようやくかなえられた。

テレ朝の名物プロジューサーだった夫君から、「専業主婦ならぬ、ボランティア専業、趣味は家事」とからかわれた、主婦の目で見たこの日系社会のレポートは生き生きとメキシコの日系社会を描写している。最後までお付き合いしてくだされば幸いです。(テキサス無宿記)

皆さんはタパチュラの日系社会には、耳をふさぎたくなるような誹謗中傷合戦があるのをご存知でしょうか。メキシコのチアパス州タパチュラ市で1年、JICA派遣日系社会シニアボランテイアとして過ごした私の短い活動経験から、彼らの将来が少しでも明るいものとなるよう希望、期待を込めてこれ等の問題点を紹介したいと思います。


写真:(https://wikipedia.org/)

メキシコ最南端の町タパチュラは、海抜162m、同じ高温多湿の熱帯雨林地帯にあっても1500mを越えるグアダラハラや2000mを越える首都メキシコシテイの高原乾燥地域とは異なり湿気は充分、お肌に最適、その上熱帯果実が豊富で安いという利点はありますが、生活水準はメキシコ1低いという噂そのもの。30歳前後の独身女性が生活する場合、メキシコシテイでは最低8万円、メキシコシテイに次ぐ大都市グアダラハラで7万円必要と聞いていました。

ところがタパチュラでの同年代の平均月給は2万円。因みに公立小学校の40歳半ばの先生は週35時間働いても月給3万5千円にしかなりません。グアダラハラもタパチュラもバスは一回35円です。食料品も当地で取れる果実・野菜はともかくとして日用品雑貨などは他都市と大差ありません。経済格差は歴然としています。文化的格差も同様です。

主要都市からの交通の便は悪く、メキシコシテイからは飛行機で片道1時間半、往復3万円のチケット代など払える人は限られています。バスでと思えば片道18時間かけていくつもの山道をくねくねと登ったり下ったりしながらの気が遠くなるような旅になります。一流演奏家による音楽会や展覧会などの文化交流の催しもめったにありません。都市に住む日本人や日系人に石器時代と揶揄される所以ですが、都市化されていない分、時間はゆったりと流れ人情味あふれるお人好しの人々に囲まれた生活にはある種の快適ささえ感じます。

しかし車で東へ15分,そこはもう隣国のグアテマラ。国境が近く国際的といえば格好よく聞こえますが、不法入国者、麻薬や銃の密輸が多く、決しで安全で清潔、穏やかでのんびりした田舎町とも言えない地域です。

例えば、単に国内の移動であるのに、会議でメキシコシテイへ行くたびに空港では厳しいチェック。女性といえどもバックの中身まで丁寧に調べ、何かいちゃもんをつけるところはないかと探し回ります。プエブラから遊びに来た友人がお土産に持って帰ろうとした15cmほどのコーヒーの小枝まで没収です。近隣の町アカコヤグアへ車で出かければ2箇所の検問所を通ります。もちろん私は日本人とはっきり解る顔立ち。たいていの場合は車のスピードをおとし、ニコニコと微笑み“オラ~~!” で通過できますが、この地域を移動・旅行するにはパスポートやIDの持ち歩きが欠かせないことは言うまでもありません。

日比谷高校→拓大→早大大学院  ボランティア専業の私

都立日比谷高校在学中、海外特に途上国南米諸国をこの目で見に行くことを夢み、周囲の猛反対にもかかわらず1962年4月 拓殖大学に入学した私、南米諸国の教育特に日本語教育の現状を研究調査したいという要望に応えてくれた大学。

1964年6月 から約1年、 拓殖大学派遣南米調査親善旅行団としてブラジルを中心に、パラグアイ、アルゼンチンの青少年との親善、交歓、日系移住地の教育事情の調査に取り組み、その経験から途上国開発・南米諸国の政治経済状況を掘り下げ学ぶ必要ありと思い立った私は、1966年4月から2年間、早稲田大学大学院政治学研究科に進学、修士号を取得し、晴れて一応南米諸国の政治事情の研究者仲間になれました。

