連載エッセイ218:牧内博幸「ドミニカ共和国での算数教育」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ218:牧内博幸「ドミニカ共和国での算数教育」


連載エッセイ215

「常夏のカリブの島に数学体験館をオープン!」

執筆者:牧内博幸 東京理科大学 国際化推進センター長 (前在ドミニカ共和国大使)

<数学でアジアのように発展できる!?>

私は2021年11月に41年間勤めた外務省を退官した。その間31年の間、スペインと中南米のスペイン語諸国で仕事をしてきた。スペイン語諸国は治安が厳しい国が多いがアフリカよりは生活水準が高く、美味しい食事、明るい音楽や踊りもあって楽しく過ごせた。そんなスペイン語諸国からアジアを眺めていると、その目覚ましい経済発展が羨ましく思え、何とかアジア諸国のように経済を発展出来ないかとずっと考えてきた。2014年に総領事としてスペインのバルセロナに赴任した頃から、数年先の外務省からの退官が見えてきた。30年以上もスペイン語諸国でお世話になったのだから、何かお返しが出来ないかと考え始めた。

そんなある日、2015年9月、総領事館に日本人数学者である秋山仁氏がカタルーニャ工科大学で記念講演を行うので来て欲しいとの招待状が届いた。秋山仁先生はテレビの数学番組を通じて良く知っていたし、工業高校で数学をよく勉強していたので、喜んで講演を聞きに行った。秋山先生は、色も形も匂いもない無色透明の数学の公理・理論を、五感で体感できる教具を使って楽しく説明した。聴衆が拍手と笑顔で秋山先生に応えた。私も拍手をしながら、もしかしたらこの教え方は、味も素気もない数学を嫌うラテン人には受けるかもしれない、と思った。講演の後、先生のご希望に合わせて総領事公邸で天ぷら蕎麦を御馳走した。たいそう喜んでくれて数学談議に花が咲き、別れ際にバルセロナにある数学博物館を見に行くよう勧められた。早速翌日、コルネジャ地区にある数学博物館を見に行った。その翌年に訪問した神楽坂の東京理科大学の数学体験館と同じような教具が、沢山並んでいた。親子ずれや学校の先生に付き添われた児童・生徒などが、教具を触って首を傾げながらも、楽しそうに定理や理論を学んでいた。その後何回か通うようになって、この方法はラテン人にはピッタリの教授法だと、確信するようになった。

また、博物館の数学教師やインストラクターと一緒に活動資金を集めたり、バルセロナ市の中心に数学博物館を開く活動をするようになると、理系の人は一般的にはこうなのだろうか、自らの研究や教育活動に熱心なのはいいが、その活動を広く社会に広めようという気概に乏しいことを感じた。誰かが純粋な数学教育・研究と社会を繋ぐ役割を担わなければいけないと、深く感じた。そんなことを考えて数学体験館の仲間と活動をしていると、外務本省からバルセロナ総領事は終わりなので、次はドミニカの大使として赴任するようにとの辞令がでた。

筆者と秋山仁先生(2015年9月 カタルーニャ工科大学にて)

<スペイン語圏とドミニカ共和国の数学事情>

大使としてドミニカ共和国(ドミ(共))に向けて出発する前に約3ケ月あったので、スペイン語圏やドミ(共)の数学事情等について色々調べてみた。2009年に発足したオバマ政権は科学技術大国としての地位を維持するために、特にSTEM教育(S:科学、T:技術、E:工学(ものづくり)、M:数学)を重視し、STEM人材の育成に力を入れ始めた(注:右に加え芸術、創造性、(道徳・倫理感を育む)リベラルアーツのArtのA、ロボット技術のRを加えたSTREAM(流れ・連続)という考え方もある)。

このSTEM教育強化の鍵はMの数学教育であるが、各国のSTEM教育に取り組む本気度を知る方法として、各国の自然科学分野のノーベル賞受賞数の比較がある。スペイン語圏21ヶ国の人口は約5億人だが、2021年までに獲得したノーベル賞は合計25個、うち自然科学分野は7個だ。日本は合計29個で自然科学分野は25個、世界トップの米国は合計400個だが、自然科学分野では272個も獲得している。これは、スペイン語諸国では国家も国民も余り自然科学分野に関心がなかった、または実質的に自然科学分野の学問振興に努めなかった結果と思えてならない。事実スペイン語諸国には世界的に有名な文学者、音楽家、画家等はいるが、科学者は余り聞かない。また、大統領でも政治家でも理系出身の人物は少ない。

