『中米・チアパス・ユカタンの旅 上・下 マヤ遺跡探索行 1839〜40』 ジョン・ロイド・スティ−ブ - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

『中米・チアパス・ユカタンの旅 上・下 マヤ遺跡探索行 1839〜40』 ジョン・ロイド・スティ−ブ


米国で法律事務所をもち政治にも関わり、他方欧州や中近東の旅の紀行記作家としても評判を得ていた著者が、英国の建築家にして画家のフレデリック・キャサウッドとともに1839年から熱帯の密林にある古代遺跡を調査するため中米旅行に出る。しかも著者は米国の駐中米公使として現地の政情等を見る使命も担っていた。スティーブンスの学者的な正確かつ冷静な記述とキャサウッドの精緻で美しい挿絵を入れた本書が1841年に刊行され、当時ベストセラーになり現代まで版を重ねている優れた紀行記である。

8ヶ月間に4800kmを踏破し、8つの古代都市遺跡をめぐる探訪の旅は、現在のベリーズから始まった旅は、まず汽船でカリブ海を中米地峡に沿って南下し、内陸に分け入ってマヤのコパンに入るが、遺跡全体の見取り図、石像の正確なスケッチを記録している。その後中米連邦の首都グアテマラ市に入るが、当時中米は連邦国家の権力集中を主張するモンサン率いる自由主義派と各地域の主権維持を主張しグアテマラ大統領に就任して独立を宣言していたカレーラ派が武力をともなう抗争中で情勢は目まぐるしく変わり、連邦政府の存在が定かでないところから信任状を出すべき政府を探すべくグアテマラ市を離れ、いったんコスタリカのサンホセまで行き、反転してニカラグアのマサヤ、マナグアを、レオンを回りエルサルバドルのサンサルバドルに入るが、内戦はいよいよ激化し、両派の戦闘状態の真っ直中にいることになり、グアテマラに引き返す。

(このエルサルバドル行きの間、キャサウッドはキリグア遺跡を訪れている。)

カレーラ軍がモンサン軍を破ったとはいえ政情が安定しないグアテマラを離れ、アティトラン湖を通りキチュー族の首都であったサンタ・クルス・デル・キチュー遺跡に寄り、ケツァルテナンゴに到着するが、優勢に立った地域主権派の連邦派に対する残虐な行為は目を覆うばかりだった。北上してメキシコのチアパスに入り、パレンケ遺跡に向かい、ここで詳細な調査を行った後米国へ帰国するが、このパレンケ遺跡の配置、主要建物、石彫などの観察と解釈、精緻なスケッチも本書の大きな魅力になっている。

著者は1841年に再びキャサウッドとともにユカタンを旅し『ユカタンの旅行事物記』を発表した後実業家に転じ、パナマ地峡横断鉄道建設会社の社長になったが、持病のマラリアに加え黄熱病によって健康を損ねて47歳でニューヨークで没した。

当時ギリシャ、ローマ人あるいはイスラエルの支族が渡って造ったという説さえあったマヤ文明に、著者は冷静な観察で軽々な推論を行っていないが、石碑の人物像を王、王妃と推測していることは、100年後にマヤ文字の解読が始まって証明された。170年前の紀行記であるが、マヤ遺跡のかなり正確な紹介、当時の中米連邦解体の政情描写、訪れた都市や山村の人々の姿、当局や同行者との交渉などの記述も面白く、1000頁近い大部な本であるが一気に読ませる。上智大学イシパニア語学科を出て在グアテマラ大使館に勤務した後にグアテマラに40数年住む訳者が本書訳出への情熱をかけた労作でもある。

(児嶋桂子訳人文書院2010年2月387454頁各5800円+税)