連載エッセイ228:設楽知靖 「侵略」と「国境と移民」を巡って - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ228:設楽知靖 「侵略」と「国境と移民」を巡って


連載エッセイ225

「侵略」と「国境と移民」を巡って
「コロナ禍の功名」=本棚をじっと見つめて=

執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)

ようやく、コロナ・オミクロン株の流行が下火となる傾向が見られてきた。実に三年の長期にわたり、後期高齢者にとっては篭城の日々であった。皆様は如何お過ごしでしたでしょうか。日本には四季があるが、毎日、散歩も満足にできないと”春眠暁を覚えず“という言葉の通り春はとても起きられず、これが通年となると春眠どころか、猛暑の外出もできない夏眠となり、“天高く馬肥ゆる”の秋も、秋の朝長となり、挙句の果ては『冬眠』となってしまいそうであった。

そこで、学生時代からラテンアメリカ地域に興味を持ち買い集めた、この地域関連の書物を、ある時は大学の講義で活用したりしたが、そのすべてのページを読んだものばかりではなく、コロナ禍で本棚をじっと眺めているうちに、時間があるので手に取って読み返してみることとした。その書物のいくつかについて、その考察を述べてみることにしたい。それは、
私にとって、”コロナ禍の薬効“となればうれしいことである。この視点を絞るとすれば、一つは『侵略』であり、もう一つは『国境と移民』であると勝手に思うのである。

その1:思想と行動の一貫性『ラス・カサス伝』

ラス・カサスは皆様ご承知のごとく、スペインの征服劇の中で征服地でのスペイン人入植者の先住民インディヘナに対する残虐な行為を本国に対して、聖職者としてあらゆる方法で改善努力をした人物である。しかしながら、82歳の生涯を終えるまで、それは実現できず失意のうちに次世代へその希望と自らの思想を残した人でもあった。今、世界は『侵略』という繰り返しで揺れている。

さて、正式には、バルトロメ・デ・ラス・カサス、1484年、スペインの南部アンダルシア地方セビ―リャ生まれ、彼の父はコロンブスの第二回航海に参加してエスパニューラ島へ渡ったと言われている。彼自身は、1502年にエスパニョーラ島に渡り、そこでスペイン人征服者の先住民インディヘナへの残忍な行為を目の当たりにした。しかし、彼自身もインディヘナを使って、農業と金の採掘を行ったとされている。

*エンコミエンダ制の厳しい規律

1503年にイサベラ女王は『エンコミエンダ制』を導入したが、この制度には厳しい規制があり、その中に、インディヘナをカトリックに改宗させる、インディヘナを奴隷ではなく自由な臣民として働かせるという規約があった。その後、フェルナンド王もこの制度を継続させ、これを『ブルゴス法』として定めた。この間にドミニコ会士、モンテシ-ノスはインディヘナの人間性を訴えたが、聞き入れられなかった。一方、ラス・カサスも従軍司祭としてキューバ遠征に向かうこととなり、これにはエルナン・コルテスも参加していた。ここでも彼は、征服戦争のあり方に疑問を持つようになり、1514年8月15.この聖母被昇天の祝日にエンコミエンダ制を厳しく非難した。これを一般に、ラス・カサスの第一回目の『回心』とされる。 

なかなか訴えが認められないなか、スペイン本国へ出かけて、アンティ―レス諸島全般への改善策を発して『地域共同社会の建設』を目指し、注目されているのは、“インディヘナの村”と“スペイン人の町”という町村区画を設けて共存する計画を提案し、その中で聖職者の役割を重視することを主張した。

現在のようにインターネットなどがない時代、船舶での書簡のやりとりで、現地に駐在する官史たちは本国と連絡を取って、ラス・カサスの『改善策』をつぶそうとしていた。当時の植民地統治組織としては、ローマ法王庁を中心として、スペイン国王,通商院
(Casa de Contratacion)、インディアス会議、アウディエンシア(裁判所)などが本国と植民地の間にあって機能させており、ラス・カサスは国王に直訴したり、現地スペイン人植民者とインディへナとの間で様々な折衝に務めた。

*政治の世界から、一時、学問の世界へ

1522年9月、ドミニコ会修道院に入り、第二回目の『回心』をし、しばらく政治の実践から離れて,神学と法学の学問に従事して、全ての人々を真の教えに導く、唯一の方法についての『布教論』という論文を発表した。これは、過去の教訓から『伝導活動と戦争は両立しない』、『布教活動に於いて、最も重要なことは愛情である』の信念を説き、イギリス人伝道師の振る舞いとヌエバエスパーニャのモクテスマ皇帝や、ペルーのアタワルパ皇帝に対してとった態度を比較して見ると説いた。

