ペルー先住民出身のトレド前大統領は、しばしばその政治パフォーマンスや政策にインカのイメージを多用した。そのポーズは、インカの固定的イメージがすでにあることを感じさせる。また、インカ「帝国」と一般的に呼ばれているが、「帝国」とはそもそもどういう概念で、インカが「帝国」だったのかという検証はあまりなされていない。本書は、アンデス、イベリア半島史を専門とする考古学、スペイン植民地史、文化人類学の気鋭の研究者15 人による総合的なインカ「帝国」検証論集である。
まずインカを帝国とみなしたのがスペイン植民地の記録者クロニスタであり、その「帝国」なるイメージが古代ローマに端を発する概念であることを、歴史研究から迫るとともに、ペルーにおける考古学は文明の起源に関心が向けられ、アンデス文明の集大成であったインカに歴史的アイデンティティを求める動きはなかったことを指摘している。
続く実態研究は、これまでのインカ像に基づく研究に再考を促す論文が7編載っている。クロニスタによるインカの儀礼記録にみる王位継承概念が西欧のそれとは異なること、市場がスペイン人の持ち込んだ物資交換の場であるとする説より早くインカの時代からあったこと、インカ期の村落と国家の関係などを、歴史、文化人類学の立場から究明している。また、考古学調査からこれまでのインカのクスコ起源説の危うさを示唆し、景観考古学の手法による太陽神殿の場所決定の意図探求、地方での武力抗争の有無を確認することによるクロニカの記述を検証している。
第三部はインカのイメージの帰属と流用について、植民地時代での被征服者との関係の変遷、インカを描いた絵画にみる対先住民政治、メシア伝承にみられるアンデス住民のインカとの歴史的連続性の有無、そして最後に現代の都市に移住してきた先住民や混血(チョロ)の音楽や言動、嗜好などがペルー人のアイデンティティに包摂されつつあることを指摘している。どれも真摯な研究による成果であり、編者の全体構成の理解を助ける解説とともに、専門書ながらアンデス文明に関心のある一般読者にも興味深く読める。
(世界思想社 2008年3月 391頁 3600円+税)
『ラテンアメリカ時報』2008年秋号(No.1384)より