連載エッセイ210:富田眞三「ボランテイア活動を通してみた榎本植民団の末裔」下 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ210:富田眞三「ボランテイア活動を通してみた榎本植民団の末裔」下


連載エッセイ207

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>ボランテイア活動を通してみた榎本植民団の末裔(下)(2005年春)
タパチュラ(メキシコ)の日系社会

執筆者:富田 眞三(在テキサスブロガー)

執筆者:白戸 東子(しらとはるこ)(元JICA日系社会シニアボランテイア)


写真:https://www.laidbacktrip.com/

【蛇足的まえがき】
白戸さんの「ボランティア活動を通してみる榎本殖民団の末裔」は最終回を迎えました。白戸さんは「自分の孫や曾孫がメキシコの田舎町タパチュラを旅したとき、まったくメキシコ人の顔をした人たちが、浴衣を着て盆踊りをしていたらナァーンて考えながら」、タパチュラで日系人に日本語と「日本」を伝える仕事をしてきた方です。

メキシコ南部のタパチュラ市は125年前、榎本武揚が送出した、エノモト殖民団の子孫が多数定着している地域です。タパチュラのあるチアパス州は、観光事業が盛んな州で、世界遺産のマヤ文明の遺跡パレンケ、自然遺産のグリハルバ川の大渓谷、そして何でもない田舎の街並みが外国観光客から「おとぎの国」みたいと絶賛されています。メキシコへいらしたらぜひチャパス州を訪ねて欲しいものです。皆さん、ながい間付き合ってくださって、Muchas gracias ! ありがとう。(テキサス無宿記)

②「タパチュラ日系文化クラブ」と日墨文化交流

「タパチュラ日系文化クラブ」の歴史はまだはじまったばかり。

2003年2月、この地の日系人社会にこのまま争いだけが残り日本文化が消えてなくなってしまう事を憂慮したエノモト協会創設有志の息子で40歳そこそこの日系2世と彼の親族によって創設されました。私はまさに発足4ヵ月後にクラブの支援活動に入ったことになります。開設当初の正会員は数家族、会員数は30名ほど、日系会員も両手で数えるほど。6年生の時日本で半年過ごした経験を持ち、日本文化や日本語を教えたいというこの会長の日本語も怪しい限りで先が心配でしたが、1年後には40数家族、青年会員は100名を越え、会員中約30%を日系人が占めるようになりました。

日本語と「日本」を伝えることに専念

日本文化、アイデンティティーに目覚めた日系中心に、漫画やITに興味を覚えた中華系、グアテマラ系などを含み雑多な人々が集まって来るこのクラブで私は週2日、火曜日と金曜日、朝9時から夜の9時までもうばっちり週二日の20時間、本業の日本語教育ばかりでなく日本文化定番の生け花から、日本料理、書道、盆踊り、浴衣・帯・ハッピ作りなどの和裁や子供の歌、遊び、ゲーム、習慣、歴史、逸話、礼儀作法などと、盛りだくさんの「日本」を伝える事に専念しました。

具体的には、火・金の午前中の2時間を、日本語教師をするという会長とメキシコ人学生に教え方の指導。その後夕方まで、クラブ内の有志・ボランテイアの若者達と一緒に料理クラスのための買出し、試作、試食、応用・再利用の仕方などや生地屋のはしごなど和裁・浴衣クラスの準備にあてました。数えてみるとこの一年間に50種類を超える日本料理ならぬおかずの作り方をスペイン語レシピ付きで教えたことになります。冷凍の鮭を売っている店を発見し照り焼きや生で食べさせてみたり塩鮭の作り方を教え、ついでに「おにぎり」を教える。

アメリカから輸入されているパック入りの豆腐を見つけたときは「豆腐とは何か」から「冷奴」、「味噌汁」、「白和え」、「マーボー豆腐」等をスペイン語になおして教え、会議があるたびにメキシコシテイで買い込んだ「大根」「ごぼう」といった野菜から食材を買い込みクラスで紹介するなど、結構料理クラスは人気があり生徒がいつも教室からあふれていました。クラスの中心はやっぱり日系です。日本に出稼ぎに行っていたという日系の数家族が日本では覚えなかった日本語や一般的家庭料理・毎日のおかずを習いに来ます「納豆」「わかめ」「ひじき」「油揚げ」「こんにゃく」「みりん」などのうち、人気メニューは濃い目の大蒜しょうゆに漬け込んだ鶏肉にコーンスターチをちょっとまぶして油であげる竜田揚げ、サッと茹でた海老と錦糸玉子をたくさん入れた散らしずし、親子丼、沢煮椀でした。また炭坑節、ソーラン節、東京音頭、ドラえもん音頭などの盆踊りや習字を各クラスのリーダー核の青年会員に指導すること、これが午前中から夕方までの活動の中心でした。