ラス・カサスは不正による新世界の荒廃に対する枢機会員の責任を鋭く追及し、この語調から神学と法学の知識を備えた、新しいラス・カサスがみられる。今日の世界の混乱の中にも地域ごとに、何らかの共通点が見られるのでは。ラス・カサスはスペイン人のインディヘナに対する30年間の悲惨な状況、さらに15年間以上の改善策についての研究と検討を行ってきた人間として、当時の許容しがたい状況を正すための計画案を上程した。

*現地行動

1536年6月末から、ニカラグア、グアテマラ、メキシコを訪問して教会会議に参加して征服戦争を非難する説教を実施、アステカ帝国を征服したエルナン・コルテスとも会談し、副王の平和的改宗化の承認を得て、カルロスI世はエルナン・コルテスとエンコミエンダの『導入禁止』の勅令を発布したが、コルテスは1522年5月に国王へ車間を送り、『財源』としての必要性を訴えた。これは経済的既成事実を主張したものと思われる。

1542年11月20日、『インディアス新法』が制定されたが、これはインディヘナ保護の方向であったためラス・カサス主導ととらえられて植民地側から強い反発が起こった。
このような状況のなか、ラス・カサスはメキシコからスペインへの最後の航海として、1547年3月中旬、ベラクルスを出航し、これはスペイン・フェリッペ皇太子へ『インディアスの実情』を報告するためであったが、この時、スペイン人植者側から、すでにラス・カサスを非難する書簡が多数届いていた。また、『エンコミエンダの世襲制』の問題が起こっていたのである。

ペルーではエンコメンデロがクスコ、ワマンガ、アレキパで決起し、世襲化の問題はこれらの圧力で承認されてしまった。このときすでに、ペルーのスペイン人植民者のエンコミエンダ所有者は480名に達していた。フェリッペII世のエンコメンデロの要求を認めたことは、ラス・カサスにとっては”裏切られた“こととなった。

*夢やぶれ,失意のうちに、彼の思想は後世へ

晩年のラス・カサスは1559年から1561年、スペインのトレドに滞在、そして他界するまでマドリードのヌエストラ・セニョーラ・デ・アトチヤ修道院で暮らした。『インディアス問題』を若い修道士に伝えることを目指して数々の著作を残した。こうして、ラス・カサスは1566年7月18日、木曜日、アトチヤ修道院にて、帰天、82歳であった。
自らの思想と行動への理解は、後世の読者に託され、『征服は不正極まりない圧政、盗んだ財は返さない限り救霊は得られない』と、彼は1492年のコロンブスの新大陸での行為も許さなかったとされる。今日も負の歴史はくり返される!!
 (資料:『ラス・カサス伝』染田 秀藤 著、岩波書店)

その2.「国境と移民」

米国とラテンアメリカ地域、とくに『米墨間』における経済格差に基づく、大きな移動が、その歴史の節々で起こり、『不法入国』という政治問題に発展している。特に昨今の米国トランプ政権の米墨間の『壁』の建設問題はさまざまな波乱を引き起こしている。この問題を、二つの書物と最近の新聞報道から考察してみることとしたい。

*本来われわれの土地

スペイン語を話す人々が、今のアメリカ合衆国の三分の二を領地としていた。これらの土地はスペイン人よって発見され、初めて開拓されたもので、”ヒスパニック“(Hispanics)は
現在もスペインの土地と考えている人は多い。勿論ここには多くの先住民が生活していたが。1780年、スペイン王はフロリダからカリフォルニアにかけて、そして、ミシシッピー川岸から五大湖、ロッキー山脈に至る地域を領地として宣言した。イギリス人が西へ行く前にスペイン人探検家がほとんどの地域を探検していた。

*メキシコ北方の複雑さ

1810年のメキシコ独立運動時には、メキシコ軍が一時北方から撤退したことに伴い、先住民アパッチ族などが襲撃を活発化させたが、1821年になると軍人入植者とともに改宗ユダヤ人の入植者が増加した。