では中南米諸国とドミ(共)の教育・数学事情はどうか。ラテン・アメリカ(ラ米)教育機関(Reduca)は、ラ米の中等教育レベルでは約50%の生徒が落第等で途中で学習を止めており、全中学生の70%が数学の基礎を理解していないと警鐘を鳴らしている(2019年9月)。ドミ(共)については、教育支援企業基金(EDUCA)は、19歳から24歳の国民の42%が中等教育を終えておらず、修了していてもそのうち24%は高校に進学していない(2019年)と発表している。

ドミ(共)の数学レベルはどうか。2018年にOECDが対面で行った学習到達度調査(PISA)では、78ヶ国中最下位だった(スペイン語諸国ではスペインがトップで34位、チリが59位)。ドミ(共)は2015年から参加していて常に最下位だが、自らのレベルを確認し、将来の発展を目指しているこの姿勢は高く評価したい。

これらの背景には、中南米全体に共通することだが、貧困(仕事・家事労働の必要性)、近くに学校がない、(中南米では非常に大きな社会問題である)未成年者の出産・育児問題の他、学校嫌い、特に学習面での最大の問題とされている算数・数学が嫌い(理解出来ない)等がある。私の友人であったホセ・アルマンド高等工業高校(ITLA)校長は、「数学嫌いの学生が多いので、受験生が減らないように数学の入学試験を行わない大学、乃至は数学の採点基準を下げている大学が多い」と嘆いていた。また、大使館の日本人職員Kさんは、小学校の子供二人が高学年に差し掛かる前に全員で日本に帰ってしまった。理由を聞くと、ドミ(共)の公立学校の教育水準は全体的に非常に低いが、特に数学の教師のレベルが非常に低く、とてもこんな教師に子供の教育を任せられないと言っていた。授業では教科書をそのまま読んで終わる程度で、試験は、教師自身が説明する能力がないのか、採点済みの試験用紙を配って終わりで、何の説明もないと嘆いていた。

数学嫌いを含めた就学率低下の問題は、労働力の質的低下と相まって将来の雇用・就労問題に繋がる。近年スペイン語諸国で問題となっている「勉強も仕事もしない若者問題」(NiNi問題)が、薬物などの犯罪や貧困の拡大をより深刻化させることが危惧される。将来の知識産業への参画とその発展のためにも、今すぐにでも数学を含めた教育全般の振興に向けて手を打たなければいけない。

筆者とメディーナ・ドミニカ共和国大統領の懇談(2016年10月 大統領府)

<ドミニカ共和国での活動開始>

2016年9月に特命全権大使としてドミニカ共和国に赴任した。10月20日には当時のメディーナ大統領に天皇陛下から託された信任状を奉呈し、その際約15分間懇談した。大統領が化学を学んだ理系の人物であったこともあり、STEM教育やバルセロナでの数学体験館の数学普及活動などが話題になった。大統領は微笑みながら、国の発展のためには数学学習の強化が必要だと強調していた。大統領との会談から2カ月が経った12月、セデーニョ副大統領から呼び出され副大統領府を訪問した。大統領から話を聞いていたのか副大統領から、数学博物館を是非首都のサント・ドミンゴにオープンしたいので協力して欲しいとの依頼があった。こんなこともあろうと、丁度その直前に東京理科大学の秋山仁先生に相談した。秋山先生は2015年のPISAの数学の試験結果を見たとして、「牧内さん。ドミニカ共和国は70の参加国のうち残念ながら最下位だった。どうだろう。この順位を数年後に60位、50位と上げるために一緒に頑張らないか。」との感動的な回答を頂いた。私は、我が意を得たりと胸を躍らせてこの提案をどのように実現するか、バルセロナでの活動を思い浮かべながら考えていた。そんな時の副大統領からの依頼であった。副大統領には、「秋山先生が全面的に協力してくれるので数学博物館のオープン自体は難しくはない。最も重要なことは、数学の教具を説明するインストラクターを育成して、より多くの数学教師と児童・学生に楽しく数学を学ぶ方法を教えること。副大統領には是非そのイニシアチブをとってほしい。」と伝え、ここから中南米初となる数学博物館の開設作業が始まった。

翌2017年2月、ヘルマン高等教育大臣を訪問し、同大臣の指示を受けてサンチェス同省次官(後の厚生大臣)と共に数学博物館開設に向けて具体的活動を始めた。先ず、数学博物館のオープンと秋山先生の訪問を目指して、サント・ドミンゴの首都圏6大学の数学教授、JICA青年協力隊、およびドミニカ人JICA訪日数学研修経験者(現在は主に大学教員等)による二つの委員会、即ち、数学博物館の開設委員会と秋山先生の各大学等での講座実施委員会の設置作業に入った。また、将来の数学博物館のインストラクター候補として各大学の大学院生を集めて、秋山先生の最初の受講生になってもらう準備も始めた。これらの具体的な準備が始まった4月頃、東京の秋山先生から「東京理科大の数学体験館にある数学の教具のうち重要なもの80点を夏休みまでに制作するので、10月頃自分がドミ(共)を訪問してオープニングをしよう」との提案があった。