空手、合気道、アニメに禅クラス

クラブにはこれ等のクラスのほかに空手、合気道、アニメデッサン、禅クラスなどがあります。ここでもエノモト協会での活動と同様「けじめ」「時間厳守」「集団行動」や「思いやり」、「日本人のものの考え方」や「礼儀作法」を理解してもらうことを目的として活動していました。決して押し付けではなく、伝えたものの中から、メキシコ風にするのが良いのか 日本風にするのが良いのか、どうアレンジしたらいいのか自分たちで判断し日々の行動に活かしてもらえるように、お互いがよりよく理解しあえるようにです。 

また、このクラブは日本文化をメキシコ社会に紹介、文化交流する事を目的の一つとしています。この意味からも学んだものを地域社会に紹介するために発表会を兼ねて赴任中の1年で3回のイベント ― 日本文化紹介の夕べ ―を行ない、私はこういったイベントの日本的なやり方やアイデアを出すなど、指導・手伝いをしました。

舞台では盆踊り、子供達による「結んで開いて」や「かえるの合唱」などの歌と遊戯、日本語で丸暗記したグレイやラルカンシエルの歌。着物や浴衣、空手合気道や棒術を解説を交えながら紹介。一方 ホールでは生徒の書道やアニメ作品、折り紙、牛乳パックを利用してつくった小箱、人参やきゅうり、パイナップルなどから作ったいわゆる「むきもの」付け合せ作品のほかに、カレンダーからとった日本の風景、生け花作品の写真などを展示。傍らでは自分達で縫ったクラブのユニホーム・ハッピを着た会員が作品の説明と管理をします。

 この3回の『夕べ』のうち、乾季にあたる時期2004年2月に行ったイベントは、「超」の字をつけたいほどの盛大なもの。ちらし配りから展示物の整理・搬入・飾り付け・説明・搬出・後片付けまで、彼らの活躍は市立劇場に600名を超える観客を集める結果となり、クラブ員は大満足していました。何度もこういったイベントをしたいという希望も、そしてやればできるという自信もつけてくれたようです。

イベント開催時には当然日系の、大学教授や私立幼稚園経営者などから協力がありますが、クラブでの日々の活動は会長を初めとする日系の若者たちが中心です。習った折り紙や料理をクラスでそれこそ無給で会員におしえ、近郊の村々で活動中の青年協力隊隊員が日本文化紹介を行なうときには手伝いに行き、空手を演じ、おそらく2度と経験する事はないだろうからと現地村民に浴衣を着せ記念写真を撮ったり、筆を使って名前を書くのを手伝い、日本文化を現地社会に紹介することも積極的に行なうようになってきています。彼らの努力で、1年後にはスーパーでうるち米、寿司酢、のり、豆腐、しょうゆといった食材も常時手に入るようになっていました。

ところで JICAの「世界の笑顔のために」のプログラムで辞書や漫画、カレンダーや花器などの寄贈品が送られてきたことがあります。到着後荷物を開け寄贈品とリストをチェックし終わった会長は再び品物を丁寧にしまい始めました。何故?と聞く私に、会長曰く「箱を開けるときのあの胸の高鳴りや品物を見た時の感動や感激を、午後から集まってくる会員達にも味わってもらいたいから」との答えです。非常に心の温かい思いやりのある指導者・会長とは思いませんか。

因みに会長の本業は、市内ではよく知られている文房具店「ネグリータ」の経営者で、ある程度の資金を自由に、しかも決してわが身の為でなくみんなの為に使う事が可能な立場にいる点が、自腹を切りたくない他の派のリーダー達とは異なっているところです。

あかるい兆し……日系社会のこれから

 今でも年数回のクラブの青年達による「文化の夕べ」開催は定着し続けられています。去る2月には国際交流基金から折り紙の講師を派遣してもらって特別クラスを実施、そのすぐ数日後には地元ろう学校クラスで折りかたをおしえながら一緒に折り紙を楽しみ、4月には大学で料理と折り紙を紹介するイベントを行ったそうです。受けた喜びを参加したくてもできない人に還元する、感謝の気持を他の人たちと共有する、おすそ分けをするという活動を、日本の支援に対する感謝の心を現わすものとして行っているようです。