同年,イツルビデ政権は『アダムス・オニ―ㇲ条約』の結果、安心感を持ったため、外国人の入植を妨げるという従来の方針を取らず、米国入植者の入国を奨励しながら規制する方が賢明であろうと公式に表明した。結局、メキシコとは異なり米国人はテキサスに移住したがっていたのであった。米墨戦争の直前、1840年代半ばでは南西方向ルートと中西部から米国人農民が中心の開拓者の大移動が始まった。これはメキシコ側の北方統制が独立闘争などで緩やかになっていた点でもある。

この後、米墨間の複雑な関係として、”アラモの戦い“、”サンハシントの戦い“{ベラスコ条約}によるテキサスの独立、その地のテハーノ(そこで生まれたメキシコ人)は最悪の扱いを受けた。そして、『米墨戦争』に。つまり、メキシコは1848年の『グアダルーペ・イダルゴ条約』によって米墨戦争が終結するまで、アメリカ合衆国内の『スペイン占有地』の多くを管理していたのである。

戦争で、米国が獲得した50万平方マイル以上の土地にはスペイン語を話す人が10万人近く居住していた。失った国土に住んでいたメキシコ人はメキシコ領へ移住するか、米国南西部となった地域にとどまるか選択を求められたが、条約の九条は“征服地域のメキシコ人は自由と財産の享受を含む米国市民としての全ての権利を保証されていた。しかしながら、アングロの大量の流入により、メキシコ人は様々な圧迫感に耐えていた。それまでは、かなり地域間で異民族調和が保たれていたが、鉄道の発展で東部からの移動が可能となって、徐々にそれは破壊された。米国の”南北戦争“まではテキサスではニ文化環境がつくられていた。

*最初の移民の流入

最初の移民の大きな流入は1900年から、1930年の30年間に起こった。この時期に100万人以上のメキシコ人が非合法か、正規でないルートで入国し、すでに住み着いていた50万人のメキシコ人に加わったとされている。1924年に『リード・ジョンソン移民法』が可決して、第一次大戦と戦後の米国への移民入国制限が行われ南・東欧人の大量流入が制限されて南北アメリカの移民も、読み書きテスト、入国税によって影響を受けた。
しかしながら、戦中、戦後の経済好況期に米国の労働需要の高まりで、メキシコ人に対しては法律適用が厳しくなかった。

*1920年代、メキシコ革命期の移民

革命の激動期直後、グアナファ-ト、ハリスコ、ミチョアカンの諸州から最大規模の出国が見られ、各階級の亡命者、大半の貧しい農民など100万人が国境の向こうの良い生活を求めて移動した。移民を引き付けたのは、鉱業、鉄道工事、保線、農業が大多数であったがった。また、この時期、米国南西部では、農村経済から農業経済へ変化し、この発展にメキシコ人の安い労働力に依存した面もある。

1902年、『ニューランツ開墾法』では一連の灌漑計画が盛られ、農業は膨大な数の労働力を必要とし、1920年代までにはメキシコだけが必要な労働力を提供できる立場にあった。

*大恐慌期の移民

賃金が急落し、メキシコ人労働者の多くは農村から都市部へ移動し、一方、賃金の安い仕事を避けてきたアングロも職を求めて競争は激化した。米国の不況により、本国へ帰還するメキシコ人も多く、この時期は新たな移民法を制定する必要はなかった。メキシコ人がメキシコへ帰還するより米国にとどまるほうに利があると感じ始めたのは第二次大戦中であった。メキシコ系米国人の知識人も育ってきてアングロの主流文化とメキシカン・ルーツ文化の機能的バランスを目標とするとする動きもあり,『ラテン系アメ。リカ市民統一同盟』(LULAC)なる組織が結成されたりした。

戦争によって生じたそうだいな労働力不足を改善するために米国は『ブラセロ計画』(theBracero program )という移民管理政策を実施、短期的に米国西部で働くためのメキシコ人を採用することに政府が保証する方策を考案した。この協定で1947年までに25万人のメキシコ人が移民し、さらに1964年12月まで22年間延長され、480万人を雇用した。

メキシコの人口増加と米墨間経済格差により非合法移民が増加し米国のアグロビジネスでは非合法移民が歓迎であったが、冷戦に伴う外国人嫌いにより米国移民局は非合法移民を本国へ送還する1954年6月17日に『ウエットバック作戦』を数か月続けた。このなかで、不法移民を斡旋する『コヨーテ』(Coyote)とか、道案内をする『ポーヨ』(Pollos)という商売が生まれた。