第一子誕生後、主婦兼ボランテイアとして子育ての傍ら南米からの留学生、研修生、旅行者に日本語や生活上の相談やお世話、ホームステイをひき受たり・・・夫曰く「専業主婦ならぬボランテイア専業。趣味は家事」の言い分もあたり!の毎日でした。

さらに夫の定年退職を待って2002年JICA日系社会シニアボランティアに挑戦、渡墨。日本語教師としてグアダラハラを経てようやく念願のタパチュラに着いた のは大学入学の42年後で した。

2年目のメキシコ ・・・ タパチュラ・・・

日本人の末裔・日系社会

1897年(明治30年)、当時の外務大臣榎本武揚の勧めにより移住者、いわゆる「榎本植民団」の青年35名がメキシコに一歩を印した海岸、プエルト・サン・ベニト港(現プエルト・マデ―ロ港)はこの町の西方25kmにあります。歴史上公式にメキシコに移住した最初の一般日本人である彼らは上陸後、この町を通り北方100km奥地のエスクィントラ入植地にコーヒー栽培を繰りひろげるはずでしたが、当初榎本がオランダ留学中に学んだ株式会社の仕組みを取り入れた移住地を創設するという計画は入植後わずか3年で解体してしまったのです。

榎本植民団


写真:筆者撮影

ここで榎本植民団と植民地崩壊後のチアパス州日本人と日系移住者の現況を少し紹介しましょう。

植民団は、

1.農学士の監督1名

2.自由渡航者。岩手県人2名、宮城県人3名愛知県人1名の計6名
榎本植民団が購入したエスクィントラ付近にある植民地の一部を自己資本金で購入、開発耕作し、利益は全額自分のものとなる。即ち独立した経営を目的とする移住者。

3.契約渡航者28名(愛知県人20名、兵庫県人8名)
日墨拓殖株式会社に雇われ毎月給料を得るある種の出稼ぎ移住者の35名から構成され 、16歳から48歳の20代中心の若者でした。彼らは、1897年1月29日、資金調達が進まない中、官有地払い下げの契約を取り交わして2か月後の同年3月24日、メキシコに向け横浜港を出港しました。 メキシコ到着当時雨季が始まったばかり。交通手段は徒歩と馬車。周囲を原始林に囲まれた入植地には電気も水道もない全くの原始生活。生活は厳しい上に資金は送られてこない。

このような過酷な状況に契約移民たちは給料の増額や待遇改善を訴えましたが聞き入れられず到着から二か月もたたないうちに10人が逃亡してしまいました。送金が途絶えた一年後にはさらに3人が消えて、1901年、ついに植民地は譲渡され榎本植民団は崩壊してしまったのです。

これは、彼らが熱帯原始農業に無経験あったこと、集団生活を維持する資金が不足していたこと、入植時期を誤ったこと、下検分が不十分、しかも「契約移民」の質に少なからず問題があったので当然の結果といえるでしょう。

植民地解体崩壊後の日系社会移住者達

大きな期待と希望をもとに生まれた榎本植民地は1900年の半ばで解体し、誤算に加え困窮と不平で土地を逃げ出した多くの契約移住者はメキシコ各地に消え去り、残った3名の契約移住者と農学校や中学を出たばかりの6名の自由移民は自らの道を求めることになりました。

宮城県の農学校の同級生であった自由渡航者移民の照井亮次郎と高橋熊太郎、太田連二(植民協会が派遣する医者が来るまでにわか医者として当時はやっていた黄熱病患者の治癒看病に専念した)らはチアパス州に残り組合を、次には会社にと事業を拡大、細々と生活をしながら青春をかけて植民地再建に尽力しました。

タパチュラでJICAシニアボランテイア活動を開始した直後、アカコヤグア村に派遣されているJICA青年ボランテイアを尋ね、村を見て回った時のことです。

エスクィントラ辺りを走っていると同行した40代の2世青年が突如 ”ワセダ・ワセダ・ワセダァ~”と歌いだしたのです。??の私。なんでもこのあたりの日本人一世は集まると必ずこの歌を誰ともなく歌いだすのだそうです。

