連載エッセイ216:ブラジル日報「ペレの生涯」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ216:ブラジル日報「ペレの生涯」


連載エッセイ209

「サッカーの王様」ペレの生涯

執筆者:ブラジル日報WEB版

この記事は、「ブラジル日報」の1月3日から7日まで5回にわたって連載された上記タイトルの記事を同社の許可を得て転載させていただいたものです。ご承知の通り、「サッカーの王様」と言われたペレは、2022年12月29日に82歳で逝去されました。2023年1月初めに世界中のサッカーフアンに惜しまれながら葬儀が行われました。

第1回「ペレ」になったエジソン少年=父の果たせなかった夢に精進

少年時代のペレ
 12月29日に82歳で逝去した「サッカーの王様」ペレの生涯の軌跡を5回連載で追う。第1回目はペレがブラジルを代表するサッカー選手になる前の少年時代に迫る。

 ペレは1940年10月、ミナス・ジェライス州のトレス・コラソンエスで一家の長男(後に弟も誕生)として生まれた。本名はエジソン・アランテス・ド・ナシメント。誕生日は10月23日とされていたが、出生届によると本当の誕生日は10月21日で、名前はこれまでの「Edson」ではなく、「Edison」であることが明らかになった。
 エジソン少年の父は「ドンジーニョ」という名前のサッカー選手だった。ヘディングが得意なセンター・フォワードで、当時のブラジル代表(セレソン)のエースと比べられ、「南ミナス・ジェライスのレオニダス」との異名も取っていた。ドンジーニョはアトレチコ・ミネイロと契約するなど将来を嘱望されていたが、エジソン少年が生まれる約半年前の練習試合で膝を負傷。これが致命傷となり、選手としては出世できなかった。

 1944年、エジソンの一家はサンパウロ州の内陸部のバウルーに転居する。父は同市のクラブでサッカーを続け、エジソン少年はサッカーに興味を抱く。彼は当初、守備の選手に興味を抱き、最初に好きになったのは父のクラブのゴールキーパーだった「ビレ」。その名前を連呼したことでエジソンは「ビレ」と呼ばれはじめ、やがて「ペレ」となった。

 1950年、ブラジルが自国開催のW杯でウルグアイに敗れた、「マラカナンの悲劇」と呼ばれる試合をラジオで聞いていた父が泣いている姿を見て、10歳だったペレは父のためにブラジルをW杯で優勝させたいと願うようになる。そのことは彼が後に父にあてた手紙でも明らかになっている。

 父が所属するクラブで頭角を現したペレは15歳だった1956年8月にサントスに加入。9月7日のコリンチャンス戦でプロ初得点を決めたのを皮切りに、サントスのサンパウロ州選手権制覇に貢献。57年には早くもセレソンに召集され、7月7日のアルゼンチン戦で代表初得点を記録する。
 翌1958年、サンパウロ州選手権、ブラジル杯、リオ・サンパウロ杯などで全58得点をあげる驚異的な成長を見せたペレは、その勢いの中で6月、スウェーデンでのW杯を迎えた。

第2回=衝撃の58年W杯優勝=「新しいブラジル」の象徴に

58年W杯でのペレ
 第2回は、彼が全世界にセンセーションを巻き起こした1958年のW杯と当時のブラジルを回想する。

 58年のスウェーデン大会でのペレはまだ17歳7カ月だった。現在のフランス代表のエース、キリアン・エムバペが2018年のW杯で一世を風靡した時の年齢が19歳6カ月だったことを考えても驚異的な若さだ。

 ペレはこの大会に背番号10、トップ下のレギュラーで参加し、グループ・リーグ3戦目のソ連戦から出場。その時は0ゴール、0アシストで終わったが、準々決勝のウェールズ戦でその本領を発揮し始めた。後半21分、ペナルティエリア内でゴールを背にしたまま、胸で受けたこぼれ玉を、クルッと反転していきなりシュート。これがゴール左隅に決まり、W杯初得点となった。

 続く準決勝フランス戦では、華々しくハットトリック(3得点)を決める快挙を達成。特に、3点目となった試合終了間際のゴールは、ゴール前でのディフェンダーとの1対1の対決を、ボールを浮かせてかわした高度なものだった。