*東西冷戦期の移民

1970年代に入ると、『東西冷戦』の影響による『中米紛争』が起こり中米各国から難民、移民が増加し、以降も最近の移民はメキシコ人ではなく、貧困のニカラグア、エルサルバドル、グアテマラ国籍が増え1990年半ばまでのロスアンゼルス市には100万人以上の中米出身者が居住している。非合法移民の目的地は南西部であったが、今やテキサスよりカリフォルニアにひきつけられている。経済的理由で貧しい農民のから都市部出身者が多くを占めるようになった。土地を失った農民の大部分が人口過剰な村を捨てて都市へ、そして、そこからの移民は35パーセント、非合法入国者は48パーセントに上っている。

1985年のメキシコ大地震後、都市を捨てて北へ向かった多数の移民もこれに含まれている。その中で、インディヘナも多数おり、彼らは固まって居住する傾向があり、オアハカ出身のミステカ共同体が、ヒューストンにはマヤ民族の居住地が存在する。

中米紛争前は亡命キューバ人、プエルトリコ人が米国東部に集中していたが1986年,米国移民改正管理法でメキシコは大量の合法移民を送り込んだが、この法は『非合法移民』の恩赦、『特別農業労働者』により240万人近くの非合法移民が申請して合法的身分が認められた。1990年代までに500万人の非合法移民の内、54パーセントがメキシコ国籍であった。また、1994年発効のNAFTA は国境にメキシコ側の労働力を吸収する目的でマキラドーラ(Mauiradora)を建設して保税加工エリアを設けた。

*米国各地に居住するヒスパニックの相互関係

第二次大戦期には、地位改善のため軍隊に入隊、戦後は生活を大きく変えた。アトランタ近郊、コロンビア系はフロリダ、ニューヨーク、最大のヒスパニック都市はロスアンゼルスで1980年代にエルサルバドル系は二倍に、中西部もヒスパニック・コム二ティ―は拡大。シカゴ中心地区は低賃金、長時間労働者が多い。

プエルトリコ人は米西戦争の結果、米国市民権を得ている。『言語は文化の接着剤』と言われてバイリンガルの勢力が仕事を求めて闘っており容易なことでは排斥することはできなかった。アイルランド人は文化に対して厳格な態度を貫く民族でヌエバエスパーニャ(メキシコ)固有のカトリック信仰に対して、一片の同情も理解も示さず,教区の学校では英語を強要した。アングロたちの人口が減り、ヒスパニック人口は増え続け、さらにプロテスタントの各派がヒスパニックの信仰のなかに食い込みつつぁる。ヒスパニック系の人たちは聖職者を帯同することはなかった。1972年に『エンクエントロ』(出会い)という会合が開かれ、カトリック聖職者と一般の信者との話し合いがワシントンのカトリック大学で開催され、三回開かれている。

*首都ワシントン、政権交代による社会の真実

ヒスパニック人口は増えているが、一般には政治に無関心と言われ、組織化して協力することがほとんどない。ただし、キューバ系は裕福な人が多く、政治的な影響力を発揮している。教育問題に関しては、1996年までに全米1,100校以上のコム二ティー・カレッジに在籍していた1,000万人の学生の36.3パーセントをヒスパニックが占めていた。また、二言語教育と言いながら、米国公立学校の全教員の3.9パーセントのみがラティーノと言われている。ヒスパニック全体の30パーセント近くが米国永住権を持っているが、いまだ”米国市民“ではないという法的身分でいる。

一方、米国連邦政府を牛耳っているアングロ、町を抑えている黒人はヒスパニックを完全には受け入れようとはしていない。ヒスパニック系が『政治の世界』に入ってゆくためには、『自分は何処へ行き、何を言い,誰と付き合えばよいか』を悟ることが必要と言われている。また、『ヒスパニック』の呼称は地域によって違い、これを間違ってはならない。『チカーノ』という名称はカリフォルニアやテキサスの一部で認められているが、ヒスパニックの中産階級では受け入れられない、『メキシコ系アメリカ人』の方が好まれていた。1970年半ばになって、『ヒスパニック』が全国的に通用し始めた。

米国政権の『ラテンアメリカ政策』において、民主党、共和党政権によって、大使、経済、インフラ分野の人事でも、その対応がさまざまであったが、その策定、実行において、アングロの持っていない技能や洞察力が発揮されるようになってきた。『フォークランド紛争』時では、英国支持という米国の政策には反対の意思表示はしなかった。ヒスパニックの人々はベトナム戦争に関しては、リンドン・ジョンソン側にとどまったが、中米問題についてはレーガンから早々に手を引いて行った。ヒスパニックの人々は『とても近く、飛行機や船舶ではなく、自動車で行ける距離にあり、同じ教会を共有し、かつては同じ国の一部であった』地域に対しては『戦争』ではなく、『平和の計画』を望んでいるのである。