青年ボランテイアのホームステイ先のお宅の3世の奥さんは、「奥様」とお呼びしないといけないほど丁寧な教科書で使われているような美しい日本語を流暢に話します。

聞くところによると植民地崩壊後、教育の重要性を感じた契約移民の照井亮次郎は「アウロラ小学校」を建設。子供達は5歳になると両親の元を離れ寄宿生活を、さらに日本から教師を呼び寄せるだけでなく教科書も日本の教育指導要領に倣い寺子屋式教育が行われたそうです。外で働く父親に対し、メキシコ人の母親と生活を送るとスペイン語だけしかわからなくなるのを避けるためだそうです。

また、照井は同郷の同志社大学に籍を置く村井二郎を呼び寄せ西和辞典の編纂を依頼。編纂はメキシコ革命で中断しましたがローマ字方式の辞典が完成したのは編纂に着手してから11年後の1925年でした。(1925年10月20日発行 日墨協会社編纂のこの西和辞典は現在東京外国語大学に所蔵されています)

比較的富裕層の属するテニスクラブで一度だけプレイ したことのある女性は、テニス仲間が開いてくれた帰国直前の送別会に参加し、”おじいさんは日本人、名前は「小向」(こむかい)”と。帰国後、「小向」の名前をしらべると「ワセダ~」の謎が解けました。照井に発電所設置のために呼ばれ入植した「小向鉄太郎」は早大理工学出身。さらにタパチュラで唯一エスカレーターのあるホテルとして有名になっていたホテルの経営者「小向」とテニス仲間の日系女性「小向」が繋がりました。

後年、無教会キリスト教徒の布施常松、植物学者の松田英二等々が入植してきたことからもわかるように当時としてはかなり教育レベルの高い日本人が呼び寄せられ入植していったため、植民地解体後の移住者社会の充実は入植者各自の努力によるところが大きい、努力の成果と深く感じました。

榎本の理想とする、「海外からの送金を目的とする出稼ぎ移民ではなく、移住地を耕しそこで日本民族の子孫を育て日本人の海外発展の拠点ための移住計画」はメキシコ南端のチアパス地方で見事に着々と進んでいる気がします。

タパチューラ近郊に住む日系人1500人

歴史はさておいて、人口28万人を抱えるここメキシコ最南端の町タパチュラ及び近郊には約1500人とも言われる日系人(80歳になろうとする2世から生まれたての5世まで、生徒の中に29歳の自称5世いうチャーミングな独身女性がいますのでひょっとしたらどこかにカクレ6世がいるのかも知れません)が、50歳前後になる3世を中心にそれぞれの分野にわたって生活をしています。

彼らは日系人とは名ばかり。日本人の血がほんの少し流れ、名前にこれまたほんの少し「日本」を残しているだけ。顔や姿はもとより考え方まですっかりメキシコ人そのもので、町で出会っても「えエ~! 日系人~?」と何度も聞きなおしてしまうほどです。もちろん日本語でコミュニケーションを図れる日系人に出会うこともありません。日本についての正しい知識もほとんど皆無です。植民団の青年のほとんどが現地メキシコ人女性と結婚したため、家庭生活や子弟の教育にも「日本」は持ち込まれませんでした。日本的なものや日本語が残らなかったのは当然でしょう。78歳になる2世婦人によると「お父さんは疲れ果てて家にはただ眠るだけに帰ってきた。ふるさとや家族の事などゆっくり話す機会はなかった」からです。ただ疲れはて眠るためだけに帰宅する父親は、ふるさとはおろかその生い立ちを語る時間さえもなかったのです。現在までもこの地域には日系・日本企業がないばかりか観光で訪れる日本人もほとんどいないという状況で、新しい日本文化をもちこみ伝え残していってくれる物や人がいないという状態が続いています。(続く)