この町の醜聞にあふれた日系社会の人々は、長い間他都市の人々との交流が制限され、“大海”を知らなかった、知る機会がなかったのです。活動をはじめて8ヵ月すぎた頃から、無断欠席・遅刻常習だった役員も事前に連絡してくるようになりました。クラスに生徒が自分ひとりとわかると習いたての日本語を使って日本料理の作り方や折り紙の指導を希望する当時の会長夫人(非日系)、昼食もそこそこにやってきて、他の生徒の授業が始まるまで会話の練習相手をして欲しいという現在の女性会長。彼女たちの意識は少しずつ変わってきています。

 結束の硬かった協会派一族の中にも、自分の興味追求のためにはクラブに入会さえしています。元会長も自分の子息にはクラブの子供クラスに参加させるようになりました。組織の中の一員として率先して活動する日系クラブ会員も増える一方です。また、協会派を始めとする日系子弟4世の若者達は学業も優秀、希望進路も多岐に渡っています。将来が楽しみな若者たちです。

パソコンが普及するにつれ、「日本文化」を検索し、広い世の中を知る機会も増えました。カレンダーを大量に送ってくれたNGO活動をしている北海道の高校生たちともメールの交換をし始めたところです。この6月にはクラブ会長がほんの数か月でしたが日本で通ったことのある小学校の同級生も判明し、彼らの支援のもとに文化交流が始まろうとしています。日本やメキシコの青年達との接点がやっと出来たところです。しかし、前述したように、日本人観光客もほとんど来ないこの町で、多数の日系人と日本好きなメキシコ人には「生の日本」に触れる機会がほとんどありません。セントロでは日本人を探して若者がウロウロ。私もいつもキョロキョロ。日本人旅行者を見つけるとウムを言わさずクラブにひっぱって来て会話の練習をしたり日本の事をたずねたり。お礼に文化会館や遺跡、記念碑などを案内し、トラブルがあればその解決に走り回っています。これ等の青年が社会の中堅になる少なくても20年どころかもっと早まって10年後にはこの町の日系社会は変わっていると思います。いいえ、変わっているはずです。私には、敵対しながらも日系人として一緒に行動する日が近づいているようにみえます。そのころには一世を風靡した(?)醜聞も笑い話になっていると期待しましょう。

そこで メキシコ大好きの皆さんにお願いがあります


写真:(kimoparah.com)

メキシコにお出かけの折には、カンクンやロスカボスといった観光地だけでなく、チャパス州にもぜひ足を運んで下さい。メキシコに行くという知り合いがいたら、ぜひ榎本植民団の歴史やその子孫の話をして下さい。僻地にあるこういった日系社会にとってたとえ短時間でも足を運ぶ、顔を見せるという事が、勇気100倍、奮起100倍につながるのです。ホンの10分の訪問で彼らは夢と希望をもって今後の活動に励む事ができると同時に日本や日本人ばかりでなくもっと広い人間関係や考え方などを学び、それを地元社会に還元しているのです。

 タパチュラ到着後の数ヶ月は日系人間のトラブルや理不尽さ、目先の問題に気を取られて「絶望的!!」を連発していた私も半年も立つとご当地の考え方に慣れ、「ケ・セラ・セラ~」です。彼らの将来も「ケ・セラ・セラ」で済ますのがボランテイアかもしれません。でも今後は活動をとおして彼らからもらったたくさんの「有難う」の言葉や喜び、エネルギーにこたえるためアフターケアーをしていくつもりです。

日本や日系の企業を誘致し、工場を開設、職場を増やし、日本語学習のモチベーシォンを高める、と同時に彼らの現金収入をふやし、交通費の心配をせずに奨学金試験の面接に上京する事が出来るようになる、なぁ~んて、虫のいい話でしょうか。

ひょっとして私たちの孫やひ孫がメキシコの田舎町タパチュラを旅した時、全くメキシコ人の顔をした人達が、自分で作った手打ちうどんを食べ浴衣を着て盆踊りをしていたらナァ~ンて考えるとワクワク、ドキドキしてきませんか。(終わり)

(注)最初と最後を除くすべての写真は白戸さんの撮影によるものです。