 決勝のスウェーデン戦でもペレは2点を決めた。特に、チームにとって3点目、自身の1点目となった後半10分のゴールは、相手ディフェンダー2人の頭越しにボールを浮かして決めたもので、W杯史上でも伝説として語られ続けている。この活躍でブラジル代表はW杯で初優勝を飾った。ペレはテレビが世界的に普及し始めた時代の最初のサッカー界のスーパースターの1人となった。当時のサッカー界では1956年に欧州チャンピオンズ・リーグが始まるなど、欧州に本格的なサッカーブームが訪れていた。

 また、1958年という年は伯国としても大きな意味があった。ジョアン・ジルベルトが最初のボサノバ楽曲と定義される「シェーガ・デ・サウダージ」を発表したのがその年だし、ジュセリーノ・クビチェック大統領(当時)が1960年のブラジリアへの遷都作業を進め、伝説の建築家オスカー・ニーマイヤーによるプラナルト宮などの未来的な建築が発表され始めていた頃でもある。ブラジル映画の文化運動「シネマ・ノーヴォ」が始まったのもその年とされている。ペレの登場はそれらに並ぶ「新しいブラジル」の象徴でもあった。

第3回=数々の伝説を生んだ60年代=グラウンドの中でも外でも

1965年のペレのオーバーヘッドキック
 連載第3回目はペレが1958年のW杯優勝以降、20代だった1960年代にかけてで、グラウンド内外で次々に生まれた様々な「伝説」を紹介する。

 W杯でブラジル代表(セレソン)が初優勝した1958年以降もペレの伝説は続いた。1959年には、当時は大会としての扱いが小さかったコパ・アメリカに1度限りの出場。セレソンは優勝を逃したが、ペレは8得点を挙げ、得点王に輝いた。

 同年8月2日にはサンパウロ市ルア・ジャヴァリ・スタジアムのサントス対ジュヴェントス戦で、ディフェンダー4人を前にしてボールを上に高く上げ、ヘディングシュートを決めた。これは撮影記録がないが、今日まで「ペレの生涯ベスト・ゴール」と呼ばれている。

 サッカー人生のほとんどをサントスで過ごしたペレだが、1961年、ジャニオ・クアドロス大統領(当時)は「ペレは国の宝」とし、国外移籍させない大統領令を出した。

 1962年のW杯初戦のメキシコ戦では、長距離をドリブルで一人で抜き去り、豪快なシュートを決めた。だが、この試合で事前に痛めていたひざ痛が悪化。この試合以降、ペレは全試合欠場となったが、セレソンは2連覇を果たした。

 同年10月、サントスは初の世界一となった。世界制覇を決めたベンフィカ(ポルトガル)との第2試合で、ペレは守備陣を快速ドリブルで次々と抜き去り、シュート。これをはじいたキーパーのこぼれ玉を決めたが、これもしばしば、ペレのベスト・ゴールに挙げられる。サントスは63年も世界一となり、2連覇を達成した。

 1964年はサントス対ボタフォゴ・サンパウロ戦で8得点、65年はサントス対アペア戦で5得点を記録。65年6月2日に行われたセレソンでのベルギーとの親善試合で決めたオーバーヘッドキックも、写真報道で有名になっている。
 1966年7月のイギリスでのW杯はペレもセレソンも精彩を欠き、グループ予選で敗退したが、当時一世を風靡し、日本武道館での公演を終えた直後のビートルズが、この大会でペレに会おうと接触を試みていたことが、ペレによる手記で明らかになっている。

 1969年、サントスはナイジェリアで親善試合を行ったが、試合の時は同国での内戦が一時停戦。これにより、「ペレが戦争を止めさせた」との伝説も生まれた。

第4回 キャリア頂点の70年W杯=晩年は日米にサッカー普及

連載第4回目は、ペレのキャリアの頂点となった1970年のW杯から、1977年の現役引退までを扱う。

 1970年、29歳で迎えたW杯メキシコ大会はペレのキャリアの頂点となった。1958、62年はガリンシャ、ジジ、ザガロ、ジャウマ・サントスなどが参加するブラジル代表(セレソン)でも若手だったペレも、この大会ではトスタン、ジャイルジーニョ、リベリーノ、カルロス・アルベルトなど、当時の若手を牽引する選手となっていた。

