著者は日系二世としてリマに生まれ育ち、10歳の時に日米開戦とともにペルー政府から「敵性外国人として強制連行され、米国のテキサス州のメキシコ国境に近い家族抑留所に送り込まれた。その後一家は他の米州各地からの日本人とともに日米捕虜交換船で1943年に帰国したが、その後は日本に居住しながら勉学に励み、会社勤務、大阪万国博覧会のアルゼンチン館副館長を務めるなどする一方でペルーに何度も足を運び、日本人移民や強制収容された日本・ペルー在住の関係者たちに話しを聞き、米国の旧収容所跡を訪ねて、この忌まわしい記憶を記録に留める作業に傾注してきた。
「第一章移民時代」は、1899年に始まったペルーへの日本人移住の歴史を自身の家族史とともに紹介し、「第二章排日の風強く」では、1929年の世界経済の大恐慌以降悪化したペルー経済の中で日本人移民導入にも熱心だったレギア政権が崩壊し、ペルー官民の日本人に対する排斥が生じ、「第三章監禁所の日々」ではついに日米戦争の勃発によってプラド政権は直ちに日本語新聞社の閉鎖、日本人個人・企業の預金等凍結、集会の禁止などを打ち出し、国交断絶とともにペルー在住日本人の追放を行い、その多くを米国政府に引き渡し、米国各地に設けられた収容所での生活が始まった。「第四章日本へ」は、1943年に著者一家が交換船で2ヶ月半をかけて帰国したが、荒廃した日本で生活する人、ペルーに残った人、戦後再度ペルーへの渡航を望む人たちにはそれぞれ苦労があった。「第五章戦後」は、1976年に追放後初めてペルーを訪れた著者が親戚や友人と再会する。その後度々ペルーを訪れるようになった。戦時中の日本人強制収容に対しては、米国レーガン政府は1988年に謝罪と一人当たり2万ドルの賠償をする法律を瀬一縷させたが、米国に強制連行され不法入国者に仕立てられた日系ラテンアメリカ人は対象外であったため、その後も長く苦しい集団訴訟が行われ、ついに1998年に謝罪と一人当たり5千ドルの賠償を払うことで和解せざるを得なかった。クリントン大統領が署名した謝罪の手紙が送られて来たのは、奇しくも1999年の日本人ペルー移住100周年の時だった。
当時の経緯を知る人たちが高齢化していく中で、戦中戦後のペルー日系人の強制連行の歴史があったことを克明に記録しようとしている著者の危機感と熱意を強く感じさせる労作。
(連合出版 2010年2月 342頁 2,500円+税)