秋山先生はその前年大病を患い、大きな手術をしたにも拘らず夏休みを返上して80点を完成させて、東京のドミンゲス・ドミ(共)大使の協力を得て船便でサント・ドミンゴに送ってくれた。しかし、船便がカリブ海に入った頃の9月下旬、丁度「マリア」と「イルマ」という大きなハリケーンがドミ(共)付近を通過してカリブ海の船便に大幅な乱れが出たため、教具の到着も大幅に遅れ、秋山先生の到着も遅らせることになった。秋山先生は、お陰でスペイン語の勉強時間が十分取れて良かった、と喜んでいた。

秋山先生は、ドミ(共)での数学活動を三期計画で進めることを考えていた。初回は児童・学生・一般及びマスコミを対象として「楽しく学ぶ数学」の広報に力を入れる。第二期は、地方の数学教員に対してワークショップを行う。第三期は、数学国際オリンピックに参加する高校生への集中講座の実施だ。しかし第三期計画はコロナ禍で未だ実現していない。

2017年11月 数学博物館オープン

<秋山先生の初のドミニカ共和国訪問 第一期>

2017年11月29日、秋山先生の記念講演を皮切りにサント・ドミンゴ旧市街の通信博物館に東京理科大と同じ数学体験館がオープンした。この第一回目の訪問では、秋山先生自身の紹介と「楽しく学ぶ数学」の広報にも重点を置いて、テレビ出演や新聞インタビューを積極的に入れた他、サント・ドミンゴ市とサンティアゴ市の4大学で学生及び児童・生徒に対して講義やワークショップを行った。

特にペドロ・エンリケ・ウレーニャ(UNPHU)大学に集まった約700名の児童・生徒は、初めて学ぶメフィウスの輪に首を傾げたり、秋山数学マジックに驚いたり笑ったりの、賑やかなワークショップとなった。付き添いの先生や大学教授は、「手と体を使って楽しく考えながら学ぶ学習方法は非常に新鮮で効果的だ」と高く評価していた。最終日には中南米最古のサント・ドミンゴ自治大学で秋山先生への名誉教授称号伝達式典が行われ、グルジョン学長からも秋山先生の教授法を高く評価し、感謝しているとの挨拶があった。

2017年12月 ペドロ・エンリケ・ウレーニャ(UNPHU)大学でのワークショップ

<秋山先生の第二回目訪問 第二期>

翌2018年10月上旬、秋山先生に二回目の訪問をして頂いた。今回も新たに約20個の教具を持参してもらい、これで合計100個の教具が揃うことになった。今回は国内5都市において、合計約400名の数学教師に対して集中ワークショップを行った。対象の先生方は公理や理論は知っていても、それを目に見える形で具体的に触ったり動かして教える方法は全く初めてだったので、子供のように楽しそうに学び、「これからは子供たちに楽しく数学を教えることが出来る」と、秋山先生に感謝していた。数か月後、ベガ市のワークショップで学んだ教師から、後日秋山先生に倣って各教師が自ら製作した教具のコンテストが行われたとの嬉しい報告があった。秋山先生の期待通りの結果がこんなに早く出るとは思ってもいなかったので、本当に驚き、嬉しかった。

第三回目の訪問は、2020年中に東京での数学国際オリンピック(2023年)を念頭に、優秀な高校生を対象に集中講座を行う予定だったが、コロナ禍のために断念せざるをえなかった。また、秋山先生の二度の訪問により数学博物館の活動は徐々に軌道に乗りつつあったが、まだまだ理想には程遠く、更なる成果を出すためにはドミニカ人の心に直接響くような企画が必要だった。丁度その頃、日本の女性として初めて国際数学オリンピックで金メダルをとり、STEMガールズ親善大使(総理府)として活動していたジャズ・ピアニストの中島さち子さんがニューヨークに滞在していた。2019月6月中旬にサント・ドミンゴで中米カリブ数学オリンピックが開催されたので、その開会式で記念講演をしてもらい、その機会に音楽を通じた数学講座等もしてもらった。また、サント・ドミンゴの貧しい地区の中学校等にも行ってもらい、「バチャータやメレンゲの音楽を聴きながら楽しく数学を学ぼう」と題するワークショップ、講演、コンサート等をしてもらった。美しい和音やリズムを分数や音の周波数を通じて学ぶこの企画は大盛況だった。今後も、楽しい音楽を通じた数学の学習を更に進めて行くべきだと痛感した。