*格差問題からの移民

「格差」問題は、あらゆる面で複雑な要素を生むが、隣接する両者は常に『平和』をベースに話しの場を設けて、決して戦ってはいけない。2080年には米国のヒスパニックの人口は多く見つもって14,700万人と予測している。『共生』の道は描けないか。

(資料:『メキシコ系米国人。移民の歴史』 M.G.ゴンサレス著、中川正紀 訳、明石書店
『米国社会を変えるヒスパニック』トーマス・ワイヤー著、浅野 徹 訳
日本経済新聞社

その3.2022年,米国国境における移民・難民

*ティファナに押し寄せる移民と難民

2020年、米国トランプ政権はコロナウイルスの感染拡大を理由に、移民や難民の受け入れを厳格にする『タイトル42』を発し、国境の壁の建設も行った。そのなかで、2022年2月にロシアが、突然ウクライナへ侵攻し多数の難民が流出、米国バイデン政権は直ちにウクライナ難民の受け入れを表明し、これらの難民はビザのいらないメキシコを経由して米国へ入国すべく、国境の町ティファナに押し寄せた。この国境には連日、600人から800人が押し寄せているが、ウクライナ難民は三日ほどで入国できるが、中南米からの難民や移民は避難所でいつ許可が下りるか分からず、何か月も待つ人々が多い。

*移民支援20か国署名『米国・カナダ・中南米共同宣言』(ロスアンジェルス宣言)

この宣言は、移住先や出身地、通過地点などの安定と支援を促進する。また、ブラジルなど中南米各国が各々入国している不法移に対して合法的に滞在できるようプログラムを提供することが明記されている。米国政権交代で増加、越境者の国籍はメキシコ、中米以外にエクアドル、ブラジル、ハイティ、キューバなどとなっておりバイデン政権でも『タイトル42』は維持されている。

*増える移民、受け入れにも不満

かつて炭鉱の町、今も半数ほどがドミニカ移民といわれる米国・ペンシルベニア州ヘイスルトンの例では、ヒスパニックが多数となっていることに『彼らとは文化が違う。白人、とくに高齢者にとっては適用するのが難しい』との意見が聞かれるという。また、移民は出身地の生活様式を、そのまま持ち込んでいるので、町の人は適応する準備ができていないとも。

一方で、さびれた町の空き店舗を復活させたり、企業の配送センターや製造工場では移民は欠かせない存在となっている。若者は、『歴史とは川の流れの様なもの、われわれわれは、その川の流れに乗って、常に変化してゆく』ともとっている。

*越境は『コヨーテ』が頼みの綱

中米ホンジュラス、サンペドロスーラでも、経済格差と治安悪化で米国を目指す人々が多い。ある人は、妻と子供をロスアンジェルスへ送り出した。自分は金がなかったので行けなかった。これらの問題が、家族を引き裂いているという。米国への斡旋業者は”コヨーテ“と呼ばれ、これらの業者に頼んで送り出すと言われている。その費用は一人当たり7,000ドルとも言われ、米国の規制が厳しくなると費用は倍増するとも。この高額を払えない人は『移民キャラバン』に参加して徒歩で行くことになる。

さらにメキシコで貨物列車に飛び乗るものもおり、この貨物列車も度々、強盗に襲われる、まさに命がけである。こうして国境にたどり着いても『鉄の壁』の前にはどうすることもできず、グアテマラ、ベネズエラ、ホンジュラス、キューバ、ニカラグアの人々が、ただ辛抱強く待つ姿が見られる現状がある。2021年から一年間に拘束された人数は237万人に達すると言われる。

*リオグランデを渡る人が急増

もう一つの国境の町、米国、テキサス州、イーグルパスには越境を果たせなかった人たちの墓標が並ぶ。墓標には“氏名不詳”(John Doe)とだけ記されているという。この川の深さは、大人の腰のあたりと言われるが、深みにはまると溺れてしまう。ここから米国側200キロメートル先はサンアントニオの町である。民主党のバイデン政権は難民受け入れを年間、12万5,000人と述べているが、共和党は中間選挙時には、国境警備に力を入れる様子を避けたようである。
(資料:朝日新聞:2022年)