 この大会でのペレは序盤から快調だった。グループリーグのルーマニア戦では、フリーキックから相手の壁を突き破る豪快なロングシュート、チェコ・スロバキア戦では、胸トラップを足元に落としたところからの鮮やかなミドルシュートを決めた。イングランド戦では名キーパー、ゴードン・バンクスにW杯史上に残る難易度の高いセーブを決められたものの、その際のペレのゴール左下隅へのヘディングシュートにも注目が集まった。

 決勝のイタリア戦では前半18分、リベリーノからの高く上がったクロスを、ペレが驚異的な高さでのヘディングシュートで先制。後半41分には、ペレの意表をついたパスを、走り込んできたカルロス・アルベルトが豪快に決めてだめ押しゴール。この、サッカー史で語られる2得点などで、4―1で圧勝。この大会、セレソンは6試合で19得点と大爆発。攻撃の起点となったペレは最優秀選手に選ばれた。

 ペレは1971年7月限りでセレソンを実質引退。1972年にはサントスで訪日興行試合。73年12月にはマラカナン・スタジアムでガリンシャの引退試合も兼ねた対世界選抜チーム戦で1回限りのセレソン復帰など、親善的な試合が増えていった。

 1974年10月2日、ペレは本拠地ヴィラ・ベルミロでのサントス対ポンテ・プレッタ戦で、足掛け19年のブラジルでの現役生活に終止符を打った。

 翌1975年は米国に渡り、当時発足して7年の北米サッカー・リーグにニューヨーク・コスモスの一員として参加。サッカー人気不毛と呼ばれた米国でのサッカーの底上げに尽力し、一時的ながら同国でのサッカー・ブームに貢献した。

 また、76、77年にはコスモスの一員として2回訪日。77年9月14日の国立競技場での日本代表戦はJリーグ発足の16年前ながら、6万5千人の大入りを記録した。同年10月1日、ペレはニューヨーク・ジャイアンツ・スタジアムでの試合で引退。対戦相手はサントスだった。

第5回 現役引退後のペレ=政界入りからスキャンダルまで

連載最終回は、華々しかったサッカー選手としての現役生活を終えた後の「その後のペレ」に迫る。引退後のペレは指導者の道には進まず、「サッカーの王様」としてのイメージを生かした活動が目立った。1981年はハリウッド映画「勝利への脱出」に出演する。この映画は「ロッキー」でおなじみのシルベスター・スタローンの主演作で、第2次世界大戦の際のドイツの連合軍捕虜とドイツ代表によるサッカーの試合を描いたもの。ペレは連合軍兵士役とサッカーのコーディネーター役を務め、劇中で華麗なオーバーヘッドキックを披露している。これを皮切りに、80年代はハリウッドやブラジルの映画に積極的に出演。役柄はサッカー絡みがほとんどだった。

 また、この時代はペレの私生活も注目された。ペレは1978年に最初の妻ロゼメリさんと離婚し、以来18年間独身だったが、80年代初頭、当時まだ17歳だった白人モデルで、後に国際的な子供番組の司会者となるシューシャとの恋愛が大きな芸能ゴシップとなった。シューシャとの別離後は2人のミスブラジルと交際後、1996年にゴスペル歌手のアシリア・レモス・セイシャスさん(2008年離婚)、2016年に日系人のマルシア・アオキさんと結婚。マルシアさんが最期を看取った。

 ペレは政界入りにも興味を示し、1995年~98年5月はカルドーゾ政権でスポーツ相を務めた。1974年のW杯招集を拒否した理由には「軍政との仲が険悪だった」ことをあげており、大統領の直接選挙を求める1983年の「ジレッタス・ジャー」運動にも参加。89年の大統領選復活に際しては、94年の大統領選出馬の意向も話していたが、実現はしていない。

 2000年代は私生活で波乱が続き、02年には自身2度目の婚外子の存在が明らかになり、05年にはサントスのゴールキーパーだった長男エジーニョが麻薬取引で逮捕。06年には最初の婚外子だったサンドラさんが癌のため、42歳の若さで世を去った。

 2010年代は体調不良が続き、2012年に大腿骨、14年に腎臓結石、15年に背中の手術を行い、21年には死因となった結腸癌も発覚していた。

 ペレは22年のW杯を見届けて逝った。このW杯ではサントスの後輩ネイマールがペレの持っていたブラジル代表記録の77得点に並んだが、1位タイのまま世を去った。(完)