2018年10月 サント・ドミンゴの教師へのワークショップ

<アビナデル大統領によるリニューアルオープンと共和国銀行との協力合意>

メディーナ政権の終わり頃の2019年12月、数学博物館の活動をより活発にするために副大統領府に近い児童・青年図書館に移転したいとの希望があった。政府内で予算がなかなか捻出できず結局約一年がかりの移転になったが、非常に立派な博物館が出来上がった。2020年12月には新任のアビナデル大統領の出席を得てオープニング式典が行われ、秋山先生もビデオで挨拶された。その頃新政府の関係者と意見交換する中で「数学博物館」の名前は実態に馴染まないので、秋山先生の貢献を含めて「アキヤマ・ジン数学体験館」(Sala de la Experiencia Matematica Dr.Jin Akiyama)にすることになった。企業家である同大統領は、ドミ(共)の数学教育の遅れを痛感しており、産業発展のためには数学が最も重要との高い意識をもっていた。2020年10月に私が日本の大使として初めて面会して二国間の懸案などについて意見交換した際、「自分が数学体験館のオープニングを主催しよう」と、この数学振興活動に高い関心を示してくれた。

場所が変わり、また本格的な活動が求められていたので、新たにインストラクターを数名育成する必要性がでてきた。コロナ禍で秋山先生やその他院生などの訪問は難しかった。思案の末、スペイン語が出来る私が教えるのが一番簡単との結論に至り、丁度コロナ禍で在宅勤務が多く時間的余裕もあったので、秋山先生の書籍やビデオ教材で勉強して、約2ヶ月かけて数名のインストラクターを育成した。現在は、そのうち3名のインストラクターが来館者に教具の説明をしている。これまでの成果の一つとしては、全く思いもよらなかったが、特に自閉症の青少年が非常に高い関心をもってくれて、この分野での教育も進みそうだ。

また、これまでの体験館の活動が評価され、昨年5月にはドミニカ共和国銀行監査局が数学体験館の活動を拡充するために財政支援を行うという合意が結ばれた。今後は、教育省、国家教員養成院、そして国立教育大学等が協力して、楽しく学ぶ数学教授法を教えていくことになっている。また、本年9月にはドミ(共)の数学体験館、国立教育大学、理科大と協定を結んでいるPCUMM大学、そして国際数学オリンピック担当数学教師の合計10名が東京理科大学で秋山先生の指導の下で研修を受けることになっている。

2019年12月 アビナデル大統領によるリニューアル・オープニング式典

船乗りを目指していた青年時代の秋山先生

アメリカ滞在中の秋山青年(誕生日パーティー会場に向かう)

<キャプテン秋山、カリブの島に理数文化の贈り物>

最後に、秋山先生とドミニカ共和国、そしてコロンブスの紹介をしたい。秋山先生は若い頃、アメリカの大学に留学していた。毎年10月12日の誕生日になると「クリストファーとジンに乾杯!」と言って、友人達が誕生日を祝ってくれたそうだ。10月12日はコロンブスが新大陸を発見した日でもあったためだ。今でもこの日には、スペインや中南米各国でフェスティバル等が行われている。高校時代に、キャプテン・アキヤマとして船乗りになって世界を巡る夢を見ていた秋山青年は、この頃からコロンブスに何か不思議な縁を感じていた。一昨年2021年2月18日には、「ドミニカ共和国のルイス・アビナデル大統領は秋山仁教授のヨーロッパ、アジア及びドミニカ共和国での数学教育活動を称え、クリストファー・コロンブス騎士勲章の授与を決定した」(勲記)として、コロンブス騎士勲章の授与が決まった。これを受け6月24日には東京において、ロベルト・タカタ大使より勲章と勲記が授与された。コロンブスの新大陸発見から530年経った今日、コロンブスが眠るドミニカ共和国からコロンブス勲章が日本の数学者に贈られたことで、天国のコロンブスも安堵して微笑んでいるかもしれない。

皆さんご存じのように、530年前コロンブスは黄金の国ジパング(日本)を目指して航海に出て、10月12日に現在のサン・サルバドル島を発見した。12月6日にはドミニカ共和国のあるイスパニョーラ島を発見した。残念なことにそこは日本ではなく、また、黄金もなかった。しかし530年後の今日、キャプテン・アキヤマが、コロンブスが眠るドミニカ共和国に数学体験館をオープンして、黄金以上の贈り物をした。コロンブスのお陰でスペイン語が中南米に広まったように、ドミニカ共和国の数学体験館をスタートに、数学文化が中南米に広がることが私たちの願いだ。

以上


2021年6月 タカタ大使から勲章を受ける秋山先生